徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

電車になって2時間ちょっとの田舎

母の実家は千葉の佐倉という街だ。じいちゃんの生まれとか育ちとかを書いた記事を以前書いた覚えがあるので時間があったらそれも貼り付けておこうと思う。

佐倉といえば。

野球が好きな人は長嶋茂雄と答える。陸上の好きな人は高橋尚子と答える。そして、音楽が好きな10代を過ごした今の20代半ばから30代の人はBUMP OF CHICKENと答える。当方、陸上やりながら思春期をBUMP OF CHICKENに捧げたこれまでである。佐倉の血が流れているのは全く悪い気がしない。

何しろ祖母の老け込みがなかなか煮詰まってきているということで、母が上京してきた。合わせて、僕も佐倉に行く。勤め先は横浜。自宅のある錦糸町を過ぎて、さらにずっと奥の千葉県佐倉市。およそ2時間の旅だ。横浜を出て、一度明かりが少なくなり、品川が近づくごとに灯が増し、首都東京、錦糸町のネオンを超えると、じわじわと田舎の香りが漂う。そして千葉を過ぎると清々しい空気に包まれる。

北海道で暮らしていたころは関東ってすごく狭いもので、どこも都会なのだと思っていた。だが、住んでみると関東は関東なりに広く、ちゃんと田舎もある。それこそBUMP OF CHICKENの「続・くだらない唄」にある一節、「電車に乗って二時間ちょっとの都会に出てきた」の通りだ。藤原基央は確実に上京していた。狭くて広い関東の中で。

人にぶつかりまくるような駅を離れて二時間、電車は暗夜行路を行く。灯りはない。ブラックアウトだ。漆黒の向こうには、季節になればチューリップが咲き乱れる畑があるはずで、とてもじゃないけど人と人とがぶつかりようのない空間が広がる。

電車に乗って二時間ちょっとの田舎に出てきた。

生き急ぎ猛ダッシュ

昨日、マジで自分の時間が欲しい云々と、そんな文章書いたんだったら風呂でも入ってさっさと寝ろな日記を書いたのだが、どうやら体内では思春期の尾崎豊よろしく自由を希求する気持ちが相当に高まっていたようで、今朝は5時に起きた。

弁当を作り、掃除をし、今死んでもギリギリ恥ずかしくない程度の身辺整理を行う。その姿たるや、それこそ思春期の子供が朝練行く前のお母さんの如し。テキテキのパキパキである。ちなみにiPhoneの画面はバキバキである。

朝を究極に飛ばした上でのスーパーフリータイムほど清々しいものはない。誰にも邪魔されない1時間はほど尊いものはない。しかも1時間後の電車ではない。1時間後に家を出ればいいのである。なんと自由。

マジでキレキレのサラリーマンとかだったら、一目散に家を飛び出してカフェとか入って新聞読みながら世の中の趨勢を伺いつつ今日の仕事の動きとかを練り込むんだろう。誠に残念なのが1時間僕はパソコンの前でギターとシンセを抱えてえっちらおっちらやっている点である。新聞なんて読まない。ダメダメだ。この、強烈な伸び代を持ちながら堕落して行っている感じ。なんと贅沢。

ギリギリまでiMacと戯れ、ギターに遊ばれ、シンセに弄ばれて出て行く朝。2度目の朝がきたようだ。この時間になって、レバーブローのようにじわじわと5時起きのダメージが効いてきている。学生の頃は朝勉とかやっても1日元気だったのになぁと、若いなりに昔を儚んでもみるが、よくよく考えたら寝る時間が全然違う。そりゃ眠いわけだ。

もうしばらく、もうしばらくしたら休日が来る。少しだけゆっくり寝られるはずだ…と考えるんだけど、どうせ休日になったらなったでワクワクして早く起きてしまうのだ。遠足の前日のように。思春期を前にした少年少女のように。

自分の時間がないとマジで苦しい

一人っ子あるあるなのか何なのか知らないが、ここのところ如実である。

基本的に人が好きで、懐きたい。誘われれば断らない。誘いたい人もいる。そんな中、自分の時間を確保するというのがなかなかにシビアだったりする。お仕事がいかんせん繁忙期という社会的モテ期に突入しているので、余計である。

