徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

込み入った文章が書けなくなってきているPart2

全ての道はローマへ通ず。山道だって、登山道は違えど頂は一緒。四方山の諸々はたいていいくつかの真理に収斂していく。世界各地で似たような諺があるのも、諸事がパターン化できてしまうからだ。

ブログを書く中で、僕はどうしても一本道を作りたがる。Aという事象をA'と一般化し、BもCもA'で括れちゃうよね!って話をしたがる。根気良く3個くらい記事読んでいただくとわかる。だいたいどれもこれもそんな感じだ。一本線を引いて、これも似てるこれも似てる!ってやる行為。繰り返し続けるとどうなるって、たくさんの線を引けなくなる。どういうことか。AとBとCとDと…ってたくさんの事象を挙げて、そこからΩを抽出しましょう。という考え方ができなくなる。苦手になる。

日頃自分が考えられる程度のことしか考えないからこうなってくんだなぁと痛感する。まじ痛い。大怪我。毎度転んで、考える意志を硬くして、気づけばまた書いてしかいなくなるのはわかっているんだ。そろそろやめねばと。思うが易し。

親父の大学の同級生たちと酒を飲むたびに感じること

親父と僕は40年の歳の差がある。親父が40年前に通ったところを今僕が通過している。翻って、僕の40年後をひた走っているのが親父である。

諸般の事情で親父が昨日東京にやって来た。彼は東京の大学を出ているのでこちらにも友人が多い。年に一回、ふらっと東京に来て旧友たちとの親睦をなぞっては、さっと北海道に引っ込む。息子も東京で働いているので、数年前からその付き合いに間借りさせてもらっている。親父の大学の同級生with息子。40年前と40年後のバックトゥザ・フューチャー。

40年というのはまずまず長い年月で、たいていの元号が変わったり景気が4回くらい浮き沈んだりする。もっと個人にフォーカスすると、子供ができて孫ができたり、死にかけてから息を吹き返したり、富豪が無一文になって這い上がったり、その程度のドラマであれば幾らでも紡げてしまう。

十人十色の脚本を突き進んで来た40年後が、40年前の話で盛り上がる姿を年に一回目の当たりにする。その度、なんて幸せなのかと思う。

俺もこうなりたい。40年後に今の話を昨日のことのように話したい。なんとなく人生が踊り場にさしかかり落ち着きつつあるころ、今を振り返りたい。と同時に、40年間クソほど気合入れて生きなきゃならんなと思う。人並みの幸せを手に入れるのにどれだけ頑張ればいいのか。野球みたいなものだろう。10割打とうとして3割しか打てなくて、それでも超一流。これからの40年も全部フルパワーでぶっ込んで、3割やそこらの結実だと思う。その3割が40年後の踊り場を生む。徐行運転で辿り着こうなんてナメた考えだと簡単に踏み外すだろう。3割打者を目指したりしたら1分も打てない。全部打つ気、全部勝つ気だ。

つって、本日も頭を下げる。垂らした頭が僕のフルスイングである。見てろ40年後。

「結論から話してください」と伊勢正三の相入れなさはどうかしている

端的に。端的に。結論から。結論から。

上司も暇ではない。限りある時間を有意義に使うことがやはり昨今の働き方改革を率先垂範するためには不可欠である。要点を押さえ、かつ、冗長な情報を削ぎ落としたソリッドな言葉で報連相。核心だけを掴む難しさをここのところ非常に強く感じている。

そんな中、心の音楽「風」を聴いた。風については散々他の記事でも書いているので、そちらを参照されたい。端的に言うと、元かぐや姫伊勢正三の作詞作曲力と歌唱力が全盛だった頃のフォークデュオである。大好き。

 

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北国列車という曲がある。

ぼくが君を追いかけてる夢から目覚めた時は

汽車は夜を走りつづけ朝の駅へついたところ

君を忘れるため 長い旅に出て

旅の終わりにこの街を選んだ

去年の今頃汽車に乗り 二人で旅した北国の

あの雪の白さが何故か忘れられずに

Emという、フォークならではのコードの上で繰り広げられるメロディには郷愁と寂寞の念が溢れる。

ぼくの他には後少しの人を降ろしただけで

汽車はすぐにまだ暗い朝に消えて行った

思い切り背伸びをした 薄暗い空に

君の星座がまだ光ってる

君の生まれたあの星が こんなにきれいに輝いて

君と暮らした東京では 見たことなかったけれど

この、君の星座のくだりこそフォークだ。フォークが何だかよくわかっていないが、フォークのエッセンスが濃縮還元されていると感じる。

君を忘れようとして、君の影から逃げるように乗った汽車。しかし、結局足が向かうのは二人で旅をした北国。雪の白さが忘れられなくて、結局君のことが忘れられなくて、でも君はいない。そんなぼくを見下ろす空の星座。君の星座。

