徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

迎合の人生を行く

社員食堂にて、知り合いのお姉さまがお一人で休憩をなさっていた。比較的とっつきやすいお姉さまだったもので、躊躇なくご一緒させてもらった。たわいもない話をした後、彼女は休憩から戻って行った。

その様子を見ていた同期の友人が僕のところに寄ってきた。彼に映った僕は、とっても下手に出ていたようだった。ある種機嫌を取っているような、ある種の滅私のような。全く無意識に会話をしていたので、なるほど日々の僕の会話はそのように映るのかと参考になった。

人と会話をするとき、相手の土俵で会話を進める人と自分の土俵で会話を進める人の二つのパターンがあるように思う。自分の話をすることが多い人・人の輪の中心にいる人はどちらかといえば自分の土俵で会話を進めるタイプだろうし、聞き役に回ることが多い人・人の輪の中でガヤ入れをすることが多い人は相手の土俵で会話を進めるタイプだ。たいていの人は使い分けていると思う。よほど不器用でなければ。ただ趣向として、どちらを好むかは分かれる。

お判りになるように、僕は率先して人の土俵に上がるタイプである。自分がふんどしを履いていても、相手が竹刀を持っていたら迷わず自分も竹刀を手に取る。無理矢理ハッケヨイすることはほぼしない。何故って、特にこれといった理由があるわけではないのだが、そうしなければ生きてこられなかったか、そうしていた方が生きやすかったのだろう。

なんやかんやでみんな喋りたい気持ちを持っている。僕も君もあなたも彼も。だから相手に話をしてもらってこちらが相槌を打つスタンスを取ると、なんとなく相手は満足する。また話したいと思ってくれるかもしれない。ともすれば一緒にいて楽なやつとでも思ってくれるかもしれない。聞き役にはそんな良さがある。と、思っている。

高校受験するとき、歴史も何にも知らなかった僕は将来どうなっていたいかと言われ、教科書に載りたいと話した。坂本龍馬みたいに!現状なんのことはないサラリーマンなのだが、なるほど薩長を引き合わせるにはやはりお互いの土俵に上がらないことには受け入れられないのではないだろうかと思い当たる。志した人間付き合いの道は間違いじゃなかった。迎合していると言われようと。後は大きな大義があれば教科書認定待った無しだろう。うむ。

寒い夜に上京の寂しさを思い出す

上京。

18歳の僕はポーンと1人東京に飛び出し、暮らしをスタートさせた。主に所属する団体とはうまく馴染めなかったので、最初の一、二年はだいたい何してても寂しいし苦しい日々であった。身寄りがないわけではなかったが、そこまで強い繋がりがある身内なわけではなかったので負んぶに抱っこをしてもらって寂しさを紛らわすこともできず、当時80歳だったアパートの大家さんとファミレスでお話することが当面の楽しい時間であった。

人混みであればあるほど人と人との距離は遠く、一人一人の重みは軽くなる。人の中に入っていくほど逆説的に1人を痛感させられたものだった。

僕は焦っていた。東京は楽しいものというのが定説で、大学から近い家はたまり場になるはずだったのに、全くそんな様子もなく過ぎていく1人の日々に焦燥を抱いていた。同時に、これまでの人生で培った人付き合いのメソッドを完膚なきまでに叩きのめされ、変なヤツと言われることが恐怖だった。嘆いていい人にはいいだけ嘆き、強がりたい人に対しては一生懸命に強がった。なんとかしたかった。なんとかして東京を好きになりたかった。楽しいだろうと言われて、苦笑いを噛み潰して笑顔を作る、そんな自分が嫌だった。

僕は罵声でも唾でも吐いて散らかしてやりたかった東京も、誰かの故郷なんだと思うことにした。故郷はどこまでも優しい。北海道から出てきた自分が一番よくわかっていた。だからこそ、この街もあの景色も、嫌いな東京のあれこれにだって必ず優しさがあるはずだと信じた。いろんな路地を曲がった。生活の臭いがプンプンする知らない通りを自転車で駆けた。初めて通りがかった定食屋に入ってマスターと喋ることで、人が人として存在できる喜びを感じた。それは人混みにおける人間の軽さとは全く違っていた。故郷は確かにそこにあった。