自分の時間とはどこまでをいうかと考えてみたのだが、一人の時間とは意味を異にする。例えば朝とか、通勤とか、帰宅中とかは一人の時間なのだけれど、それは自分の時間ではない。

自分の時間とは何か。それは次の予定に全く起因しない時間だ。

朝の時間を考えてみると、一人の時間には違いないがしかし全ての行為は出社に繋がる。通勤もそう。一人でスマホぽちぽちしているけれど、身体は目下出社ないしは帰宅中。家事なんてこの上ない。行為が生存・生活に起因している。

つまり、寝っ転がって天井に向かって呻いていたり、一人で窓に向かって真剣にライブをしていたり、行為自体で完結しているような行為ができる時間こそ、自分の時間だ。

一人の時間の中に自分の時間は存在しているのだが、どれだけ一人の時間を首尾よく終わらせ、自分の時間に還元できるかが直近の課題である。皿洗いとか、洗濯とか、ほんと何とかなってほしい諸々をさっさと片付けたい。でも、面倒臭い。しかし片付けないことには自分の時間は訪れない。気になるから。頭の中に汚れた食器がちらついたら最後、自分の時間は脆くも崩れ去る。許容できる範囲の汚れと散らかりの中で、全く何にも囚われない一瞬を過ごす贅沢さを追い求めている。

このブログも最初は自分の時間だったんだけど、ここまで続いてくると一人の時間と化してくる。別に誰が望むでもない文章を垂れ流しているだけなのだが、意地半分で書き続けているところもある。何しろここ2年間で3日間記事を書かなかったことがない。マメだ。意地で維持している。だからなんだ。

さて、明日明後日とお呼ばれデイズである。それはそれで幸せなんだ。

ブログも書くんだ。

めっちゃキツイのが気持ちいい

今、友人の結婚式に出て、二次会の幹事して、その後諸関係者で飲んだ後にさらに飲み会が入ってもうダッシュしてたところ乗り換え案内のアイフォーンが落下して、折角取り替えたばっかりの画面がバキバキになったんだけど、なんか幸せ。

それだけ。

幸せ。

マウスピース初夜

虫歯ついでに食いしばりを指摘されたことから、マウスピースを作った。僕の歯ぎしりとの戦いは以下を参照されたい。割と歴史は長い。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

一昨年の歯ぎしりインシデンツの時は適当に歯を削ってもらって自然治癒に持っていったのだが、いよいよ歯を大切にしたいなと。そこで物理的に歯ぎしりから身を守りに入る体勢をとった。

歯並びはいい方だった。だから歯科矯正とは無縁の生活を送ってきた。小中学生の頃よく見かけた、鎖で縛られたような歯。違和感凄いだろうなぁと思っていたが、マウスピース初夜、確信に変わった。

異物感。この上ない異物感。

たまに歯と歯の間に肉とか詰まって、苦心して取り出したらめっちゃちっちゃいカケラだったりってことがある。この上ない異物感だったのにこんなちっちゃいカケラかいなと驚く。割と口腔の感覚は鋭いようだ。

それの凄いバージョンがマウスピースだ。寝づらい。ベロで遊んでしまう。食いしばりから逃げるために快眠をサクリファイスしていいのだろうか。

まぁ、どうせ慣れるんですけどね。

二夜目に続く。

株式会社について賢しらだったらシンガーソングライターに出会った

世の中のことを何一つわかっていない20そこそこの人間が、会社に雇われ、業界界隈のことをなんとなく把握してくるのが社会人3年目くらいの道程だ。安い給料は授業料が差し引かれているものだと思ってやってきている。ばっちり首輪をはめてもらって、危なくない範囲で元気いっぱい走らせてもらっている会社には感謝しかないです、ありがとうございます。

やはり三年もすると、首輪の鎖を少しずつ少しずつ緩められている感覚はある。ミリ単位センチ単位で行動範囲が広がっている。広がったは広がったで凸凹があったりするから、そこそこのスリルもある。エグられることもある。これから繁忙期の緊張感はなかなかのものです。想像しかできない世界が広がっているのは恐ろしいもの。

