徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

毛布を洗う

陽が落ちるのが殊に早い。秋である。窓を開けていると乾いた風が部屋を抜けていく。1Kだが、窓が二つある部屋に住んで本当によかったと思う。角部屋。清々しいものだ。とはいえ、窓の向きが北と西のため、日の光には一切恵まれない。西陽だけがいやに強い。部屋にいるだけで肌がこんがり焼けてしまう。

街ゆく人の服装もかわった。東京とはいえ、もう半袖を来ていたら街の景色から浮いてしまう。木々も色づき、木によってはすでに葉を散らしている。どのスーパーも、入ったらすぐ柿が陳列している。ムチムチした柿である。これほどに甘くトロトロした果実があるだろうか。毎日朝晩食べている。果糖をエネルギーにこのところ生きている。

秋に五感全てを揺さぶられている。秋だ!秋がきたぞ!

 

ご承知の通り一人暮らしの男性の生活なぞ、だらしないの極みだ。面倒臭いの土壌にスクスクと育った幹のようなものである。食を満足にするのが精一杯であり、衣や住についてはどこまでも低く低く流れていく。だが、まだ低みは存在すると言い聞かせ、今日も生きている。

だらしないはだらしないのだが、寒いとか暑いとか、生命として忌避する感覚には敏感である。いよいよ明け方が寒くなってきている。東京の建て付けがゆるい窓の隙間から、外気が漏れ出す。タオルケットだけではもう限界の季節であるからして、毛布を引っ張り出した。寝具も秋だ。

 

ここで問いかけなのだが、誰しも、毛布は洗濯するものなのだろうか。2011年に上京してきたが、何を隠そう、一人暮らしを始めてこのかた毛布を洗濯したことがなかった。聞く人が聞いたら汚らわしくて仕方ないのだろう。だが、恥を忍んで言う。事実は事実だ。じゃあダニだらけノミだらけかと言ったら、そうではない。天日干しとかはめちゃくちゃしてた。日光は殺菌作用があるのである。一切、ダニやノミはいない。はずである。

だが、どうやら巷では毛布を洗っているらしいと、有力筋からの情報を得た。マジかよと。毛布、洗濯するものなのかよと。もしや色々な窓辺に掛かっていた毛布は洗った後のものだったのか…?ものは試しである。秋晴れの空の下、徒歩1分の好立地にあるコインランドリーに向かった。

人生初コインランドリーである。ビジネスホテルの洗濯コーナーは経験があるが、生身のコインランドリーには初めて入った。洗濯に特化した25平米。不思議な空間だ。毛布だけ突っ込んで、300円をいれる。1時間で洗濯と乾燥までしてくれるらしい。放っておくだけだと言うので、放っておいて日常を過ごし、1時間後、回収に向かった。徒歩1分。

 

世界が変わったような気がした。

10年前である。毛布が以前、ベストコンディションだったのは10年前だ。もう、記憶になんて残っていない。ただ、洗濯機の中から出てきた毛布は、明らかに、僕が知る毛布ではなかった。フワフワである。ちょっと膨張したんじゃないかとすら思う。もこもこである。思わず顔を埋める。至福だ。今日からはこの布団に包まれて眠るのか。かつて、トイザらスからの帰り道、買ってもらったゲームに心を踊らせていた、あの瑞々しい気持ちが去来していた。顔を埋めたまま、顔が毛布に触れたまま、コインランドリーを出る。毛布を抱きしめながら公道を歩く青年を、世の中はどう受け止めたのだろう。構うもんか、僕の胸には洗い立ての毛布があるのだ。

 

夜が楽しみだ。愉しみではない、楽しみなのだ。健全な夜に躍る。

300円と1時間の至福の話であった。