徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

おじさんスペクトラム

28歳になって久しい。日本の平均年齢からしても、偏差からしても、僕は若い。発展途上の諸国に行けばそこそこの数分布している年代だろうが、先進国かつ世界一の長寿大国日本の手にかかっては、28歳なぞペーペーもいいとこである。

ペーペーなのだが、社会に出て5、6年経ち、ライオンの親が子供を谷底に突き落とすかの如く、安寧とは程遠い職務をおおせつかり、いざこの騒動に直面している今、生きるって大変だなあと平たく思う。誰かに満足してもらわないと、お金が貰えない。お金がもらえないと自分も生きられなければ誰かの食い扶持を用意することもできない。ステイホームが満足です!みたいな世の中に、ステイホームを前提としていなかった会社諸君がどのように立ち向かっていくか。知恵の絞りあいである。これはゲームのようで、自分の可能性にかけるようで面白い一方、本気でやらないと相当痛い目をみる。大変なゲームである。

そんなふうに思い悩んでいる28歳は、お兄さんである。お兄さんであると思っている。少なくとも、僕は。それは年齢だけをこそぎ取って判断するようなものでなしに、もっとこう、眼光の覇気とか、皺とか、様々な要素を俯瞰的に捉えた際の判断だ。学術会議の会員人事みたいなもので。

 

古くは、ぼく、と呼ばれていた。

ぼく、道に迷っちゃった?

ぼく、おかあさんは?

少年に向けた柔らかい二人称、これは、ぼく、だ。女性であれば、お嬢ちゃん、になるのか。呼ばれた経験も呼んだ経験も乏しい。

そこからいつからお兄さんになっていった記憶にない。少なくとも、ぼく、と呼ばれなくなったタイミングがあったはずだ。記憶にない。そもそも…と、考えていくと、見ず知らずの人に二人称で呼ばれるシチュエーションが減っていくことが大人になるということなのではなかろうかと思いあたった。

公だろうと私だろうと、はじめましての相手の名前が不明であることは、まずありえない。どうしても不明でも、お兄さん、おじさんなどのザクっとした代名詞を個人に当てることはしない。名前を聞く。もしくは、あの!とか、すみません!である。

 

なるほど、そう考えると僕たちはきっといつまでもお兄さんのままでいられるのだ。呼ばれさえしなければ、みんなずっとお兄さんのままだ。

でも本当は知っている。いつか、意図せぬ答え合わせの瞬間がやってくることを。それがどういったシチュエーションであれ、さして親しくもない第三者からの、残酷な宣告であろうということを。スペクトラム上に彩られたお兄さんとおじさんの境目を、ひたむきに今日も歩む。