しかし、結局同じ杭につながれ続けている。お金をたらい回す杭や、不安をお金で解消する杭など、無数の種類が存在することは知っている杭だが、僕がつながれている杭がどういったポジションにあるのか全くもって把握できていなかったりする。

そもそも、今つながれている杭はどうやってできたのよ。どういう仕組みで僕は杭につながれているのよ。杭ってどうやって埋められたのよ。

杭のメタファーじゃ説明しづらいし面倒なんでやめるけど、大学で心理学を学び、就活で商人になる首輪を手に入れて、めっちゃ鎖を短くされた状態で杭につながれた僕は、今も尚あまりにも世の中のことを知らない。錦糸町に住んで、危ない匂いと金の匂いが似た匂いがすると知ったくらいなもので、文字に起こせるような具体的世間見解を持ち合わせてはいない。きっと、若くして独り立ちして銃弾の中をくぐり抜けて生きてきた虎ノ門あたりに居を構える同い年くらいの敏腕社長の対極に、僕はある。

同心円状の景色の中を必死こいて走り回るので割と日々精一杯だったりするから、別に首輪を外したいとは思わない。しかし、無知は恐怖である。いよいよ天文学も実用が目の前に迫ってきているが、そもそもの始まりなんて夜の暗闇が未知すぎて怖かったから空の規則性を見つけてやろうとかってモチベーションに違いないと思っている。知らないは罪だ。

そこでここ最近、珍しくひたむきに脳みそに活字と知の端くれを打ち込む作業をしている。まじで本読まない人だから恐ろしく読書速度が遅くて、日頃の怠惰を呪いながらノロノロと活字の街角を歩き回っている。

便利なもので、インターネットには無料で社会の仕組みを学ばせてくれるようなサイトがたくさん転がっているし、近所の図書館は広辞苑で一発ひっぱたいてやりたいくらいの品揃えの悪さだが、不勉強人間には比較的とっつきやすい蔵書量だ。乾季の筍くらいのスピードではあるが、学んでいる次第。

 

ところで、株式会社はご存知でしょうか。当たり前じゃんって言われるかもしれない。

まず株式会社ってなんなのよと、僕はそこからして不安定な足場に立っていたのだけれども、どうやら株式っていうのは相当強い牌らしい。

会社はお金稼ぎをしなければならない。例えば、その辺の石ころを全力で加工してマックス綺麗なオブジェとかをこしらえて販売したら、元手は石ころなのに幾ばくかのお金を生み出せるだろうが、そういった商売は2000年前くらいにやられてしまっているようで今の世では通用しない。

そこで、とりあえずお金が必要だよねって話になってくる。

誰かが目利きして選定した加工しやすそうな石ころを買い取って、その辺の石ころにはできないくらいの緻密な加工をした上で売る。とか。多分単価も上がるだろう。加工もしやすいのだから自分一人の手ではなく、他の人を雇って加工してもらえるかもしれない。ぐんと生産スピードも上がる。しかし、最初のところで目利きした石ころを買っているわけだ。それも相手だって商売なんだから一個や二個なんてみみっちい売り方はしない。1000個10000個の世界。それなりの元手が必要になる。

ではどうお金を集めるか。

手元にお金があればいい。庭から石油湧いてるんでお金ありまーす。って人は趣味で会社でもやればいいんじゃないですか。でもそうじゃない人ばかりだ。誰に貰おう。借りよう。今を轟く大企業の創業者たちの伝記を読むに、藩に取り込んで公費税金オーライの資金調達をしたりしていたらしいが、その辺の首輪を外したばっかりの野良犬たちに今でいう小池百合子からガッツリ金を吸い取る力なんてそうそうない。だから、自分の仕事の魅力を練りこんで練りこんで夢を膨らませて膨らませる。お金くださいレースの始まりだ。