どうしてくれようかと思う。このいじらしいほどに未練たらたらで情けない男の姿をどうしてくれよう。殆ど出来事を朴訥と紡いでいる歌詞だし、正やんも淡々と歌ってるだけなのだけれど、猛烈に感情を揺さぶられる。

 

しかし、殺伐とした気持ちで歌詞を見てみると、これは確実に上司に叱られる文章だ。

で?結論から話してもらっていいですか。

猛烈に詰められる光景がありありと浮かぶ。怖い。ひぃぃぃ…やめてくださいもう一回練り直してくるんでもう公衆の面前でマウント取ってボッコボコにするのは勘弁してください。端的に話そう話そうと緊張した挙句激カミして日本語が喋れなくなるんで。怖い怖い。

核心をつかもう、核心をつかもうと、日々頭を働かせていると、次第に脳みその容量に遊びがなくなってくる。不意に北国列車を聴いて、歌詞を噛み締めた。へ?こいつ何言ってんの?結局何が言いたいの?こんな気持ちが一瞬浮かんだ。戦慄した。なんてことのない言葉の並びから情景を類推する楽しみを忘れかけていた。通勤中風をローテーションして、なんとかかんとか凝り固まりをほぐし、やっとこさ文章を書いている。

やっぱり含みって大事だよなと思いながら、うまくオンオフスイッチを使い分けてやっていければいいと、心底思った。

よかったらまじで風も聴いてみたらいいと思う。

 

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弁当を食べられなくなった

お仕事で太陽に当たりまくる素敵な日々が続くここのところ。外回りに次ぐ外回り。電波時計の時刻合わせも鼻で笑えるレベルで回っている。次から次へと予定が収まっていく様、テトリスの如し。

全くもって朝の時間に余裕はあるのだが、ここまで外に出ていると弁当とか食べてる場合じゃなくなる。次から次への時間つなぎとして昼食が組み込まれてしまい、ゆっくりみんなとランチタイムなんていう微笑ましい昼食は電波時計な日々の遠心力に吹っ飛ばされてしまっている。結果、今は弁当作っていない。

ここ一年半くらい毎日弁当を作って食べていた。それがぽっかりと外食に身を委ねている。心底思うのが、弁当の美味しいこと。そして外食のコスパの悪いこと。

まず、弁当は美味しい。幸せなことに、僕は自分が作った料理を美味しいと感じられる人間だった。好みの調味料に好きな食材を適当に突っ込んで作る弁当が美味しいのだ。好き放題できるから美味しいのは当たり前なのかもしれないが。ほとんど決まったメニューのローテーションだが、そのどれもが好きだ。嫌いなものは作らない。何しろ自分で作ってるから。

で、美味しいくせして弁当は安い。買い出しさえ定期的にこなしていれば後は追徴金無しで食べられる。そして外食した時のコストの高さに痺れる。別に値段相応のものをどうこうと言いたいわけじゃない。ただ、安く済む弁当の方が外食よりも美味かった。好きだった。それだけだ。

早くこの外回りデイズをくぐり抜けて、弁当作り続ける日々に戻りたいなぁと思う。美味しいご飯が食べたいです。

日光に当たるという労

ここのところ仕事の時期的なもので外出することが多い。梅雨空は困ったもので、濡れちゃいけないのに容赦なく叩きつける雨粒にはほとほと悩まされる。しかしあれを雨だれに昇華したショパンは規格外の天才だと思う。

雨もしんどい。しかし、晴れもしんどい。今日、心底感じた。東京は30度を超え、真夏の暑さを一年ぶりに取り戻した。季節のブランコは規則正しく揺れてくれている。振れ幅が大きくなっている感じは否めないが。梅雨も明けないのに夏に振り切ろうとしているここ2日くらい。日光の力を思い知っている。

