徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

ここ10日ほどのこと

ここ10日ほどの話をする。

僕は連休をとっていた。当初は5日間の連休予定であったが、組織都合によりハンドルが切り返され、遂に11日間の連休となった。これは僕が消化しなければいけない休みを取得すると意味では大変有意義なものであった。が、一方、僕が所属する部署ないしは立場は現下の状況(ここ最近は「現下の状況」といえば新型コロナの影響で業況が厳しくなっていることを意味するようになってますよね)のような非常事態に限ってめちゃめちゃ忙しくなる性質を持っている。個々人が順番に休みを取得していかなければならないため、組織としては、僕が休日をとることがベストアンサーなのだが、世界規模の大嵐が吹き荒れる中で僕だけエアポケットに入ったように静かな日々を過ごせてしまったことは、少し寂しいような情けないような虚しいような気持ちがあった。

外出自粛と緊急事態宣言と日々の感染者状況。清濁真偽玉石混合の情報が飛び交い、刻一刻と国と自治体が向いている方向が変わっていく様を、テレビで見ては、実務として何もできない現状を儚んでいたのだが、日々は至って充実したものであった。

暇を持て余さない才能があるらしい。

毎朝6時に起きて、散歩に出る。

散歩に出る際には、家から水筒に入れた麦茶を持っていく。本当はコーヒーも持っていきたいのだが、コーヒーメーカーの下のポットが割れてしまって淹れられないので、コーヒーは途中のコンビニで買っていく。散歩の先は歩いて15分ほどの距離にある海浜公園だ。東京湾に面した海浜公園で、人工の浜辺が300メートルほどだろうか、広がっている。7時頃には公園について、海辺のベンチに座って、机にノートとスマホとキーボードを出す。海風に吹きっさらされた机付きのベンチに、早朝から座りたがる人は僕の他にいないようで、毎日そこは空いていた。日々の考えごとを書き綴ったり、大変資本主義的な話にはなるが、当社内の進級試験が遠くない未来にあるため、それについての考えごとをした。10日間程度とはいえ、毎日同じ時間に同じ場所にいると、同じように同じ時間に同じ場所で同じことをしている人が結構いることがわかる。毎日犬の散歩をしている人や走っている人、砂浜でバレーボールの練習をしている人や、写真を撮っている人。各々、思い思いの外出自粛と浜辺である。考えごとに行き詰まると、海岸沿いを歩き出す。浜辺自体はさして広いものではないのだが、海浜公園の奥にはさらに公園が広がっている。そちらの方へと歩く。30分ほど、自分で定めた周回コース歩き、徒歩のリズムに乗って考えごとをする。血流と歩調が脳を動かす。さして回転は早くないが、同じことを幾度も幾度も考えていると、ふっと考えが飛躍する瞬間がある。そういうことだったのか、そういう考え方もあるか。周回が終わり、またベンチに座ると、考えを書き留める。

朝7時から始まった午前中はこれで終わる。

徒歩15分の帰りしなに昼ごはんを買い、家で食べ、午後は創作活動を行う。

星野源が「うちで踊ろう」という曲をバズらせている。元は星野源の弾き語りなのだが、「みんな、この曲に伴奏とかいろいろ付けちゃってよ!」と星野源がいうものだから、士農工商隔たりなく様々な人たちが「うちで踊ろう」とコラボを行った。僕も音楽を嗜む端くれとして「#うちで踊ろう」でTwitterに投稿した。

 

ハッシュタグなんかを自ら付けたことがなかったのだが、思うよりカジュアルにハッシュタグできた。ハッシュタグするなんて動詞があるのかは不明である。もとい、伴奏つけて・ハモって・動画つけてとやっているうちに、これもっとできるんじゃ?と思い、うちで踊ろうシリーズを継続して制作した。僕の青春のアーティストであるBUMP OF CHICKENの楽曲に精一杯のアレンジを施して、「うちで踊ろう」同様適当な動画をつけてネットの大海に落とした。

 

世に蔓延るたくさんの弾いてみた動画に比肩するレベルではあるのではなかろうかと、手前味噌で考えている。客観的にみたら全然大したことないのかもしれない。それすらもわからない。

ある程度創作に満足したら、つまみを作って、晩酌をして、寝る。

酒のつまみは誰かとの連絡だったり、動画だったり、テレビだったりする。外食ができないため、自分で料理をするしかない。料理を全く苦にしない性格に助けられた。普段できないおつまみを様々作った。知ってはいたのだが、きのことバター醤油の組み合わせは鬼に金棒、ジェイソンに鉈、白鵬に髷とまわしと土俵であり、しめじエリンギ舞茸の三種の神茸(読みは任せる)をこの十日間で一生分食したように思う。きのこを食べたら元気の子になれるのであれば僕はすでにアンパンマンになっていることだろう。ある程度ほろろと酔っ払い、水をたくさん飲み、明日の生活に支障が出ない程度にアルコールが薄まってきたら布団に入り寝る。たくさん歩いて考えて曲作っているものだから心身ともに程よく疲れており、すぐ眠りにつける。

 

このような1日の振り子を10回揺らした。

幸いなことに、僕には今、日々連絡をとるべき人がいて、互いの生活を慮りながら生きている。だから、人との繋がりには窮していない。仕事は休んでいるだけで、当面の生活費にも困ることはないし、黙っていても休み明けには修羅場が口を開けて待っている。人間としても満ちていて、金銭や生活としても特段困らず、休暇は先が見えている状況のなかで、同じ生活を淡々としていることは大変に有意義なものだった。社会人・サラリーマンとしては、遮二無二進級試験に向かうべきなのだろうが、生活の暇と余裕には抗えず、普段作らない動画や、普段歩かない道、普段見つめない植え込み咲いた花のことを考えた休暇となった。

そうはいっても、明日からは働く。現場を見つめる。

僕が休みに入った10日前と今とでは、社会が置かれている状況が全く異なる。15人制ラグビーが7人制ラグビーになったようなスピード感の違いだろう。ゲームがそもそも違うのだ。そのスピード感に追いつき、感覚に追いついていかないと、僕は働いている意味がなくなってしまう。

逃げても隠れても今夜の雨は止み、朝は来る。そしてまた日常が周りだす。こんな文章をパタパタ書いていられる心の余裕なんてなくなるだろう。

断末魔の叫びとして、筆をおく。