徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

Cから見たGとDから見たGの関係

こんばんは。

ウイルスが人から人へプレシャスなギフトとしてカジュアルな感じで受け渡されている世界的ディストピアを尻目に快晴の東京であり、当方も本日一日全く何も予定がない貴重なホリデーではあったのですが、食っては寝て、楽器弾いては寝て、映画見ては寝て、本読んでは寝る休日でございました。贅沢とはこのことでしょう。

 

ずっとピアノを弾いていた。

音楽にはコードがある。ギターを齧った人はわかるだろう。Cとか、Gとか、あれである。そもそもコードとは何かというと、Cでいうとドの音を基準として、三度と五度の音を集めた和音である。いわゆる、ドミソだ。Cコードをギターで抑えて弾いたときには、ドミソしか鳴っていない。Gも考え方は一緒で、ソの音を基準として三度と五度の音を集めた和音、つまりソシレの音だけが鳴っている。音楽はアリストテレスの時代から調和の象徴のように語られてきたが、基準となる音と、どれだけの距離が離れた音かで響き方が決まってくるあたりは幾何学や数列のような規則正しさを感じさせる。

たくさんのコードを組み合わせて繋げたものが曲である。コードの組み合わせには一定の規則性がある。「私」という言葉の次には、「が」、「は」、「の」がくるなぁと日本語で類推が可能なように、音楽でも「C」が出てきたら「G」かな、「F」かな、「Em」かな、「Am」かな、はたまた「D」の場合もあるなと文脈がある程度想像できる。一度聞いた曲がなんとなく弾けちゃうことを耳コピというが、原理としては言語の類推と大して変わらない。

弾ける人からすると当然のことなのだが、「C」から見た「G」と、「D」から見た「G」の役割というのは全く違う。同じコードである。ソシレの音であることに変わりはない。だが、コードの文脈で見たときには使われ方が全く違うのだ。動詞が助詞になったくらいのパラダイムシフトがコード上で起きる。そしてこれは特に「G」のコードに限ったわけではなく、あらゆるコードを様々な文脈の上で語ることができ、それぞれ主語になることも動詞になることも助詞になることもあるのだ。

ピアノを始めて20年、ギターを初めて13年もたち、小手先でいくらでもごまかせるようになった今や、何も不思議ではないのだが、改めてコードの世界の「捨てる神あれば拾う神あり」感というか、みんなに平等に優しい感じに心を打たれた。

 

右向けばコロナ、左向けばコロナ、上も下も遠くも近くもコロナである。コロナでストップした経済を前に、経済の上に乗っかって生活している我々の今後がめちゃめちゃ不明瞭となっている。何を隠そう、これは人類の大発明「貨幣」を基軸とした資本主義が僕らの生活の原理であるからである。また当然ながら、資本主義の文脈での優劣貧富がそのまま人間の優劣貧富になりかねないのが現代だ。

コードの世界とはまるで違うのだ。

「C」の世界のとき、「F#」とかはまじで使われない。ないことはないが、「え、いたの?」くらいの扱いである。しかし「D」の世界になると、「F#」は燦然と輝きだす。有用の極みコードに変貌する。それは資本主義では役に立たない何かが、また別の原理の世界線でものすごく活躍するような話だ。秘めたる力が違う世界で開眼する。夢のある話ではないか。

人間関係に似ている。

「D」と「A」は昵懇だが、「D」と「F」は5年に1回飲むくらいの距離感で多分結婚式とかにはお互い呼び合わない仲だ。けど、「C」と「F」は相当仲良くて、「C」と「D」は「D」から「C」を一方的に好いている。

いいも悪いもない。あるのは相性だけ。正義も悪も、優も劣もないのだ。

 

コード、お前らもいろいろあるよなぁ。

そうして日が暮れて行った水曜日でした。