徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

スマートハウス化を考えている

引っ越しを1週間後に控え、身動きができなくなってきている。

思えば前回の引っ越しの頃は学生で、時間ばかりは溢れるほどにあった。自分のペースで引っ越しと向き合うことができたというものだが、今は違う。社会人も社会人、繁忙期での強行引っ越し。空いた時間にダンボールに諸々をダンボールに突っ込んでいく。

生活がゴミとなり。無機質な段ボールが並ぶ。

 

段ボールに囲まれながらの冬。鉄筋コンクリートであるとはいえど、部屋は寒い。

ただいま。

帰ってきたはいいものの、寒い部屋に、無機質な段ボール。

僕は、今猛烈に寂しい。

 

そういうわけで、である。

次の家に置いては、AIスピーカーを中心に生活を組み立てててみようと考えている。

OK,Google

巷ではグーグルホームの広告が踊っている。「OK,Google、今日の天気は?」「OK,Google、今日の予定は?」機械に話しかけるなんて世も末だと思われていた時代はもうおしまいである。これからは積極的に機械に話しかけていく時代だ。

 

寒くて暗い部屋に帰ってきても、主の一声で電気がつき、エアコンが入り、音楽がかかる。さみしくなんかない。さみしくなんか、ない!

 

実際にはグーグルホームではなくAmazonが出している Echoを買おうと思っている。Amazon prime会員であるからして、プライムmusicが聴き放題、スマートに視聴し放題となる。

スマートハウス化を目指すにあたっては変換する機器やら専用の電球やら、諸々買い揃える必要はあるようだし、全く読み解けやしないプログラミング言語を書き連ねる必要があるらしいが、まぁ順番に買い揃えてみて、やれるところまでやってみたいと思う。

 

何しろ、このクソ忙しい時に引っ越しをするのだ。仕事が落ち着く頃、暮らしも落ち着いていくだろう。そこから、僕の新生活は始まる。

AIスピーカー使いたさに、果たして僕はプログラミングを学ぶだろうか。

自らに期待を乞いたい。

誰も興味のないことを書く。ただひたすらに。合コンルーザー歌詞解説

昨日、ハジメマシテをした女の子と話す会があった。そういった会をなんと呼ぶかは、他人に任せたいと思う。

居酒屋の片隅、笑い声が交錯するスクランブル交差点を周回する一環で必ず通るチェックポイントが、「休みの日何をしているか」である。

ワークライフバランス、ワークライフバランスと声高に叫ばれる働き方改革の畔に立っている僕ら勤め人は、労働の日があれば休息の日もある。いやむしろ、労働の日か、休息の日以外に、僕らが過ごす時間はない。

すると「仕事はなんですか・休みの日は何をしていますか」たった二つの質問だけで、個人の時間の使い方をほぼ完璧に把握できてしまう。

 

で、例によって飛び出した「休みの日何をしていますか」。

家事で終わる日もあれば、ブログ一生懸命書いている日もあるし、曲作っている日もある。日がな本を読んだりすることもある。寝て終わることだけはない。

いくつかの選択肢の中で、場にふさわしい最も刺さるであろう応答をする。

 

針が刺さるのは、接触する面積が小さいからである。

 

そう、刺さるというのは、触れる面積が少なくなければ起こり得ない現象だ。つまり、その場に置いて最もマイノリティと思われるであろう話をすること。それが会話においての「刺さる」である。

僕は瞬時に、「曲を作っている」を選択した。

見事に刺さった。曲?曲作るってなに?

で、まぁ聴かせるわな。こんな曲です。こんな曲を世の中に落としています。

 

www.youtube.com

 

soundcloud.com

一畳にも満たない狭小なコミュニティの中で、これは比較的いい歌であると評価されたた曲である。作者としても、心の叫びをきちっと回収しながら韻も踏みながら書けた割にキャッチーなメロが乗ったので、満足の出来だった。いかんせん編曲と演奏のスキルがザルなのでこの程度だが、まだまだ可能性を残してる曲だと信じている。

つって、聴かせてみたものの、やっぱりね、理解されないんだ。これが。

なんか歌ってる〜。え?ラップなの?あ、歌った。

まぁ、居酒屋である。雑然とした居酒屋じゃ聴けないよね、そうだ、そりゃそうだ。

でも、悔しかった。この曲に込めた心と言葉を、思い知るがいい。

 

