徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

殺処分

この間知り合いと話していたら、猫の話になった。

家にアクアリウムがあるけど、今度は猫を飼いたい。月一程度の頻度でペットショップに行って猫を眺めて癒されている。飼いたい猫の種類は決まっているんだけど、なかなかペットショップには置いていなくて云々。

猫は可愛いけど飼いたいってあまり思ったことないなぁなんて思いながら、話を聞いていた。

どうやら、猫を飼うのにはいくつか方法があるらしい。

ペットショップも一つ。野良を拾うのも一つ。保健所から譲ってもらうのも一つ。

知人は、ペットショップもそうだけど保健所から引き取りたい気持ちがあると話した。保健所には野良やペットショップで売れ残った猫たちが流れ着くそうで、一定期間引き取り手が出てこないと殺処分されていくという。

それは僕も知っていた。当たり前の事実だった。

でも、改めてこの殺処分という単語を咀嚼してみて、なんという言葉なのかと戦慄した。

 

殺して、処分するから、殺処分。

殺すというのは文字どおり死を強要するということ。生きていてくれるな、死んでしまえ。

処分といえば、まず社会的な制裁のイメージがある。減給処分、降格処分。また、捨てる意味もある。廃棄処分。

つまり、生命を消して捨てる、そういった制裁を加えるのが、殺処分。

 

猫の殺処分の実態と最前線がどうなっているのか。

www.konekono-heya.com

 

えらくまとまっている。まだちゃんと読んでいないけど、およそ年間5万頭が殺処分されているらしい。飼えなくなった猫、可愛くなくなったと言われた猫が野に放たれ、野良になり、保護され、殺処分される。野良猫が増えすぎるのは世の中的によくないことだから、殺処分。

一から十まで人間のエゴというか、わがまま。動物愛護団体が声高に叫ぶ気持ちもすごく理解できる。

 

殺処分。

改めて酷い言葉である。だが、殺処分と言うことで、人の心が初めて痛む面もあるのだろう。これが「天に召される」とか比喩比喩しい呼ばれ方をしていたら、心の傷めようがない。

 

僕は猫を飼う予定がない。野良に餌もやらない。猫をめぐる話を遠巻きに見ている猫畜無害な人間だ。

知人は保健所に猫と面会しにいくらしい。顔合わせで相性が良ければ引き取るという。

それで救われる生命がある。

無関心が一番の罪なのか、それとも無関心無関与が正義か。

言い訳に襲われて

バレンタインデーがチョコレートを贈る日から路線変更しつつある。女性が男性にチョコレートをプレゼントする日が、友チョコが始まったあたりから路線がずれ始め、今ではただひたすらにチョコレートを消費する日へと変貌を遂げた。チョコレートを食べ続けたい気持ちと、それを抑える理性。ごく個人内のせめぎ合いを一時休戦にさせて、いいじゃないの、チョコレート食べましょうよ。とおおらかに包み込むのがバレンタインデーの役割となりつつある。

つまり、チョコレートを贈る日が転じて、チョコレートを食べる日となっている。

 

忘年会もそう。

年内お世話になった気持ちも込めて、また来年もよろしくのご挨拶をする会だが、お酒が進み、時計がぐるぐる回ると、泥酔の極地へ誘われて忘年会があったことも忘れる。本末転倒である。

つまり、年忘れを標榜しながら、ただお酒が飲みたい。年忘れを忘れる。年忘れ、故に、我年忘れ。なんという哲学か。

 

さて、クリスマス。

今日はクリスマスイブ。

親から子へのプレゼント。彼から彼女へ、彼女から彼へのプレゼント。何かとプレゼントが交錯する日。それがクリスマス。

プレゼントが交錯するには、大前提となる人間関係が必要だ。見ず知らずの人にプレゼントをするのも相当夢があると思うのだが、大抵の場合気味悪るがられる。

すると、人間関係がないとこのプレゼント交換の輪に入れない。そこそこの浅さの人間関係では、なかなかプレゼント交換するに至らない。

だから僕たちは、自分にプレゼントをする。日頃の労働を自ら慰める。

 

「今日は〇〇の日」がもつ強制力に踊らされている。

クリスマスなのになんのプレゼントもあげたりもらったりしないの寂しい…という感情は、「今日はクリスマス。プレゼント交換をする日」というのが前提となっているために巻き起こる。

 前提なんかきゃええやん。

個々人としてはそう思うがしかし、前提あってこその消費。日頃から買え買え言ってる人間とすると、閉口してしまう。


副交感神経が首をもたげる夜半、咳が止まらない。誰か堰き止めてください。

消費のネジを外し屋さんの儲かり方

結婚式の費用についての文脈でよく出てくる話。

一生に一回だから。せっかくの思い出だから。オハナバタケになった頭で考える夢のような結婚式。そいつを実現するために新郎と新婦は消費のネジをぶっ飛ばしてゴリゴリ消費しまくる。ブーケトス○万円、フラワーシャワー○万円。富士山の自販機に置いてあるポカリでもそこまで暴利を振りかざさないであろう破格の金額提示も、鹿脅しのごとくコクリコクリと頷いてお金を払って行く。