子供の頃から比較的外で遊んでいたし、部活では春夏秋冬問わず外を駆け回っていた。日光に育てられた人生。太陽に育まれた体躯。日向ぼっこも好きだ。真夏だって日向を歩きたい。しかし僕の日向は、全てプライベートに存在した。公が誕生してから、つまり勤めだしてから僕は、陽に当たらない仕事に終始していた。で、まぁ、この夏から仕事で出歩くことが多くなったわけだ。

仕事で日光と戯れると、日光の印象が全く変わる。

暑い。汗かく。もうスーツが大変なことになる。ペタペタくっつくズボン。汗染みが超大陸パンゲアの如く連結するシャツ。それでもスーツ着た兄ちゃんがトボトボ歩くと悲壮感がメントスコーラみたいに溢れ出してくるので極力背筋伸ばしてスタスタ歩く。そして滲み出る汗。汗。パンゲアをジャケットで隠して外の仕事を済まし、帰社して机についてからは乾かしに躍起になる。そして汗の匂いをファブリーズのシャワーに包んでポイする。

とにかくえらいことになるのです。汗が、暑さが。

そもそも汗は気化を促すたまにある。なぜこれほどまでに人類は皮膚を覆うか。気化できないじゃん。吸うじゃん。なんか静岡の方で女の人が暑いからって公衆の面前で服脱ぎ捨てて下着姿になったんで捕まえたってニュースを見たけど、取り調べが終わったら是非とも元気付けてあげたい。気持ちはわかります。

うだうだ言うが、日陰にずっといるよりはよほど外に出た方が気分が晴れる。気持ちのいい外出ばかりではないのが苦しいところだが。

肌が簡単に焼けるタチで、色んな人にどっか遊びに行ったの?って聞かれる。仕事と都心の太陽に焼かれたのだと、この場を借りて釈明させていただきたい。

そう言うわけで、僕は元気です。

「クセがある」という巧妙な悪口

主に人に対して使われる「クセがある」に良い意味合いが含まれることがあるのだろうか。ないと思う。少なくとも僕は知らない。「ナンプラーみたいなひと」といえばスピッツの歌詞になりそうなくらい可愛いが、「クセがある」は可愛くない。「クセがある」が話題に出てきて、枕詞にでもなった際にはネガティブな意見が羅列されていく印象。「嫌い」でも「性格悪い」でも、「変わってる」でもなく、「クセがある」。薄いオブラートに包んだ批判の気持ちが間違いなく秘められている。自分の主張を隠しつつ、他人を攻撃する意地汚さすらも垣間見られる。

「クセがある」にいい意味が込められないと知ったのはそこそこ大人になってからだ。初めてその意に気がついた時、なんて便利で卑怯な言葉かと震えた。「僕は好きでも嫌いでもないですが、多分普通の感性からするとちょっとエグ味とかを感じられるかもしれません。いや、僕は特にどうも思ってないんですけど。」良いや悪い、好きや嫌いを言わず、自分の主張を込めないままに放り投げる「クセがある」。身の安全を確保しながら責め立てる様は、古代ローマの頃から変わらない。ほぼ投石機そのものである。

「クセがある」が批判になるということは、「クセのない人が好まれる」前提が巷に溢れている証左だ。クセのない人は所謂普通の人だろう。じゃあ普通の人ってどんな人?となると思春期の少年少女が抱く悩みのように生暖かさを帯びてくる。

日本の国民性なのか分からないが、名もなき誰かになりたい一種の同調圧力が特に思春期に大いに働く。僕自身もすごく感じた。浮かないように足並みを揃えながら恐る恐る青春を過ごした人も多いだろう。共通の話題に共通の価値観。最初は懸命に共通の諸々を取り繕うが、慣れとは怖いもので、大人になる頃には集団に溶け込むプロフェッショナルに育っていく。

誰もが杓子定規を選び取っていく中、その判断をしない者もある。そもそも杓子定規の存在に気づかない者、選びたくても選べない者、選べるけど一周回って選ばない者。

思春期に大多数が横を見ながら杓子定規に自らをねじ込んでいく以上、杓子定規からはみ出た人は皆「クセがある」認定されていく。醤油と味噌になれた日本人がパクチーナンプラー「クセがある」と感じるのと同じ構図だ。