ということで、全部書く。聴かなくていい。読まなくていい。だけど書く。書かせてくれ。

 

 

【主題】

合コンとは、出会いの場であるが、出会いの場以上でも以下でもなく、出会い以上の何かを求める場合には至極能動的なアプローチが求められる。非常に難しい。結果、出会ってばかりで終わる。

 

【言葉あそび】

一番Aメロ①

アフター飲み会 光る大都会 一期一会の先になんかあるのかい

仮初めの出会い 書き留めるID 期待しないふりを装った期待

この後は二人で飲み直そう 口の中で呟く何度も

言えずにたどり着いた駅のホーム サヨナラベイビーブルーさ毎度

「飲み会」「大都会」「なんかあるのかい」と、「kai」でありがちな脚韻を踏みながら、「一期一会」にて読みは違えど「会」を登場させる。

「なんかあるのかい」と「仮初め」の間が半拍も置かない。「ka」の音を連発させる。小気味よくなる。

「仮初めの出会い」と「書き留めるID」で割と綺麗めに韻を踏む。「ID」はLINE IDのことであり、あえて業界用語っぽく「ディーアイ」と読ませたことにより韻を踏むことに成功した。

「このあとは二人で飲み直そう」以下は、ケツを「ou」で合わせる以外のことは何もしていない。情景重視のリリック。

 

一番Aメロ②

途切れ途切れのSNS 弱気な僕とは決別です

雄弁に語るLINE上のアリア 校正を重ね吐き出したライマー

男前などクソ食らえだ 女々しさを塗ったくった刃

射止めるはずが切った縁 既読のまま動かないティンカーベル

「SNS」と「決別です」。ベタベタに踏む。

「雄弁に語るLINE上のアリア」これは大バッハのG線上のアリアのパロディーというか、引用というかである。LINEを「せん」と読ませることにより、「二人で飲み直そう」も言えなかった奥手な人間がLINEの上では非常に饒舌である様を表現している。さらに「校正を重ね吐き出したライマー」と続くことにより様相はさらにはっきりとする。書いたり消したりしながらなんてLINEを送るか逡巡している姿が浮かぶ。

「アリア」、「ライマー」と踏んだあと、「男前などクソ食らえだ」内の「前な」、「らえだ」でも踏む。からの「刃」。「aia」と「aea」が大活躍。

「切った縁」、「ティンカーベル」。「既読のまま動かないティンカーベル」では、相手のLINEアイコンがティンカーベルであること、あの軽やかに飛び回るティンカーベルが既読になったまま固まって動かない悲哀を表す。

 

一番Bメロ

友達の友達の友達の友達の友達と

酒を飲み笑いそれでどうした それがどうした

実話と本音。それがどうした。

 

一番サビ

いつも出会いばかり そう、出会って終わり

固定顧客にはならないあなたに

何を思い何を感じたのだろうか なんだろうか

一縷の望み 込めたアクションに

冷ややか極まるシラけた眼差し

始まらないから終わらないこの湿ったストーリー

主題の登場である。

「いつも出会いばかり そう、出会って終わり 固定顧客にはならないあなたに 何を思い何を感じたのだろうか なんだろうか」

手段というのは往々にして目的化されやすいものである。

DM打つのも広告出すのも経費削減するのも会員数増やすのも全部売上の拡大と利益の最大化が目的なのだけれど、現場においては広告出すことが目的化しかねないみたいな話だ。

「出会いを求める」すなわち「恋人を作りたい」であり、恋人を作ることが目的であるならば手段はぶっちゃけいくらでもあるだろうに、なぜか出会うことに執着し、出会いにまみれ、出会ってばっかりいる不毛さ。出会っては別れもせずに消えていく泡沫のような彼女たちに何を思い何を感じたんだろうか。何だろうか。

気になる女性と出会ったとして、一縷の望みを込めてアクションしたところで冷ややか極まるシラけた眼差しを食らう。ティンカーベルは動かない。

「始まらないから終わらないこの湿ったストーリー」

以上。

 