 

引っ越しをしてからというもの、部屋を整えるためのツールを購入しまくっている。捨てまくっても未だ物にあふれていた部屋が、入れ物を用意することで見事なまでに片付いて行くのはとても気持ちがいいものだ。棚を買い、突っ張り棒を買い、なんちゃらホルダーを買い。めっちゃ整ってきている。

引っ越しに際して、僕は確実に消費のネジがぶっ飛んでいる状態だ。

どうせめっちゃ買うから10円20円大したことないだろうと思っている。旧居時代は玉ねぎが10円でも安い八百屋を求めてチャリを走らせていたものだが、その面影はない。

 

主にニトリで購入した引っ越しにまつわる諸々。

ニトリが儲かっているのって、消費のネジがぶっ壊れがちな場面において無類の強さを誇っているからなんじゃなかろうか。引っ越しにまつわる爆買いをしながら切に感じた。

多分そのうち古い家財を全て引き取って、ニトリがフルコーディネートした家財を新居に搬入するサービスとか初めるだろう。選ぶの面倒くさいけどニトリに任せといたらなんかお洒落な部屋になりそうって考えのもと、ネジがぶっ飛んだ顧客たちが大挙して押し寄せる図が目に浮かぶ。

 

冠婚葬祭や引っ越し。人生の節目に、消費のネジは吹っ飛びやすくなる。

逆に年次行事や毎日のことに関しては財布の紐はキツく締まる。

 

アップル製品が好きな人はアップルに貢ぐ。アイドルもそう。価値観は人それぞれで、沢山の文化圏が広がっている。

でも多分、「人生に数度の出来事」に対する消費感については、多様な価値観を持っている人たちの間でも大差ないのではなかろうか。そら儲かるわって感じである。

 

とりあえず今、喉の痛みと咳を止めてくれる何かを売ってくれる人がいるなら、いくらでもベットしたい気持ち。

声が張れない人

声が張れない人。

多分、たくさんいると思う。大きな声を出すのが苦手、大声で叫ぶなんてできない。羞恥からくるものか、はたまた気質からくるものか、体質か。原因は諸々あるだろう。

現行の教育方針や社会の向いている方向は、「元気な子 is 正義」みたいなところがあって、今でこそダイバーシティダイバーシティと叫ばれ始めたものの、どこまでそれが浸透しているのかは疑問である。

僕の浅い経験の中でも、大きな声が出せなくて苦労をしている子をたくさん見てきた。国語の音読の時、音楽の授業、先生に当てられてしまった時。教室が「へ?」みたいな空気になり、いたたまれない気分にさせられる。僕は身勝手な奴だから、〇〇くんもっと大きな声出せばいいのに…と、心の中で強者の論理を振りかざしていた。

 

一昨日辺りから猛烈な体調不良が襲ってきていることは、僕の全細胞が周知している。誰も知らなくったって、僕が知っている。

喉の痛みと熱っぽさから始まったそれは、ルルアタックの力を持って制圧をかけているものの、未だしぶとく身体に変調をきたしている。

 

外見からしたら全く元気な男の子なのだが、一度声を出してみるとその異常さがよくわかるというものだ。全く声が出ません。

弾丸引っ越しツアーをしたから、転居届だしたり買い物したりなんなりと、休み時間等々を使い、必死こいて町中を駆けずり回る。窓口に行けば係員とお話し、レジに入ればレジさんとお話をする。

僕は必死に伝えようとする。

転居届です。クレジットは一括です。

でも、僕の声は彼ら彼女らに届かない。3回くらい聞き直されて、口づけするくらいの距離まで近づいて話す。

「持ち帰りで。」

この距離で、しゃべることなんて愛の言葉くらいなものだと相場は決まっているはずなのだが、どういうわけか日常会話を愛の距離にて伝えていかなければならない。ジョンレノン、玉置浩二、数ある愛の伝道師たちでも、この距離で「お持ち帰り」を伝えようとは思わなかったろう。そこに確かに、愛はある。

 

教室に立ち尽くし、大きな声を出せなかった彼ら、彼女ら。あれはきっと、僕らが近づいて行くべきだった。大きな声を出す事が当たり前の正義ではない。声が出せないこともまた一つの当たり前なのだ。車がないから歩いて行くのと同じように、声が出せないなら近づいていけばいい。どちらからともない優しさがあれば、それが一番いい。

 