ここのところの手段として、株式が有用らしい。

まずお金といえば銀行じゃないかと思うのだが、銀行は信用がないとたくさんお金を貸してくれないようである。まぁ、当たり前だ。クレジットカードの仕組みはなんとなく知っているから、それと同じと思えば飲み込みやすい。では株式はどうか。株式を渡すってことは、会社の経営に参画できるようになることだとは、中学社会の知識でもって知っている。一方、実際これがどれくらいヤバいことかって、多分今でもちゃんと理解できていない。経営からものすごく遠い場所にいるから。でも仮に今叩いているキーボードが株式で、エンターキーを譲渡する代わりに幾ばくかのお金をもらうみたいな取引を行うと考えると、株式譲渡するのマジで怖いなと思う。エンター押したい時に押せないストレスって凄い。けどそうまでしてでもお金集めたいし、集めなきゃいけないし、むしろ集めたことがステイタスにもなるようだ。界隈では。めっちゃお金稼ぎできる計画練ってるって証左になるからだろう。

 

こんなこと書きながら、YouTube垂れ流していたんだけど、あの再生回数と投稿者の仕組みが経営者と株主の論理と似通っている。お金の話ではない。感情の話だ。

話は単純で、YouTubeを見たオーディエンスは各々勝手に感動したとか気に食わんとか諸々の感情を抱く。再生回数に応じて感情の深さが変わってきて、再生が多ければ多いほど感情を深く掴んでグラグラ揺さぶられている。感情株を買いまくってる。でもそんじょそこらのYouTubeで買い漁った株主より、CD買ったよ!ライブ行ったよ!って人の方が多くの株を買っている。最近は「CD=ライブチケットor握手」の構図ができているからして、CDはただの音源ではない。邂逅の権利である。会って直接聴きたい。生の迫力、音圧に涙する人も多い。揺さぶられ方はYouTubeの比ではない。

会社に於いて一番株を持っているのはいつだって経営者だった。株を自分の分より多く明け渡した時点でその会社は自分のものではなくなる。

そう考えると、曲の筆頭株主は作曲者本人となる。感情の筆頭株主も、作曲者本人だ。僕らがYouTubeで曲を聴いて感動するよりも深く、作った人は感動している。もちろん、自分の曲にだ。たくさんの人に聴かれて一般化する前の純度の高い感情を知っているのは作曲者本人しかいなくて、一度世間に聴かせる(上場みたいなものか)と、蟻の子を散らしたように感情がばらつく。幸い、エモさに値段はつかない。証券として存在しない。だから事実上株式は増え続けるけど自分に経営権が残り続ける無双状態が続く。著作権が切れた音楽室に飾られている方々の作品とかは別だけど。

するとシンガーソングライターっていいなぁと思う。感情すり減らすのは反吐出るほどしんどいんだろう。aikoとか、失恋ソングで身を削りすぎて心配にすらなる。けど、生涯自分の作品で人を感動させているフリして、自分が感動し続けられる。いい商売だ。一生手を離れない経営権を握ったまま、資金だけ回収できるなんて、東芝が黙っちゃいないだろう。

 

なんかこんなこと書きたかったんだかわからないまま筆が滑った。

一生懸命勉強します。まずは人並みになる。

 

死ぬときに悔しがれるか

つま先ほども練習しないで臨んだ勝負で惨敗したところで悔しくもなんともない。負けることがわかりきっているからだ。試験結果が出るときも、ドキドキするのは勉強して臨んだ試験と決まっている。ちんぷんかんぷんで受けた試験の結果なんてドキドキもハラハラもしない。惨めなだけだ。


この度、会社の消防隊に入隊し、近隣企業と競う消防訓練大会に出場せよとの指令を仰せつかった。ひと月程訓練を積んで、昨日がちょうど大会だった。臨んでいた結果の7掛け程度の結果に終わってしまったのだが、これがまた悔しい。

タイムと正確さ(100点満点)で競われる大会。100点満点が何よりも重要視され、どんなに速くとも100点満点でなければ順位が大きく下がる。僕らは98点で、2点がどこかで引かれていた。100点だったら3位に入賞していた。

全隊試技後に一気にタイムと点数が掲示され、順位も発表されたのだが、掲示の直前の緊張感と発表後の無念は久々の感情だった。業務の片手間であり、片手間でなかった。切実に訓練を考えていた。


真剣にやらないと悔しくもなんともないんだよって耳が腐るほど聞いた話だ。言う通りである。でもこれ真剣にやるって実はなかなか難しい。目標が区切られていて、そこまで猛ダッシュするのは容易い。しかし、人生規模の話になると、途端に目印はボヤける。