薄く細かい幸を繋ぎながらもがき続けるうち、否応無しのコミュニケーションとかにより少しずつ東京での自分の立ち位置が定まってきた。ぐずぐずだった心のくすみを、少しずつ時間が洗ってくれた。なかなかあの日々を良しとすることはできないかもしれないが、当時赤の他人の故郷だった東京を、今なんとなく自分の故郷っぽい顔をして生きることができている。そしてきっと東京に出てきた誰かの気持ちを参らせる側の人間になってしまっている。

居場所が定まるまでの東京は、僕たちを根無し草になったような気持ちにさせるが、居場所が一度定まると東京独特の匿名性が気持ちよく思えてくる。人が人を呼び、匿名が匿名を育てていく。幼い頃に暴力を受けた親が我が子に暴力を振るってしまうように、僕らも上京したての他人に寂しさの刃を突きつけてしまうのだ。それも、無意識のうちに。

品川にて、スーツケースを転がした人が電車に乗り込んでくる。行きの道か、帰りの道だろうか。もうすぐ春が来る。東京にはたくさんの楽しさと寂しさが芽吹くはずだ。たくさんのスーツケース達が楽しさを最初に感じられたらいいと思う。寂しさを飲み込み切れたらいいとも思う。田舎者の集合体が都会の仮面をかぶっている街、東京。誰も彼もが匿名を決め込む根底に寂しさが流れていれば、それをお互いに汲み合う事ができれば、どれほど皆が生きやすい東京になるだろう。

今日は冷える。月もまた綺麗である。

首都大学東京に抱く違和感

首都大学東京。「首都大」とかって呼ばれている、公立の大学として、非常に高い難易度と人気を誇る大学である。僕なんかが背伸びしたって跳躍したって合格できていたかわからない。でも、首都大学東京という名前がどうしたっておかしいことはわかる。誰もが抱く違和感だろうし、その違和感の出処を探るのは非常に簡単だ。だがあえて今一度、違和感にメスを入れていきたいと思う。しかし当方国語的な話は全く持って専門外なので、ラフなスタイルでメス入刀する。

とかいって入刀もなにも、問題点はただ一点。語順である。

カレーパンで考えてみよう。

カレーパンはあくまでもカレーが中に入っているパンだから、カレーパンである。これは、名詞を説明する修飾語である形容詞は、名詞の前に置かれる約束に基づいた語順だ。もしかしたら例外があるのかもしれないけれど、25年近く生きていてカレーパンがカレーだった例がないので、ほぼほぼ100%形容詞は名詞の前に来る。この法則は言葉の飾り付けが増えたって変わらない。例えば、「佐藤さんが生み出した糖度の非常に高いかぼちゃであるサトウカボチャをふんだんに使用したドライカレーが中に入っているパン」を説明しようと思うと、「サトウカボチャドライカレーパン」になるわけだが、これはサトウでもカボチャでもドライでもカレーでもドライカレーでもない。パンだ。

このように単語が羅列されるタイプの修飾ラッシュの面白いところは、最後に来た単語の形態に依存する点にある。「サトウカボチャドライカレーパン」の後ろにうっかり「粉」をつけると、「サトウカボチャドライカレーパン粉」となり、突然パン粉になってしまうし、うっかり「トースター」をつけると「サトウカボチャドライカレーパントースター」となり、ものすごくニッチな家電と化す。

前の名詞が後ろの名詞を説明し続ける日本語。スペシウム光線は光線だし、キン肉バスターはバスターだ。でも、首都大学東京は違う。首都大学東京は東京ではない。

これは言葉の異常事態なわけだ。カレーパンがカレーになってしまうのと同義なのだ。レストランに行ってビーフシチューを頼んだと思ったら、肉塊(ビーフ)が出てきてみろ。クレームを入れる気も失せるだろう。それくらいのぶっ壊れ言語こそ首都大学東京なのだ。あくまで首都大学東京は大学であり、自明のごとく「東京首都大学」もしくは「首都東京大学」なるべきだった。どんな力が働いて「首都大学東京」となったのだろう。

首都大学東京 - Wikipedia

なんとなく読んでみると、前石原都知事虎の子の公約により生まれた大学であり、ネーミングは公募だったようだが実のところどうなのかはわからない。素人ではとても思いつかない語順である。