鼻が詰まったりすると気づくことは、今まで呼吸をしていたこと。

喉が壊れて気づくことは、今まで大きな声で話していたこと。

声出ないと仕事にならんので、なんとかして行きたい気持ちでいる。

マズい感じの体調

直近五日間のうち四日間が4時就寝。まずまずエキセントリックな日々を回していたところ、感想も手伝ってか否か、喉の痛みとリンパの腫れ、体のほてりと寒気が襲ってきた。

一昨年あたりまでちょくちょく体調を崩していたが、幸いここのところは健やかにいきていた。好事魔多し。身体が強くなったものだと思っていたが違った。しかし体力を過信していた。

しかし、久々のこの感じ。

身体弱い人間はちょっと体調がおかしい時の対処方が完璧に身についている。あまり食べず、消化に持っていくエネルギーを回復へ回す。ルルアタックにすがりつく。喉スプレーを惜しみなく噴射する。慈悲も憂いもなく、菌を駆逐していくのだ。


体調不良が下す瞼。それは四時就寝に慣れた日々に優しさを与えてくれる。

しばし、オアシスを享受して参ります。

晴れた空

引っ越した。旧居と錦糸町についての感想はまたの機会に譲る。

まっさらな部屋に荷物が搬入されていき、思ったより狭い収納と格闘した昨日。突っ張り棒さえあればなんでもできることを学んだ。僕らは三次元の世界に生きている。宙に浮いた何もない空間は、どこだって収納スペースになる。置けなかった食器も、洗剤も、宙空に鎮座している。空間捻出の妙である。

仕事にまみれ、酒にまみれた引っ越し前後のパラダイスのおかげで体がねじ切れそうであるが、後2週間も我慢すれば落ち着いた日々が帰ってくると信じてやっていく。早く整えたい。整えさせて…

 

空っぽになった冷蔵庫があまりに頼りなく、ただ昨日食材を買いに行く元気もなく、かと言って今晩はスーパーがやっていない時間に帰ってくることが見えている。錦糸町は当たり前のように寝ないで営業している店があったが、今回に街には24時間営業のスーパーがない。健全な街。

しばらくは燃費が悪い日々が続くだろうけれど、部屋を変え、街を変え、空気を変えた先にある、なんとなく新鮮な気分を考えると、安いものだろう。

さっさとこっちはこっちの人付き合いを見つけたいものである。

 

ダンボールとゴミに見送られながらの出勤。帰りを待つのも彼ら。

行ってきます

感傷に浸る間もなき転居かな

仕事でボコされて飲むしかないだろうと街に繰り出し、30分もせずに華麗に終電を逃した先のスーパー銭湯で世を明かす午前8時半。外は薄曇り。遠く錦糸町の家に干しっぱなしの洗濯物が気がかりだったりする。が、究極に気がかりなのが連日連夜追い立てられるように急き立てられるように生きている自分の体調と明日の引っ越し。

憂うだとかセンチメンタルだとか、あの類の感情というのは、時間と心に余裕ができて初めて生まれるものなのではなかろうか。錦糸町で過ごした3年と少し。あの日々をエモーショナルに綴ろうとしたって、時間もなければ余裕もない。そもそもダンボールがまとまりきっていないというのに、考えがまとまるはずもなく、叙情もへったくれもないのである。

為せば成る為さねば成らぬとはよく言うが、為していくのも成すのも自分。言うが易し。

睡眠が欠けまくった頭をサウナと水風呂で叩き起こしてまたファイティングポーズを取る。繁忙期はそのうち終わるが、仕事は自分が片付けていかなければならない。昨日のトラブルを踏ん張るのは今日の自分。生活は、仕事は、点ではなく線なのである。

生活が張り詰めると、心の琴線はたわむ。働いて、動いて、乗り越えた先、弛緩した生活の中、心の琴線のテンションを上げていきたい。

哀しいかな、錦糸町との別れは淡白なものになりそうだ。雑然とした街との別れにはそれくらいが丁度いいのだろう。

で、テメーは何ができるんだって話

今、仕事で来た球をひたすら打ち返す作業をしている。素直な球が飛んでくることはまずなく、大抵が危険球、暴投の類で、それらを後ろに後逸しないように全力で打つ打つ打つ。後逸したら上司が打つ。

お金をもらってバッティングができる素敵な環境なんだけど、この文脈においてのバッティングは誰もがやりたがらない類のバッティングで、後逸が信用問題につながるとかリスクマネジメントがどうとか危機管理がヤバいみたいな話になりがちである。ケアフルかつストレスフルかつセンシティブなバッティングセンター。

数としては過剰なほどの球が飛んで来て、とりあえず下っ端がバットぶん回す。結構自打球とかになる。めっちゃ痛い。打撲とか筋肉痛とかになりながら日々やっていってる。

 

しかしこの社会に出てめっちゃたくさんの球をぶん投げられて打つ経験というのはなんにせよすごく重要だと思う。絶対重要。それもバッティングのみというのがまたポイントで、野球にサッカーに卓球にって色々やると、一発で覚えちゃう天才くんじゃない限りは器用貧乏にもなれない。貧乏のままだろう。

つまりある種のスペシャリストにならねばならないということ。

それがなぜ重要かといえば、「何者か」にならないと問題提起の力がどうしたって弱いから。

理想の理想をいうと、バッティングなんてしなくていい仕組みを作らなきゃならない。危険球が投げ込まれない仕組み。

そうすると、

じゃあどうすればいいと思う?

