徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

三崎亜記「となり町戦争」〜新型コロナウイルスの静かな足音に思う〜

志村けんが死んだ。

新型コロナウイルスにて引き起こされた肺炎が直接の死因だという。志村けんの死によって、ウイルスに対する日本人の意識が変わったと方々で言われている。確かにその通りだと思う。イタリア人の罹患者と死者数が昇竜の如く増加していくことよりも、誰もが知る、国内で指折りに面白い人間の死はこの上のないインパクトがある。新型コロナウイルスは死ぬ病気なのだ、人は死ぬのだという当然の事実を喉元に突きつけられた。自粛ムードや危機感が一層加速していくことと思う。

僕の感覚も少しずつ世の中に蝕まれている気がしている。YouTubeでどこぞのアーティストのライブ映像でめちゃめちゃ人々が密集しているのをみると、「あぁ、ここにはきっと無数のウイルスが蔓延しているんだけれどたまたまみんな免疫を持っているだけなんだなぁ」と、目に入る人混みよりも見えないウイルスに目がいくようになってしまった。こうした半潔癖な感覚は脅威が明けたあとも続いていく。ムードに勝る中途半端な知識と危機意識だけが、この後の世の中に残っていくのだろう。

 

「見えない脅威」に晒されたとき思い出す小説がある。

三崎亜記の「となり町戦争」である。

となり町戦争 (集英社文庫)

となり町戦争 (集英社文庫)

  • 作者:三崎 亜記
  • 発売日: 2006/12/20
  • メディア: 文庫
 

小学6年生のころ、母の帰省について行った先の千葉県佐倉市。幹線道路沿いのすばる書店で購入した。

舞原町にある主人公の北原の自宅に「広報・まいはら」が届く。定期的に届いている広報誌なのだが、ある日の誌面にとなり町との戦争のお知らせという記事を見つける。半信半疑ではありながら、通勤大丈夫かな、スーパーは開いているのかな、と、生活の心配をする。平穏な日常がその後も続き、戦争の状況が淡々と広報誌で伝えられる。戦死者もでる。自分の周りでは全く変わらない日常が過ぎて行っているのに、確かにとなり町と戦争をしている実感が初めて北原の中に芽生える。時を同じくして、北原の元にも町役場から偵察業務に従事するよう任命通知書が届く。

こんな話である。

基本的に全編を通して戦争の描写はない。緩い危機感というか、遠くで水面を揺らした波紋が、ゆっくりゆっくり押し寄せてきているような感覚を抱く。しかし後半、偵察業務の一貫で戦地に近づき、拘束され、車のトランクに押し込まれて半誘拐されるシーンがある。北原が身をもって戦争を体験した瞬間だ。読んでいる身としてもはっとする。「嘘でした!全部虚構でした!」とタネ明かしされても不思議じゃなかった戦争が、実体を伴って迫ってくる。恐怖でしかない。戦死者も嘘じゃなかったし、戦争も嘘じゃなかった。戦死者と自分を分かつものなんて、本当に紙切れ一枚程度でしかなかったことを知る。

 

小学生の終わりの頃に読んだ本だが、目には見えずとも確かに飲み込まれていくであろう波を感じたときに、僕はこの本を思い出す。

就活がそうだった。大学3年になった頃から周りがざわつき始め、セミナーが始まり、当然のごとくエントリーを行う。遠くで鳴り出した警報が徐々に迫ってきたあの日々の只中でも、僕はとなり町戦争を思い出していた。気付いたら面接会場という戦場に赴き、戦いに巻き込まれ、それなりに戦ったのだが、途中までは何かの夢物語だろうと思っていた。

今回も一緒だ。

新型コロナウイルス。戦争という事象ではないものの、目に見えずどこにいるかもわからない外敵がそこかしこに存在している。多くの人からして、それは「広報・まいはら」に載っているようなニュースでしかなかったのに、外出自粛やこの度の志村けんの死によって、じわじわと波が押し寄せてきていることに気が付く。

人間は鈍い。超新星爆発の光を人が感知した時にはすでにその星が存在しないように、危ないと気付いた時にはもう事態は発生していて波に飲み込まれている。もしくは、波に飲まれるのを待つのみとなっている。

僕らはもう飲み込まれている。自分が感染していないからどうこうではない。作中の北原でいう「偵察部隊の任命通知」が届いているか届いていないかの差でしかなく、戦争は始まっているのだ。この意識を改めてもたなければならない。

 

今、手元にとなり町戦争はない。実家に置いてきてしまった。今こそ読みたい本だったなぁと思う。実家でのんびり暮らしている母よ、読んでみるといい。迫りきているのかわからない危機をこれほどまでにうまく描いた作品はない。