徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

軽薄な夜と同期の話

感染症に行動を操られるようになってしばらく。ワクチンの効果とマスク着用の社会様式のダブルパンチが効いて疑似的な集団免疫を獲得したともいわれる眼下の感染者状況の中、首都圏にも軽薄な夜が戻ってきている。

例えば夜遅くの電車を眺めると、陽気な人が多い。それはさまざまな組み合わせで、直前の酒の席での関係性をほのかに匂わせている。多くは同僚であり、恋人であり、恋人でもない関係であり。軽薄な夜を楽しんだであろう雰囲気だ。

類に漏れず、誰にも知られることのないよう静かに、僕は飲みに出た。会社の同期の連中である。「同期仲」という言葉が、会社の中にはある。「あの年次は同期仲がいい」などという。同期仲は、わかったようでわからない。丸6年同期をやってきた同期は、2年目の同期とは違うだろうし、30年同期をやったそれとも全く違う。多様性が少し膨らむけれど、同じライフステージにいるようで、既婚と未婚では環境がまた異なり、子がいるとまた違う世界が広がる。6年目の同期とはそういうもののようだ。多様の入口に立っている。多様の門をとっくに通った人もいるが、通ってない人もいる。6年目の同期と生きる僕が感じる全てが、その真実だと思う。

仕事の話もだんだんしなくなる。互いの立場があり、互いの立場が異なる。利害も少なからず異なれば、互いの苦労話が互いをどんな気持ちにさせるかもわかるような、賢く気を使える人間ばかりだ。一方で、多様性の間に立つ僕らは、身の上話でわかりあうことができる。これは、いくつも歳をとったとしても、身体の不調のような普遍的な出来事に直面するであろうから、いつまでも続くものなのだろう。

学校が繋いだ縁が友達、趣味が繋いだ縁も友達。なぜか会社が繋いだ縁だけ、同期や同僚と名称が異なる。食い扶持を共にしている関係はやはり特別なのか。友達とは一括りにできない何かがあるのかもしれない。その何かは、形を変えながら、結局わかることがないまま年老いていく気がしている。