徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

人生の視野

社会に出て五年もすると、人生の視界がだんだんと固定されていく感覚を覚える。それこそ、この間マッチングアプリへの思いを綴ったが、あのアプリで横並びに確認できる異性たちの休日の過ごし方は、これぞ金太郎飴といえるような代物ばかりである。Amazonプライム、ネットフリックス、酒、旅行、ジム。僕ら平成黎明期に生まれた日本人は、ゆとり教育で個性を大事に育てられたはずなのだが、成れの果てがネットが勧めるがままの動画を漁る、金太郎飴な日常だ。どうなってんだ。職場と家、平日と休日のマトリックスの上を4次方程式のグラフの上を動く点の如く行ったり来たりする日々を過ごしている青年たちのいかに多いことか。僕も含めて。

 

現職に就いてしばらく経つ。この3月で1年半が経過する。やっていることは単純で、「お客様に対してナイスなバリューを提供する従業員が毎日最高のパフォーマンスができるような環境を整える」ことであり、基本、それ以外の仕事はない。しかし飛んでくるボールの種類は様々だ。「美味しい料理を作る」目的を与えられてはいるものの、用意される食材が毎度違う…みたいな感じだろうか。従業員の代表である労働組合の方々のご指導ご鞭撻もあり、ハゲるかと思うことも多いが、中々刺激に溢れた環境を生きている。おかげさまで、職場と家、平日と休日のマトリックスを往来するだけでも正直あまり退屈はしないし、何も面白くない締め切りや労使の約束が昼夜問わず頭の片隅にずっと居座り続けるザラザラした感覚を学べた。さらに言えば、この3月に社内環境も大きく変わるし、もしかしたら担当する仕事も変わるかもしれない。仕事の面では、しばらくずっとザワザワできそうである。

 

いくら仕事で退屈しないとはいえ、様々な締め切りと不安と圧力にまみれた仕事のことばかりを考えているといとも簡単に視野狭窄に陥る。振り子の片側で様々な事件が起こって大変なエネルギーを消費するがために、振り子が描く放物線の軌道を変えるエネルギーが不足し、同じ軌道を描くだけになる。人生の視界が狭まるのだ。飛んでくる仕事の難易度は上がっていっていることを感じる一方で、人生の視界は決して広がっていない感覚を覚えることも多い。多かった。

 

最近、人に勧められた本を読むことが幾度かあった。自分ではまず手に取らない本だが、勧められたなら読んでみる。明後日の角度から知識や感情が飛んで来るのは面白いもので、僕は横浜の歴史と文章の修辞の規則にほんの少し詳しくなった。

また、不意な出会いもあった。お店をフラフラしていると、出雲から来た煤竹クリエイターを称する職人と出会い、2時間半雑談を交わした末に母の誕生日プレゼントを購入した。僕はスサノオとクシナダの馴れ初めと煤竹クリエイターの人生に少しだけ詳しくなり、今度出雲にクリエイターを尋ねていくことを決めた。

さらに、僕の曲をバンドで演奏することとなった。以前コピーバンドに参加した時のドラムと仲良くなり、これまで温めても温めても全く孵化しそうになかったオリジナル曲の卵たちがにわかに暖かくなりだしている。

ほんの少しずつ振り子の軌道が変わってきているんじゃないかなと思う。どれもこれも、人のおかげである。他人がいないと、知らないことも知らないで生きていってしまう。それはネットじゃなかなか解決できない。知っている言葉しか僕たちは検索しないし、僕たちが知っている好みのものしか勧めない程度にネットは賢い。


人生の視野を仕事だけで広げることは難しい。職場と家、平日と休日のマトリックスの垂直面に軸を一本突き刺して、視野の外からの刺激を受ける余裕を持たせた人生を送りたい。これからも。