2番Aメロ

Tomorrow never knows あけすけなNO 落とし所は消費者の保護

生ぬるいエゴを溶かしたメロウ 歯槽膿漏のようにジュクジュクの思想

多感な時期をフイにしたから分かんねぇコミュニケーションのいろは

笑顔の裏引きつったけったい顔 カモンベイベードゥザロコモーション

「knows」と「NO」である。

結局、合コンにおいては男女両サイドが消費者となり得る。そのため、男性が商品で女性が消費者しているという見え方もある。「消費者の保護」。つまり、女性にいいようにしてくださいという、極めて奥手な考え方である。

奥手な考え方を総称して、「歯槽膿漏のようにジュクジュクの思想」が出てくる。

「エゴ」「メロウ」「歯槽膿漏」「思想」と怒涛の韻踏合組合。とにかく歯槽膿漏の語呂の良さが痺れる。

「多感な時期」以降は特に踏んでない。思春期に真っ当な恋愛をしてこなかったことが敗因であるという、非建設的後悔。

 

2番Bメロ

友達の知り合いの会社の取引先の営業と

酒を飲み気を使ってどうした これがどうした

実話と本音。これがどうした。

 

2番サビ

いつも出会いばかり そう、出会って終わり

固定顧客にはならないあなたに

何を与え何を強いたのだろうか なんだろうか

求めた出会い 需給の釣り合い

均衡価格がわからないままに

閉幕後のカーテンコールを待つ人はない

主題その二である。

出会った時点で、他人ではない。知人だ。袖振り合ってしまったが最後、必ず何らかの印象を抱く。果たして僕はあなた方に何を与え、何を強いたんだろうか。何だろうか。

需要供給曲線というものがある。

manabow.com

市場が求めている価格と、供給者のエゴとしての価格。両者が拮抗する点があるよね。それを、均衡価格と呼ぼうね。

男女間の均衡価格がわからないことが、話がこじれてきている原因だ。違いない。だから過供給になったりするのである。

「閉幕後のカーテンコールを待つ人はない」

合コンの幕が下りたあと、再び幕が上がることがなかったのでした。

以上

 

Cメロ

楽しかったねまた飲もうね 人間関係の玄関で

いい加減なことばっか ちゃちな言葉だ

それでも期待しちゃってんのまだ

なんだかんだ言っても初回だ じくじくして終わって行くシャイだ

星の数ほどの出会い別れ 核融合と核分裂の果て

「楽しかったねまた飲もうね」というお決まりのセリフ、それこそが「人間関係の玄関」。「間関」と「玄関」で踏む。「いい加減なことばっか」の「減な」も「げんかん」で踏んでいた流れを汲む。

「ことばっか」「言葉だ」「まだ」もベタな韻踏みである。

「楽しかったねまた飲もうね」が社交辞令と知りながらも「それでも期待しちゃってる」チェリーボーイ。

「初回だ」「シャイだ」カーテンコールは無いと言っているのにまだ期待する。

「星の数ほどの出会い別れ」は、実は「核融合と核分裂」ほどにエネルギーを使うものである。マクロな数の多さと、ミクロだけど莫大なエネルギー消費の対比。

 

ラストサビ

いつも出会いばかり そう、出会って終わり

固定顧客にはならないあなたに 何を思い何を感じたのだろうか

なんだろうか

もうこれっきり 二度とは会わない 祭りの後の静けさに揺蕩い

始まらないけど終わっていくこの湿気ったストーリー

主題が落としたサビである。

そして最後。

2度と会わない人に思いを馳せる。なんだかんだ出会いは刺激的で、スローモーションで、楽しいものだ。しかし、心待ちにしていた出会いの場を空っぽで終えた後の静けさ。月明かりが染みる。快活に場を回していたあいつの姿がなぜか浮かんで、無性に情けなくなる。清濁入り混じった感情に揺蕩う。

「始まらないけど終わっていくこの湿気ったストーリー」

以上。

 

 

つまり、こういうことを言いたかった。

これだけが、言いたかった。

スゥィ〜〜〜

口を「イ」の形にして、強く息を吸い込むことによって生じる擬音、「スゥィ〜〜〜」。日常のバツの悪い場面や、言葉に表せないほどの感情に襲われた際に大活躍する音だ。

 

メラビアンの法則をご存知であろうか。

人の行動が他人にどのように影響を及ぼすかというと、話の内容などの言語情報が7%、口調や話の早さなどの聴覚情報が38%、見た目などの視覚情報が55%の割合であった。