何が原因で危険球が飛んでくるんだと思う?

みたいな「何故現状こうなってしまっているか論」をする。現状と理想を埋めるのが課題。課題を問うのが「何故」。

いざ、「なぜ」を考える時に一番声が大きいのはたくさんのボールを打ってきた人に他ならない。バッティングサークルに入らない人間が問題提起をしても、多くの場合でバッティングマンの問題提起力には及ばない。

とかくゼネラリストを育てたくなりがちな企業が多いと思うけれど、本質的に業務を改善しようと思ったら、必ずそこにスペシャリストが必要。むしろ、スペシャリストからゼネラリストへの鞍替えは容易だけど逆はほぼ不可能だから、率先してスペシャリストを作って行くべきなんだと思う。ネジまわしとか、そう言った類のスーパー作業職種は別として、即座の対応とか段取りが求められる職種は特に。

とりあえず働きます。

死にはしないから全部捨てる

別に僕らはケチャップがなくても生きていけるし、冷蔵庫がなくても生きていける。テレビがなくとも、消臭スプレーがなくとも、パソコンがなくとも、生命としてはまったく問題がない。むしろ、生命として必要なのは体である。それ以外は蛇足。

そう考えると「体を維持すること」まつわるツールが生活必需品となってくるのだけれども、世の中大抵のことはお金が解決してくれて、お金さえ払えばそこそこ健康にいいご飯を食べられる。

 

なんでもお金払えば外注できちゃう中で、僕らが物を所有する意味ってなんなのだろうかと思い直した時、それは節約と便利と嗜好の3点でしかない。

外食するより、ネットカフェに行くより、長期的なコストが抑えられるし外出しないで済むから冷蔵庫をパンパンにするし、パソコンを買う。楽器が好きだからギターを持つし、綺麗好きだから掃除用具を買う。

 

逆に、節約と便利を捨ててもいいのであれば、物なんかいらない。こだわりがないのであれば、ものはいらない。

我が身を省みると、曲とか作りたいし文章をせかせか書きたい人間だから、パソコンや楽器は必須で、これだけは絶対に身の回りに欲しいアイテムである。捨てられない。ただ、それ以外ってあんまり必要ないんじゃないのかしらと、思う。

 

とりあえず、捨ててみて考える作戦に打って出ようと考えている。もったいないと言われれば、そうだ。まだ使えるものばかり。まだ食べられるものばかり。でも、いらないので捨てる。捨ててみてまた必要だったら買えばいい。

物に生活をコントロールされるのはもう終わりにしたい。人生に、生活に必要だから物を買う。それが本質だろう。

 

書かないと踏ん切りつかないので書いた。全部捨てる気持ち。

「書き出す」という健康法

目の前に引っ越しが横たわり、仕事も仕事で迫ってきている今日この頃。気だけが焦る。

やらなければならないことは多い。あれもこれも…と頭の中を濁流のごとく駆け巡り、焦る分だけ身体は怠くなり、何もしないという愚かさ。


何となく山積している状態ほど健康上悪いことはない。見えない敵に相対しているのと同義で、どうあがいても勝てない。


ドラクエ3。

最後のボスであるゾーマと戦う際、勇者は光の玉をかざす。するとゾーマを包み込んでいた闇の衣が剥がれ、戦いやすくなる。

光の玉を使わなくても問題はないのだが、楽に勝とうとすると光の玉は必須なのだ。闇の衣がついたままのゾーマは恐ろしく強い。まず勝てない。


ドラクエ3における光の玉が、本件における「書き出す」である。


やらなきゃいけないこと、片付けなきゃいけないものをひたすら書く。書き出す。で、可視化する。茫漠たるやらなきゃいけないに覆い被さっていた闇の衣を剥がすのである。

すると、割と何とかなりそうなことに気がつく。どうして行ったらいいか、建設的に物事を考えられるようになる。

それでもタスクが多い時は、まぁ別に完璧にやらなくても何とかなるさくらいな気持ちを持つとより健康にいい。


こう、一生懸命自分に言い聞かせて、やっとこさ片付けている。

さっさと終わらせてしまいたい。さっさと越したい。家も、年も。