やっぱり芥川賞作家でもないと思いつかないんではないだろうか。

センサー式の蛇口のスイートスポットについて

最近蛇口をひねることがなくなった。センサータイプがあらゆる公共のトイレに整備されてきたためだ。蛇口ないしはノブをひねって水を出すのは家でだけ。そんなライフスタイルが当たり前になりつつある。蛇口をひねらずに水を出し、センサーで石鹸が出てきて、ジェットタオルで手を乾かす。すべてが赤外線で管理されている最近の手洗いはすごい。何にも触れることなく一連の動作を完結してしまうのだ。抜群の衛生管理。一昔前の人が見たらまるで魔法かなにかを使っているようにしか見えないだろう。

行く先々でトイレに入ってきた。尿意と便意は全く僕のコントロールを超えたところから降ってきて、「トイレに入ってよ、トイレに入ってよ。」とせがむ。仕方ないなぁとトイレに入る。用を足して、手を洗う。もちろん蛇口はセンサー式。手をかざす。

この瞬間である。果たして何人の人間がすんなりと水を出すことができるのだろうか。センサーのスイートスポットを、初見で当てることができるセンサーの申し子が世の中にどれだけいるというのだろうか。

僕は数々の蛇口と付き合ってきた。「ここ?ここかな?もうちょっと奥?近く?どこがいいの?」と、無機物の急先鋒である蛇口とイチャイチャし続けてきた。目を隠して僕と蛇口とのやり取りを鑑賞したらきっとそれは恋人同士の営みにしか見えないだろう。心なしか蛇口の造形がいやらしく思えてくる。ひとしきりイチャイチャしつくして、やっとこさスイートスポットを見つけたと思ったらすぐに水が止まり、おかしいなと思って手をいろいろな位置に動かしても出てこず、手を一回引っ込めて再びかざしてみる行為を続けているうちに、どじょうすくいみたいになって楽しくなっちゃう。ふと我に返って、なにやってんだろって虚しくなる。そんなエブリデイ。

会社でよく使うトイレってのは大体決まっていて、そこの蛇口のスイートスポットは流石に長い付き合いなので完全に把握しているつもりである。妻みたいなものだから。でも、たまに違うトイレに行って別の蛇口に浮気をするとその子は全く違う場所で反応するもんだから困ったものである。そう、蛇口にも個人差…いや、個口差があるのだ。手前がいい蛇口、奥がいい蛇口、近づければ近づけるほど反応する蛇口、ちょっと離すくらいがちょうどいい蛇口。みんな違ってみんないい。誰がどうとは言えない。

隣で新参者が僕の配偶蛇と一悶着繰り広げている。心のなかでアドバイスをする。そこじゃないよ、もうちょっと左側だよ。もっと近づけなきゃわかってくれないよ。少し微笑んで僕は側室的な存在の蛇口のスイートスポットを巧みに突き止めて水を出し、颯爽とトイレを後にするのだ。

俺もあんな時期があったな…なんてほくそ笑みながら。

たとえマナーが云々と言われても、別に電車の中で化粧を咎めはしない

本日、日中、電車に乗っていた僕は、斜向かいのアラサーと思われるお姉さまに釘付けになっていた。彼女は化粧をしていた。

世の中一般において、電車での化粧については物議を醸しがちな話題である。家でするものだ。はしたない。行儀が悪い。男性が電車の中で髭をそっていたら嫌だろう。まっとうな避難が轟々と押し寄せている。言うとおりで、まったくもって美しい行為ではない。僕も電車の中で髪の毛にワックスをつけたりはしない。髭も剃らない。歯磨きもしない。これらと同列の行為を女性がしていると思うと、なかなかに厳しい現実である。でも、僕は嫌いではない。電車の中で化粧をしてくれたところで一向に構わない。

今日出会った名も無き彼女の化粧をじっと見るでもなく、景色を見るふりして眺めていた。彼女は一心不乱であった。人の一生懸命な姿を見ると心がくすぐられる。「はじめてのおつかい」を観ては、頑張れと応援する気持ち。それがたとえ女性が化粧に懸命になっていたとて、対象物が変わるだけで構図は変わらない。頑張れ…!叫び出したくなる。女性は白を塗っていた。薄い小麦色の肌に、製粉されたあとの小麦粉色(つまり

白)の粉をまぶしていく。何層にも重ねられ、白さに拍車がかかっていく。不意に実家を思い出していた。深々と積もる雪、どこまでも白い世界。肌の只中にいたらきっと美しい景色が広がっているのだろう。