メラビアンの法則 - Wikipedia

例えば、すごく優しそうな顔立ちの人がニコニコしながら柔らかい口調で「お前を蝋人形にしてやろうかぁ??」って言ってきてもそんなに悪い印象を抱かない。人間とはそういうものらしい。というのを真剣に綴った法則。

 

見た目と口調が9割。

つまり、面と向かっての接触以外の接触(文章とか電話とか)だと、人間の印象を判断する要素のうち何割かが封じられている状態となる。

コミュニケーションの飛車角落ちだ。

 

最近電話でコミュニケーションを取ることが多いのだが、電話口でのコミュニケーションは恐ろしく難しい。何しろ6割近くの情報源をシャットされているのだ。どれだけ猫なで声で「蝋人形にしてやろうかぁ??」と囁いても、今度は誤魔化せない。確実に電話を切られる。


デリケート極まりないコミュニケーションを重ねる中で、「スゥィ〜〜〜」に万感を込める術を会得した。


度々、ぐうの音も出ないようなお話になってくることがある。何を言ってもダメ。四面楚歌。飛んで火に入った後の夏の虫。追い込まれると、言葉なんて出なくなるものである。

吐息、呼気。

電話越しでは「ボボボボボ」という音で伝わっているかもしれないが、僕の「スゥィ〜〜〜」には「ボボボボボ」では訳せないほどの万感がこもっている。


手を替え品を替え、言葉を変え。様々なアプローチを使い果たした出がらしが紡ぐ、「スゥィ〜〜〜」。

それはまるで、ポケモンで技が出さなくなった際に繰り出す「わるあがき」にもにている。自分にもダメージを食らう。でも愚直に繰り出す。

気持ちよ、伝われ。この表情よ、この低頭よ、伝われ。6割の空白よ、埋れ。


吐息とともに生気も漏れていると言われましたが、概ね僕は元気です。

中華料理屋おかわり事変

大盛り無料なら大盛りにするし、おかわり自由ならおかわりをする。ビュッフェでは全種類の食べ物を食べてやりたいと心から思うし、飲み放題だと泥酔してやると気合をいれる。そんな人間である。浅ましいと思うなら思うがいい。一生懸命生きているのである。

 

中華料理店の定食をイメージしてほしい。

ご飯に中華スープ、ザーサイ、メインのお皿。全部揃って700円。ランチタイムじゃなくても定食提供するよ!

そんな店が多い。

で、だいたい決まってご飯がおかわり自由。

ご飯が、おかわり自由。

 

そういったわけで、中華料理店に入って定食を頼むと高確率でおかわりをする。おかずを減らすスピードをうまく調整しながら、ご飯2膳は食べる。

 

今日、出先で中華料理店に入った。

16時過ぎの遅い昼食。ランチをやっている店はなく、チェーン店に入るのも面白くないから…と入ったのが駅前の中華料理屋。定食色々700円均一で提供されていた。普段は弁当を持っているのでアレなのだが、本日は予定過密により弁当を持っておらず、当然のように中華料理屋に吸い込まれていった。

キクラゲと卵と豚肉炒め定食。

あの、中華料理屋によくある「〇〇炒め定食」のオンパレードの中から、自分じゃ絶対使わないキクラゲを使ってくれている定食を選んだ。栄養摂取。

定食500円台の価格設定をしている中華料理屋も少なくない中、700円という現実的な値段設定の定食。きちんと美味しかった。化学調味料どーん!って感じの味ではなく、ちゃんとオイスターソース使って炒めました感のある丁寧な味だった。

もりもり食べていた。

 

店内は空いており、カウンターの三つ隣辺りにサラリーマンが一人いた。

彼がおかわりをした。お茶碗をクイッと上にあげるジェスチャーでスマートにおかわりを決める。常連かのような洗練された所作。

 

僕は思う。ここはおかわり自由の店なんだ。この人はその仕組みを知っているんだ。

順調に配分通り、半分を残してご飯1膳目を終えた。

 

お茶碗クイッ!

すると店員さんがやってきて、すっとお茶碗をとっていく。

ついでに伝票もとっていく。

 

伝票…伝票?