ボイジャーをご存知だろうか。今は太陽系を抜けたそのまた向こうの宇宙を旅している人工衛星。猛スピードで地球から遠ざかっていっている。記憶が確かであれば、ボイジャーが進み続けるシステムはこうだ。惑星や恒星の重力を借りて、ビュンビュンスピードを上げていく。次はあの星の重力、次はあの星。ボイジャーは何も考えていないかもしれないが、それはまるでマイルストーンを立ててそこまで全力疾走をする様に似ている。

こいつの鼻っ柱へし折りたいなぁって大人はたくさんいる。全く敵わない人間はいないと思って、犬歯をむき出しにする。でも、むき出しにしたとして、具体的にどこをどう噛んでいいのかわからない。鼻っ柱をへし折るための具体的事象がつかめない。結果、漠然と遥か彼方にある星を目指すこととなる。どの星の重力も捕まえられず、一向にダッシュできずに終わっていく。


今回消防訓練大会に参加して、改めて「悔しい」を感じた。これまで半端じゃないくらい陸上を真剣にやってきて、「悔しい」も「誇らしい」も「惨め」も経験してきたはずだった。でも改めて「悔しい」を目の前にした今、悔しいのプロセスが愛おしくて仕方ない。昔は感じなかった感覚だ。

当たり前にやっていた努力をしなくなって、今、悔しいから少し離れているところなのだろう。仕事とプライベートを充実させろと会社に言われ、どっちつかずのノー努力人間の沼にハマりかけている。

そんな今死んだとして、事切れる間際、僕は悔しがるだろうか。わからない。

とにかく悔しがりたい。死ぬときに。

頼むからもっと生きたい。次の星が見つかっているんだ。次の重力でまた加速して、まだまだあの星まで近づけるんだ。

そんな思いを持って、死んでいきたい。

伊東家はもう食卓を囲むことがない。多分。

伊東家の食卓を覚えているだろうか。

知る人ぞ知る家庭の便利知識を裏ワザとして紹介していく番組である。伊東四朗がお父さん役、五月みどりがお母さん役。子供達(三宅健RIKACOしか覚えてない)とこたつみたいな卓を囲みながら裏ワザを検証していた。学校でも人気で、手軽にできる裏ワザは翌日瞬く間に広まった。なかなかの影響力。

昨日大先輩と、PP紐をハサミ無しで切る裏ワザってあったよねって話題になった。あれですか、伊東家の食卓ですか。忘れていた番組を不意に思い出したのだった。ちなみにPP紐って雑誌とかをまとめる紐です。

「検索」がまだ浸透していない時代。個々人の不便は個々人の中にとどまっていて、誰かと共有する手段としては身近な誰かと話すことが1番手っ取り早かった。一人の人が不便とか知りたい気持ちとかをどんなにシャウトしても響かなかった。

熟成されていく不便が工夫を生み、「裏ワザ」を生む。テレビないし伊東家の食卓は、ある面で一人一人の創意工夫の発表の場として、また別の面でひとつの集合知として、さらには「この裏ワザいつも使ってる!」というような共感の場として存在していた。

しかし今や検索検索検索。伊東家の食卓の何十倍何百倍の知識が手元にいつでもある。毎週何曜日かの放送を待たずとも、不便の瞬間に不便が解決されていく。

まず、巨大な集合知を形成する土壌として、創意工夫を発表する敷居は低くなければならない。知が集まらないから。集まった知を自由に引き出せるようになると、共感のレベルも下がる。「それ知ってる!」の瞬間、脳みそに電波がビンビン流れるはずが、不感症になって行く。それでも便利だからひたすらに検索をし続けると、創意工夫をしなくなる。困った時にグッと考えることなく、すぐ検索。まず検索。

伊東家の食卓が機能していた理由が、大検索社会においてことごとく失われているのがわかる。一家離散待った無し。不憫極まりない。

さっきの論法の逆だ。

簡単に手に入る便利が無工夫を生み、「裏ワザ」つまり創意工夫の芽を摘む。その中でも考えられる強い人間はいい。でも多くはそうじゃない。おとなしく便利を享受する。便利に骨抜きにされて行くのである。