あらかた白くなってきた肌。僕の興味は眉にあった。早く書いてほしい。早く描いてほしい。緩やかな稜線を。今は産毛ほどの毛しかない場所に、象ってほしい。今か今かとその瞬間を待つ。彼女が膝においたポーチから鉛筆上の何かを取り出す。来た!眉だ!彼女はこなれた手つきでデッサンするか如く目の上に緩やかなカーブを描いた。北斎がみたらどう言うだろう。あっぱれ!なんて言うだろうか。眉額三十六景なんて描いてくれるだろうか。

元からバッチリ決まっていた目と、真っ白に塗られた肌、眉が加わり、彼女の顔は急速に輪郭を捉えだした。ピントが合ってきていた。

電車が停まる。彼女が社内のサイネージを見て、慌ててポーチを片付け、カバンにしまったと思えばすごい速さでマスクを付けて外に出ていった。

そいつの顔面の下半分はノーガードだ!叫び出したい気分だった。

でもとっても楽しい時間を過ごさせてくれた。だから声を中くらいにして言う。化粧してくださって結構です。

タイムリミットは突然に

勉学のお話です。

朝起きた段階ではまだ腐るほど時間あるじゃんと心に余裕を持っていたのに、昼過ぎあたりからの時間の進み方が怒涛のそれで、あれよあれよと言う間に日が沈んでバラエティがテレビから流れてくる時間帯になってしまった。時間経過の恐ろしさについて落ち着いて考えたいので、今キーボードを殴打している。この間もあれよあれよなのは自明なのだが、知らぬ知らぬを貫き通したい。

午前中、それはダイヤモンドのような時間であった。無限にもみえる時間の大海が目の前に広がり、万能感に心が踊っていた。時間の大海は、そっくりそのまま僕の可能性のようだった。だからこそ、心に余裕を持ってことを運べた。一心不乱に集中もできた。ちょっとよそ見しても大したことはない。何しろ可能性はどこまでだって広がっているのだ。

空腹と比例して集中力は研ぎ澄まされていく。獲物を狩るライオンのように気を張っていたものの、張り詰めすぎると逆に脆くなってしまうことを知っているので適当に切り上げて昼飯を食べに行った。今思えば、これが運の尽きだったかもしれない。

満腹になった僕は全く使い物にならないゴミクズになっていた。あれほど強烈に尖ってた集中の切っ先は峰打ちもできやしないフニャフニャブレードと化し、ペンは剣よりも強しって開成の連中にシャーペンを刺されたら一撃でお陀仏するレベルのなまくら人間が誕生していた。陸上競技をやっていたものならわかると思うが、一度タレるともうそのレース中・練習中の復帰は極めて厳しい。身体と心が折れて支えがなくなると、もう日を改めなければ頑張れなくなってしまう。昼飯後の僕がそうだった。頑張れなかった。あらゆることが気になりだす。頭が痒い。背中が痒い。メガネが合わない。普段だったら全く気にならないことに敏感になる。集中していない証拠である。

気分転換に違うことをしようと思った。本でも読もう。ゲームとかしてみよう。囲碁を打った。ネットを徘徊した。するとどうだ、日が沈んでいた。

自由と可能性を湛えていた時間の大海は、気づけばプレパレートの中の水のように小さく枯れてしまった。焦りが首をもたげる。途端に頭のかゆみが気になりだす。遊んでいるときは微塵も気にならなかったのに。シャワーを浴びる。ご飯を食べる。一息ついて、今である。

時間の大海は今や眠気の波となって押し寄せてきている。タイムリミットは近いというのに。フニャフニャブレードとなまくらマインドを持って、戦う。

殴打するべきはキーボードではない、自分の意志だ。

ファブリーズを空中に乱射した中に乱舞しながら突っ込んで着ている服を99%除菌しようとしたらテーブルの足に小指をぶつけたから今日は100%もうだめ

痛いので本当にもうダメだと思っていたのだが、この痛みを書き記さなければと這いながらパソコンの前にやってきて起動している間にそこそこ痛みが収まってきたので、なんとかなるかもしれないと思い直しているところではあるが、書く。

皆さん、私服はどのくらいの頻度で洗うだろうか。小学生の頃なんかは圧倒的頻度で洗濯機に突っ込んでいた記憶があるが、大人になってからと言うもの、オシャレ着がどうのクタクタになっちゃうからどうのと、ごちゃごちゃ言いながらしばらく来てから洗う諸君が多いではないかと思う。僕もその類である。