 

何事もなくおかわりが運ばれてきたのと一緒に、伝票も付いてきた。

ライス200円

 

震えた。おかわりじゃなかった。僕はキメキメのお茶碗クイッにて、単品のライスを注文していたらしい。全くもっておかわりに対応していないお店であった。

メニューを見ると、半炒飯も200円。餃子も200円。

そっちの方が良かったじゃん…なんで白米頼んだねんな…

猛烈な後悔を抱きながらかきこむキクラゲ、飲み込む豚肉。

 

例の小慣れたサラリーマンが席を立ち会計に向かったため、耳をそばだてた。彼も取られているんだろうか。彼もクイッでライスを注文していたのだろうか。

 

ライス200円〜

 

ライスだった。まごうことなきライスを注文していた。

僕もやっちゃったよ!君につられてやっちゃったよ!

 

700円の定食が思わぬところで900円定食に変貌したのであった。クイッの手前クーリングオフもする気が起きなかった。

教訓として、おかわり前に自由なのか確認する。周りの空気に流されない。

以上を学んだ、貴重なランチタイムであった。

引っ越しするのに物を買う

片付けをする時にアルバムを読み出してしまう現象があるだろう。それの壮大な症状に罹患している。

色々捨てて、色々ダンボールに詰めて。散らかってはいるものの、現在部屋の中のものはあらかたひとまとまりになってきた。明日引っ越しと言われたら、ガッツぶっこんで部屋をスッカラカンにできるレベルにまでなってきていると思う。

逆にまだ2週間引っ越しまで猶予があるため、極端に片付けきれないところ。

 

片付けていく。すなわち、ものを捨てる。すなわち、スペースが空く。

なぜか、物を買いたくなってしまう。

 

これまでさしてパンパンだったわけではないタンスやクローゼット。しかし、ここまで広大なスペースが捻出されたことはなかった。

空き地が出たらすぐに売りに出され、買われ、マンションが建つ都会に住んでいるからなのか、なんなのか、スペースがあったら埋めていきたくなってしまう。

と言うわけで、服を買った。

私服である。

寒くなってきたからと、パーカーとセーターを買った。ついでにズボンも買ってしまった。ゆりかごから墓場までよろしく、頭からつま先までのトータルコーディネートby Global Work。

 

かつて。中学生の頃。

胸のど真ん中に全く読めないレトリックで英語が書き殴られたTシャツこそがおしゃれと盲信していた香ばしい季節に、夢中できていた服がある。

それはシンプルでなんてことのないチェックのシャツであったが、兎にも角にも肌触りが好みだった。春夏用のそれは、ふわふわツルツルで、着ていて心から気持ちのいいものだった。

チェックのシャツがなんとなくダサいといった風潮が田舎にまで浸透してから着なくなったが、あれはいいシャツだったと、今でも思い出す。

 

今回の買い物も、完全に肌触りメインの服だ。

特にパーカー。ムチムチした生地である。なんと言えばいいだろう、焼く前のパン生地を薄く伸ばしたものを触っているかのような肌触り。表も裏も、ムチムチムチムチ。置いてあるのに触れた瞬間にLサイズを鷲掴んで試着していた。そのまま帰りそうになったが一生懸命脱いで会計を通した。

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それほどまでに好きなムチムチ感である。

セーターは店員さんの笑顔にヤラレて買った。ズボンは今のがへたってたから買った。

 

今日買った服には、謎レトリックの文字も書いていなければ、チェックも入っていない。無地だ。大人になるとはこう言うことだろうか。

新居・新生活でもきっと活躍してくれる服たちに違いない。

彼らがダンボールに収納されるのは、おそらく最後の最後であろう。

経験について

「人生経験になった」とか、「いい経験だ」とか、ネガティブなことを跳ね返す時によく使われる言葉である。

この「経験」。実際、こいつの正体ってなんなのだろうか。何をもって経験とし、なんで辛いことが起こると僕らは「経験」と唱えるのか。

 

 経験には、先の用法の他に、

「勤続20年の経験豊富な…」

といった時系列に基づいた用法がある。

同じように「経験」と言ってはいるが、両者の意味合いは若干異なる。

 

しかし、本質としては同じことを言っているように思う。

辛いことを跳ね返した際の「経験」用法は、垂直方向への上下の動きであり、時系列に基づいた「経験」用法は、水平方向への直線である。この、線の長さが長ければ長いほど経験豊かという表現が用いられる。