すごーく便利な世界。しかしもしかすると、便利の美酒はひどい二日酔いを残して去って行くかもしれない。伊東家の食卓で整っていた栄養と健康はもう、そこにはない。

同期とは

ちなむと今、いいだけ酒を飲んで帰ってきたところで、酩酊状態のところに同期よりLINE電話が入りそれに応答しているところである。

この、ある種の体力の鉛筆削りとも取れる行為は、恐ろしいほど心地よく喉元を締め付け、瞼を押さえつけていく。なんだ、悪くない。悪くないです。

無茶と無謀は違うから、そのあたりきちっと区別しておけと、高校の陸上部の顧問に言われたことを今でも思い出す。自己管理の範疇に誰も入ることはできない。自分が行けるといえば行けるし、行けないと言えば行けないのである。この、行けないと言う勇気。これが大事なのであって、たとえば怪我をしそうな時に行けると言うか否かは自分をどれだけ知るかにかかってきている。

自己管理の観点からいくと、自己管理貞操観念から逸脱した今を過ごしているあたり、幾ばくかの背徳感を抱きながら本文章を書き上げているところである。

そこで、同期という存在が見え隠れする。

なんとなく、お互いに苦労しているんだろうなと慮る。それは、後輩に対するもっと頑張れや、先輩に対するしっかりしろでもなく、もっと暖かく優しい感情である。逆に、お互いを卑下したりもしない。是々非々で対応する覚悟とか、与党に対する維新の会の諸言動に似たそれである。

僕の是は、相手の是にもなる。そう考える。これは日本的な考えなのかもしれない。いわゆる、「あいつも頑張っているから俺も頑張る。俺も頑張るからあいつも頑張れ。」の気持ちだ。

これが共助なのだが、共助をするためには自助が不可欠である。自立してこその協働だ。

ここで問題になるのが、みんな共助の気持ちで励ましあって気合入れて仕事とコミュニケーションをとった結果、明日の仕事がズブズブになっていく可能性を秘めているという点である。いや、少なくとも僕自身は大丈夫である。朝強いし。なんてったって、朝強いし。

学生時代、くそまじめに日をまたぐ前に寝ていた人間を、こんな時間まで起こしてくれている同期に感謝を送りたい。僕の世界を広げたのはあなたたちです。ありがとう。

では、寝る。

ブログで稼ぐという月面宙返り

ブログ飯なんて言葉が出てしばらく経つ。ブログで稼ぐ人は確かに一定数いて、昼夜面白い記事を量産したりしている。

拝読させていただいているブログの中で、きっと稼げているであろうブログを種類分けすると、簡単に3パターンに分けられる。役立ちブログ(アフィリエイト込み)と文才ブログとプロップスブログである。

構造は簡単で、世の中の便利情報を面白おかしくわかりやすく伝えているブログ群が一つ、日常のなんでもないことを圧倒的な筆圧で尖らせて世に放つブログ群が一つ。それらの群の中でレジェンド的な活躍を見せたブログ群が一つ。

いわゆる文才ブログをやっている人が認める文章の勢いたるやすごい。そりゃ書籍化できるよねって思う。鍛錬の成果なのか、マジでキーボードをぶっ叩きまくる才能に恵まれたのかはわからないが、自分の持ちうる言葉数と文の展開の仕方との隔たりがあまりに著しいものだから、興味がわく。興味しか湧かない。

対して、秀才タイプと言ってもいいであろう役立ちブログをやっている人もまたすごい。書籍化っていうか、論文書けばいいじゃんって思う。理路整然と自然な展開で世界を説明してくれていたり、商人よろしくAmazonを貼りまくったり、大衆の流れを掴んでいる。どんなに背伸びしたってそこまで趨勢を読み取れない。やっぱすごい。

労働を通してお金を稼ぐ大変さを知るのはよくある話だ。だが、ブログでお金稼ぎしている人たちを見ると、別の角度からお金稼ぎって大変だなと感じる。ぶっちぎりに文字を書く能力か、ぶっちぎりの分析と理路整然力。どちらかがないと全く話にならない。どちらにせよ異次元の所業だ。

とりあえず僕はお金稼ぎよりも台所の食器を片付けなければならない。目を逸らすな。