今日ふいにセーターを着たら、いつぞやの煙草のフレーバーが若干した。僕はタバコを吸わないが、忌み嫌っているわけでもない。多少の煙草のフレーバーだったら我慢できるので普段であれば普通に着てしまうところなのだが、たまたま帰省の折に母からファブリーズをプレゼントしてもらっていたので、使ってみようと思った。ファブリーズを胸に向けてシュっ!腹に向けてシュっ!肩にシュっ!腕に脇にシュっ!順調に除菌消臭のプロセスを踏んでいた。

体の表面のスプレーが終了したとき、はたと気づいた。

背中どうしよう。

僕は体が柔らかい方なので、肩を全力で後方に捻ればファブれなくはなかった。けれども一心不乱にやらねば届かないものだから一人で寝技をかけられているようなビジュアルになってしまう。これはいくらなんでも不細工だ。

そこで考えたのが、空中スプレーであった。

空中にスプレーして、その下ですかさず背中を広げる。まるでリフティングの達人がボールを蹴り上げて首と背中の間にボールを収めるあの動作を彷彿とさせる動きで、非常に気分が良くなった。

待てよ、これはもっと応用できるのではないか。

セーターだけではない。ズボンもきっと何らかの雑菌が繁殖しているに違いない。身体全身、満遍なく除菌消臭ができたら御の字である。

再び中空にファブリーズを掲げた僕は、三回くらいシュシュシュっ!と乱射した後に全身をフル稼働させて除菌消臭霧の中でダンスをした。それは規則正いダンスではなく、乱れ狂って踊るそれであったように思う。これまで僕はブログ等を通して、言葉で日頃の鬱憤を吐き出してきた。だが霧中ダンスが僕の深層心理にある不満の扉を叩いたようで、一種のカタルシスのような効果を感じることができた。そう、除菌消臭霧中ダンスが気持ちよかったのだ。

空中にシュシュシュっ!

シュラシュラシュラ!ウォラウォラウォラ!

シュシュシュっ!

シャバダバダ!シュラバンバンバンバン!

幾度か続けた。僕は完全に我を失い、見えない力に突き動かされるバーサーカーと化していた。

不意に、指数関数の如く激しくなる動きに耐えきれなくなった体幹がぶれた。よろめいたがしかしこちとらバーサーカーである。多少の体幹の動揺には負けずに乱舞を続けようと足を振りかざした。

その時唯一僕の部屋にある机の足に強く小指を打ち付けた。

流石に今まで20年と幾年か生きてきているので、ドアの角とかに小指をぶつけた経験程度はふんだんにある。そのたびに絶対小指折れたと思って確認するも、元気に小指は接着されているものなのだが、今回の痛みは群を抜いていた。まるで2009年の世界陸上ベルリン大会におけるウサインボルトのような、他の追随をこれっぽちも許さない痛みであった。

うずくまった。バーサーカー敗れたり。小指は砕けたかと思ったのだが、とっさに確認すると無事についていた。爪もどうやら無事のようだ。しかし焼けるような言いようのない痛みが波の如く押し寄せる。うめき声が漏れていた。こんなことになるんだったら、一人寝技をかけられていればよかった。

後悔の渦の中、背中がひんやりとした。

冷や汗まで出てきたのかと思ったが、それは時間差で降ってきたファブリーズの涙雨であった。

 

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ロイヤルホストとおっぱい

僕たちはそれのおかげで育ち、それが無いと言って泣きじゃくり、それを求めておしゃぶりを口にした。現代の人間がスマホを片手にし続けるように、子供の頃はそれを口にしながら生きてきた。

考えてもみてほしい。人間は哺乳類である。乳を、哺む。ちちを、はぐくむ。そう、生まれながらにしておっぱいを求める宿命を負っているのだ。ネズミも、猿も、クジラも、コウモリでさえ。哺乳類の進化の最先端にいるから、人間は知恵を授かった。感情を抑えることを知り、恥を覚えた。そして徐々に徐々に自分たちがおっぱいを求めていることを隠し始めたのだった。ほら、電車に乗る人々を見てみるがいい。談笑、スマホ、本、音楽。誰1人として昔おっぱいを求めていた過去を滲み出しているものはいない。あれほどまでに恋しく思っていたのに、何食わぬ顔でしれっと日々を過ごしている。人間の美しさが現れていると言っていいだろう。上品だ。限りなく。