わかりにくいと思う。

y=x^2のグラフが、辛いことを跳ね返した際の「経験」用法で、数直線が、時系列に基づいた「経験」用法。

イメージつくだろうか。

 

何が言いたいのかというと、がっつり凹んで復活した際の線の長さとずーっと真っ直ぐ伸びている線の長さを比べると、遠回りしているぶん凹んで復活した時の線の長さの方が長いよね。ということを言いたかった。

線の長さを「経験」と名付けるならば、落ち込んではV字回復しているやつがめちゃくちゃ経験豊富てこととなる。

 

例えば失恋とか。

確実に凹むんだけど、克服したら強くなれると言う。いい経験だったと思う。それは遠回りながらもV字回復を遂げて、復帰したからだ。長い直線を引いたからだ。

 

堀江貴文がちょっと前に多動力って本を出して話題になっていた。

 

多動力 (NewsPicks Book)

多動力 (NewsPicks Book)

 

 

チラリとも読んでいないでアレなのだが、この多動力と言うのは経験をゴリゴリ増やしていく力のことなのではなかろうか。

凹んだ時、V字回復に必要になるのは一生懸命さである。

一生懸命に没頭して、へっこんだことと闘い、這い上がる。

多動力。

色々なことに手を出して、凹むたびに夢中になって這い上がって、這い上がったらまた違うところで凹む。

たいして動かないで平坦な直線を結んできた人とは比べ物にならないくらいに長い線を引きながら生きる。経験を積みながら生きる。

多分堀江貴文はそんなことが言いたかったんじゃないかなって思う。今度読む。

 

そんなことを言い聞かせながら、一生懸命働く。

一生懸命やったら経験になるの裏返しは、一生懸命やらないと経験にはならない。20年もの長い時間停滞していられるような人生じゃない。がっつり凹んで、がっつり一生懸命になって、がっつりカムバックして、次のステージに行く。

そんな言い聞かせながら。

銭湯に行った話

一昨日、お休みの日に銭湯へ行った。

なんとなく鼻のあたりがムズムズと詰まりかけていて、放っておくと明らかに風邪になっていく気がしていた午後。一生懸命BiSHのニューアルバムについての記事を書いてひと段落したところで、汗をかきたい気分に駆られた。ここのところ新陳代謝がよくないのかもしれない。冬だし、汗もそんなにかかないし、物理的多忙により仕事中は水もあまり飲めない。買いに行く時間の余裕もない。

これは一発、猛烈に代謝してやろう。

iMacで近場の銭湯をいくつか調べ、湯冷めしたくない一心で一番近い銭湯へ足を向けた。

最近は銭湯と言ってもスーパー銭湯が多くなった。なんやかんやで沢山湯船があって、お湯の温度もいろいろ。ジェットバスに電気風呂。よりどりみどり。

一方で老舗銭湯は時代とともにどんどんと肩身が狭くなっている。実家の古株銭湯も5年ちょっと前に閉まってしまい、生粋の地元っ子は寂しさに浸った。

時代背景をよそに、最寄りの銭湯は古き良き銭湯をそのまま具現化したような銭湯だった。

入るなり番台。根こそぎ男湯と女湯が仕切られているが、上では繋がっている。壁には無造作にロッカーが並び、中央にはベンチとマッサージチェア。隅っこに置かれた冷蔵庫には牛乳とビールと栄養ドリンク。ドライヤーは20円入れたら動く仕様だった。

スーパー銭湯であれば、大抵自宅より備品は整っているものだが、レトロな銭湯はむしろ自宅の方が整っている。本当に、最低限のものしか置かれていなかった。

さっさと服を脱いで浴場へ向かった。

ご想像の通り浴場の壁には大きな絵。滝の絵であった。どこのものかはわからない。滝の絵の麓に、一個浴槽がドーンと置かれている。

体を洗うにもシャワーは固定されていて、身体の方を合わせなければならない。新たなジョジョ立ちのようなポーズを決めながら身体を洗い、いざ浴槽へ。

なんの変哲も無い湯船に一気に浸かった。

想像通りの、熱湯であった。

銭湯といえば、熱湯。ヘンな価値観かもしれないが、僕の中にはそんな方程式が植え付けられている。

冬の外気にさらされて冷えた身体にズズズと温度が侵入してくる。白地図を塗るように体温が上がっていく感覚を味わい、身体の中心部にまで色が塗られた瞬間から汗が吹き出て止まらなくなる。熱くて熱くて仕方ない。