殴っていいのは殴られる覚悟があるやつだけだし、撃っていいのは撃たれる覚悟があるやつだけ。悪意のギブをしたら、悪意のテイクを受けて然るべきなのだ。それを自分だけ安全地帯から石だけ投げるのはどうも容認できない。引っ叩かれても揺らがない人間性と覚悟を持って引っ叩けよと。自信ない上に引っ叩かれんの嫌なら引っ叩くなよと。言いたい。

その覚悟を持ってして人間やっていきたい。

眠れない夜に

何かが起こりそうな夜は

祈りを捧げて目を閉じなよ

こんな月の溶ける夜に

愛され生まれて来たのとママは言った

 

 

20年くらい前に名探偵コナンのエンディングテーマだった、Rumania Montevideoの曲「Still for your love」の歌い出しである。僕は、サントラを買ってもZARD倉木麻衣をすっ飛ばして猿のやつにこの曲を聴きまくっていた。大好きな曲だ。

別に何が起こりそうでもないのに眠れない夜がたまに訪れる。さっきまで抗いきれないほどに瞼が重かったのにいざ床についてみるとやたらに目が冴える。一度覚醒のバーサーク状態に陥ると加速度的に頭が回転していく。寝たいのに。寝たいのに。

 

 

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しかし、当たり前のことなのだろう。

この記事にも書いたのだけれど、なんでもない時間が決定的に不足している現代において「寝ようとして寝られない時間」つまり入眠待ちの時間ほど思考に適した時間はない。なにしろ動かずに目はつぶっているけど何もしない時間だ。使える部分は頭しかない。

不安と期待と絶望と希望がタスキリレーをしながら頭の中を駆け巡る。普段どれだけ考えることから逃げていたか、抑圧していたかがよくわかる。ここぞとばかりに噴き出してくる諸々が立てる雑音で寝られないことこの上ない。

それでも大抵気付けば朝になっているのだが、一生懸命頭を回転させた後の朝だ。疲れている。なんなら眠い。

そうして今日も1日やんごとは色々あったなりにやり過ごした。今日こそはするっと落ちていきたいものである。

誕生日

みなさんに誕生日があるようにこのブログにも誕生日というのがあるわけで、今確認したところ2014年の6月6日がそうらしい。悪魔でも召喚できてしまいそうな日付である。もう少しいい日取りを選んであげればよかった。

3歳と少し。僕のサラリーマン街道を共に歩んでくれている盟友も随分と大きくなってきた。幼稚園にそろそろ入園させなきゃとも思う。昨今の保育事情を伺うに、なかなか厳しそうではあるが。3年とちょっとの間に認めた文章は昨日までで811本。かくれんぼするときだって811も数えない。つーかこれまでの人生の中で811まで数えた経験がない。本当に塵も積もれば山となった。

もう文句なしにこのブログは財産だ。今僕がこの世から忽然と姿を消したとして、このブログは残る。勝手に懐かしんでくれるもよし、忘れてくれるもよし。どちらにせよ選択肢を残せるのは嬉しいことである。

でも本当に書いてしかいないので、その他諸々に関しては全くもってのノータッチを極めている。

どうしてもやりたいのが記事を整える作業だ。

811の記事がめちゃくちゃに散らかっているのが現在の弊ブログである。それも平積みで積み重なって散らかっているので、過去の話を引っ張り出すのがこの上なく面倒臭い。でも、昔に書いた記事の中にもフェイバリットなのがあったりして、なんとか日の目を当てたい気持ちがある。

記事の整理してやりたいんだけどマジで本腰入れないとできないのが目に見えている。繰り返しだが811記事だ。大掃除に等しい。

というわけで、今のこのクソ忙しい時期を乗り越えた先、このブログを一つ羽ばたかせてやろうと思う。日本語以外の言語がわからない人間なりに踏ん張ってみようと、三年目にして思う。

さて、一つ覚悟を決めたところで、目の前に集中する。

「どんなタイプの子が好きなのか」というフェルマーの最終定理

この質問に対する適切な答えを用意できないまま生きてきた20余年。居酒屋等で尋ねられることが多いが、真剣に答えようとすると独演会にならざるを得ないし、軽〜く答えようとすると空を掴むような話になった末にあらぬ誤解をかけられたりもする。えらく難しい問題である。