しかし、そうした日常の中でふいにおっぱいに遭遇した時、僕らはひどく狼狽する。あるものは笑い、あるものは目を背ける。平常心を保てなくなる。スマホを見て心を乱すものがあろうか。いや、ない。皆平常心でスマホを撫でる。でもおっぱいは違う。撫でようもんなら鉄拳が飛ぶ。公僕にしょっぴかれる。反省を強いられてしまう。やはりおっぱいはDNAへの刻印がされたひどく特別な存在であり、求めすぎるがあまり隠し、暴くものを責める。全人類のトラウマの権化となってしまっているようだ。

そんなおっぱいが、今日、ロイヤルホストの天井にぶら下がっていた。照明だ。ふっくらとした半球と、その突端の黒い雫のような形のオーナメント。乳白色の灯りが灯ったそれは、おっぱい以外の何物でもなかった。上品そうなマダムや商談をしていそうなビジネスマンの頭上に燦然と鎮座したおっぱいたちが、ロイホの天井から、僕たちを見守っていた。

そう、まるで母のように。

汚部屋前前前夜

なんか部屋が汚い。諸悪の根源がどこにあるのかが全く掴みきれていないのだが、どうもきれいではない。絶妙に衣服がかさばっており、絶妙にホコリが溜まり、その上によくわからない書類が折り重なっていたりする。一つ一つはの要素はさして重症ではないと信じている。問題は多臓器不全のように全部屋的にうまく機能していないことにある。思い切ってあらゆる某を捨てて見ようかとも思うのだが、もしかしたらこれいつか必要になるかもしれないなんて要らない邪念がよぎるものだから取っておいてしまい、それが積もり積もってホコリを呼び、散乱の海辺に打ち上げられる。読まないフリーペーパーは捨ててしまおう。社内の広報誌はもうきっと読まない。大切にとっておく必要はない。給与明細は手動シュレッダーにかけてしまおう。あの封筒はなんだ。なんの封筒なんだ。あぁ、全くもって、汚い。部屋がきれいであることは精神衛生上とっても良い機能を及ぼすと思うのだがどうだろう。汚い部屋は淀む。コードがくしゃくしゃになっているところにホコリがごちゃごちゃ溜まって蜘蛛の巣が張っているみたいになるように、空気がくしゃくしゃになっているところには邪気的な何かがごちゃごちゃ溜まって行くに違いない。

昨日も書いたように僕の至上命題は勉強である。仕事もそこそこに勉学に精を出さねばならない。わかっている。わかっているのにブログにて部屋の整頓状況についてあーだこーだいいながら、この記事を書き終わったらきっと部屋を片付けだして、それなりに満足して眠りに落ちる。昨日も遅かったから。今日くらいは早く寝ましょう。んなことを言いながら。

ずっと耳元で垂れ流している大森靖子の歌を聞いていると、自分の言葉の数の少なさを痛感する。この人にしか組み合わせられない言葉があるんだろうなと思う。この人にしか組み合わせられない感情もある。でもなんとなくわかる気がする感情。

進化する豚ってなんですか。

勉学もとい、勉が苦

眼前に迫った問題が大きければ大きいほどミジンコみたいな興味関心に心惹かれてしまうのはノミよりもちっぽけな自制心が見事に機能していない証左であろう。僕は今とんでもない泥沼にはまっていっている。

試験なるものを受けるのは大学の頃以来だ。それも会社に金を払ってもらってという、全面協力の元での受験。やはり、人の意思は自ら選び取った上に痛みを伴ってこそ、十全に現れる。こんなおんぶに抱っこに肩車に乳母車のようなぬるま湯万歳エンバイロメントなんかでは意思なんてもんはふやけ切ってしまう。ビスコを半年くらい口に含んでたらこんな風になるだろうなっていうくらいのぶよぶよ具合だ。

そもそも、こちとら連休中帰省して夢見心地で生きていたというのに突然眼前に試験がそびえ立っているのがおかしい。異議申し立てしたい。計画的な学習ができていないと言われてしまえば僕は黙って頷くほかない。しかし計画的業務を推進しろ推進しろと言いながら資料と無茶振りの礫を投げつけてくる会社から何を言われたところで説得力がないってものじゃないか。どうだ。互いにブーメランを投げ合い、傷つけ合う不毛な削りあいの構図である。醜い争いだ。

脳みそストップしながら親指を動かしている間に、僕の砂時計の砂は刻一刻と減り続けている。とめどなく流れるそれは、行く川の流れは絶えずして云々と鴨長明のいう通りのそれだ。フォローしたくなる。

勉強します。今から、これから。