徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

高校総体の中止について

想定がついた結末ではある。

 

昨日、北海道新聞の記事が親から写真で送られてきた。

高校総体、いわゆるインターハイの中止を受け、道高体連はそれに付随する全道予選の中止、各支部予選の中止を決定し、代替大会も開催されないという。

青少年が、その親御が、関係各位が、特定の都道府県に押し寄せる高校総体。この仕組みは今回のような「疫病の蔓延」にすこぶる弱い。感染リスク、クラスター発生リスク。ここ1ヶ月の報道で手垢が付きすぎて原型がわからなくなりつつあるリスクを考えた時、開催の判断はできないだろう。理屈で言えば免れ得ない結末だが、じゃあ心情として割り切れる人がどれだけいるだろうか。渦中にいればいるほど、それは難しい。

今年の高校三年生の心中に去来する思いはなんだろうか。努力の矛先を向ける物がなくなったことや、その虚しさもあるだろう。なんのために頑張ってきたのか、感受性が豊かなその時期にはあまりに酷な状況と、付随する大人の判断。理不尽を感じもするだろう。

然るべき舞台があり、その舞台に向けて体調を研ぎ澄ませていく。だからこそ大舞台で想像以上の力が発揮される。僕は陸上競技しかやったことがないが、地域の記録会、支部大会、全道大会、インターハイと舞台の大きさ次第で、同じ選手が出す記録の水準は全く違う。競技特性上、コンディションと集中力に結果が左右されやすく、さらに記録というわかりやすい尺度があるから余計に感じる部分もあると思うが、舞台の大きさとパフォーマンスの比例はどのスポーツにも言えることではなかろうか。だから、仮に代替大会が開催されたところで、救済措置になるかと言えば、絶対にならない。きっと、毛羽立った感情を逆撫でするだけになる。

 

僕も全く別の理由で、10年前の最後の夏をうまくやりきれなかった人間だが、今になってもまだ心に残っているのは「僕はどこまで速く走れたのだろうか」の念だ。今年高校3年生を迎える全ての選手が、この気持ちを抱くことになるのだろう。あまりにも酷い。後悔にも似た「もしも・たら・れば」は、いとも簡単に人生を狂わせる。「もしも」にしがみつけばしがみつく程、今その時が苦しくなる。「こんなはずじゃなかった」と思えば思うほど、訪れ得なかったその夏が恋しくなる。僕の場合は自分に起因する怪我のせいだった。気持ちを治めるための次の目標も見つかった。でも今回は当事者たちには全くもってどうしようもないウイルスの蔓延だ。代替措置もない。一体どこに感情を持っていけばいいのだろう。

「心のケアを」と、教育現場では叫ばれているようである。これまでの努力が報われない悔しさは一時のものだ。しかし、自分の可能性を形にできなかったことによるしこりは、経験上、いつまでも残る。乗り越えさえすれば旨い酒のつまみになるが、乗り越えるまでは辛いし、乗り越えられなかったら直視したくない記憶になってしまうかもしれない。

結局、言いようのない気持ちを消化するためには、その時その時に一生懸命頑張って、あの時のあの出来事があったから今があると言うしかない。詭弁だとしても、人生に立ち向かうしかない。

 

重ね重ね、この騒動は、かくも沢山の物を奪っていくものかと思う。「ウイルスが蔓延しなかったら」まだ続いている生命もあったろうし、失われない雇用も、失われた生活も続いていたろう。知っている人や有名人の死のように、自分が通ってきた高校総体の中止を目の前にして、恐怖と惨さの輪郭をまざまざと見せつけられた気持ちになっている。

儚んでいても仕方はなく、今自分にできることをやるしかないのである。