正直なところ、自分の方が聞きたい。果たして自分という人間はどんな人が好きなのか。どんな人を求めているのか。出会ったり別れたり別れたと思えば出会ううちに、自分が考えていた好みのタイプ増はどんどんボヤけてくる。そりゃあ大まかには好きな顔とか合う性格とかはあるだろう。しかし当該の質問に答える際、「こんな顔が好きでこんな性格が好き」みたいな話をする度に果たして自分は誰の何の話をしているのかわからなくなる。「こんな顔が好きでこんな性格でこんなスタイルで耳たぶがこうで声色がああで。」という理想像は、「焼き魚の香ばしさとシチューのコク、そこにゲルニカみたいなメッセージ性、また、perfumeのようなポップさが感られるようなものが好き」と言っているようなものであろう。とっ散らかりの極みだ。

好みの条件を羅列する好きなタイプ論では、きっと好きなタイプを語れない。異種格闘技戦が繰り広げられ続けるのみとなってしまう。

じゃあ何が好きなのだろうって、結局のところタイプとかで測れるものではなく、青天の霹靂と神の啓示に委ねるしかないんじゃないか。何者かがこよった糸に絡まって、出会った人がタイプでした。それでいいんじゃないか。むしろ、それがいい。

ここまで考えて、やっぱり居酒屋で軽く話せる話じゃねーなとの意を固くした。

ボクらの時代のせいで溢れ出した思いを綴る

日曜朝のフジテレビといえばボクらの時代だ。

様々な業界の仲良し3人組が某所のカフェに会して対談する。いや、対談というほどのものでもなく、ただのおしゃべり会に近い。

ただのおしゃべり会といえど、第一人者がこぞって出てくるもので全く侮れない。知りうる中では、「蜷川幸雄大橋巨泉永六輔」なんていう今頃天国で幅効かせまくってるに違いない3名によるトンデモおしゃべり会が一番強烈な組み合わせだった。見ていて疲れた。

毎週というわけではなく、タイミングが合えば見る程度の視聴頻度だが、たまたま今日は見ることができた。

上田誠森見登美彦万城目学

舞台作家と作家と作家。言葉で遊ぶ人たちの言葉での戯れだった。

彼らの作品に熱を上げた経験があるわけではない。従兄弟が森見登美彦を好きで、四畳半神話体系を借りて読んだ。万城目学鴨川ホルモーを何光年か昔に読んだんだけど内容忘れた。舞台は見たことない。その程度である。しかし、言葉が豊かな人たちの話を聞くのは面白かった。

普段サラリーマンしていると、「世間一般における普通の価値観」に慣れさせられるところがある。Aという刺激にはBという反応が来るのが普通。それ以外の人が出て来ると身構える。みたいなやつだ。似たような連中で似たような価値観の元似たような判断をする心地よさというか安心感は計り知れない。

僕は僕で、現職の都合上「世間一般における普通の価値観」を懸命に会得している最中なのだが、作家たちの邂逅を見ると、なんかそういうのどうでもよくなってくる。

やはり作家の感性はマイノリティなのだろう。自動販売機をこよなく愛する森見登美彦にものすごい共感を見せる上田誠。そこの話題には全く理解を示さないものの、言葉の型には絶対にハマりたくないと豪語する万城目学。みんながみんな、少しずつずれた感性をほとばしらせていた。

いやー、これだよな、これがあるべき姿だよなと、心の相槌をめっちゃくちゃに打ちまくった。日々当たり前のようにペタペタブログを書いているのだが、多分これはこれで世間一般における普通の価値観からはちょっとずれていて、表現したい側の人間の心というのがすこーしだけわかる。変なこだわりとか、変な物好きを抱え込んでいないと文章とかって書けないものなのかもしれない。作家を目指して、音楽家を目指して、表現者を目指して脱サラする人たちはきっと、夢を追う側面もあるだろうけど、「世間一般における普通の価値観」に浸るのがしんどくなるんだと思う。今日、ボクらの時代を観て感じた腑に落ち感を毎日感じてしまうと、サラリーマンできなくなるかもしれないなと思った。ニッチな感性を見せ合う時の開放感は計り知れないし、価値観の枷を解いた時の浮遊感も計り知れない。

そうして今日もよくある価値観、よくある考え方に懸命に染まる。浸る。少し朝から解き放たれた気がするので、心持ちは楽である。

Here we go。