ちょっと休んでは入り、苦しくなってはまた休む。

繰り返しているうちになんとなくのダルさよりも今の苦しさの方がしんどくなってきた。

今、熱い。

どうしようもなくなった時に、上がった。

脱衣所でも文句なしに熱い。

拭いても拭いても吹き出る汗を無視して思いっきり厚着をしてしまう。耳の奥では血の流れる音がする。節々は赤い。猛烈な代謝であった。

すぐ、家路につく。

ほとんど燃えている身体は外気に負けない。火照ったまま家に着き、火照ったまますぐ寝たのだった。

翌日、全くの健康を取り戻していたのは言うまでもない。銭湯とストラテジーによる勝利であった。


広い湯船に深ーく浸かってみて、普段自分の血行がどれほど滞っているかがよくわかった。滞りというのは、やはり良いことではないだろう。

たまにはポンプに負担をかけて血をガンガン流してやることも必要らしい。

足を伸ばして湯船に浸かる銭湯の開放感しかり、あの温度しかり、溜まり溜まったものが一気に流れたような素晴らしい心地よさであった。

今の家での生活はあと2週間程度で終わってしまうが、居を移してもどこか見つけてたまに足を運ぼうと思う。

そんな久しぶりの銭湯体験でした。

BiSH 新アルバム「GUERRiLLA BiSH」全曲感想

BiSHが売れている

昨日はスッキリ!!出演。明日はMステ。

情報過多。

怒涛の販促宣伝。売れるというのはこういうことなのですね。

情報咀嚼能力がそう逞しくない人間としては、やっとやっと新アルバムを聴いている段階である。いっぱいいっぱいです。

 

アルバム発売

昨日、新アルバム「GUERRiLLA BiSH」が発売された。

タワレコ限定のゲリラ販売があったものの、正式な発売は昨日。しかし一昨日、僕はフラゲを決め込んだ。

 

CDをフラゲするなんていつぶりだろうか。

レジに並びながら、中学生の頃、フラゲしたCDを発売日の校内放送で流していたことを思い出していた。潰れる寸前のニキビのような、限界極まっている感性に突き動かされていた当時。10年経った今でも同じようなことをしている。

電車に揺られながら懸命に新譜のセロファンを剥がす。聴けないから、とりあえず歌詞カードを眺める。すごく生暖かくて懐かしい気持ちであった。

 

いいとして。

ざっと聴いたところを書き残しておきたい。

 

THE GUERRiLLA BiSH(AL+DVD)

THE GUERRiLLA BiSH(AL+DVD)

 

 

13曲入っている。

1.My landscape

2.SHARR

3.GiANT KiLLERS

4.SMACK baby SMACK

5.spare of despair

6.プロミスザスター

7.JAM

8.Here's looking at you, kid.

9.ろっくんろおるのかみさま

10.BODiES

11.ALLS

12.パール

13.FOR HiM

GiANT KiLLERS、プロミスザスターは先行でリリースされていて、My landscapeはリードトラックとしてMVが公開されている。

そういうわけで、完全新曲は10曲。耳馴染みの曲が3曲。

 

総じての感想

アイドルというコンテンツは、本当に色々な音楽と組み合わせられるものなのだなと、改めて思い知った。

「楽器を持たないパンクバンド」として活動している彼女たちだけれど、音楽の規模はパンクバンドのそれを確実に超えてきている。

最初は「アイドル×パンク」だったのが、「アイドル×エモ」や「アイドル×メロコア」、結局は「アイドル×ロック」という結構広いジャンルを包括する存在となりつつある。それは、人気が出てきている証左である。

メタモンのように、何にでも染まれる。どんな曲でも演っていける。

これがアイドルの、もとい、BiSHの良さとなっている。

 

そういうわけで、ワンジャンルに凝り固まったアルバムというよりは、色々な曲が聴けるアルバムとなっている。

胃もたれもせず、聴けるのではないでしょうか。

 

以下、それぞれの曲について。

 

1.My landscape

前も書いた。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

スッキリ!でも披露した曲。

加藤浩次が、

「楽器を持たないパンクバンドって言うけど、パンクじゃないよね?これ?」

みたいな反応をしていた。そうです、もはやこれはパンクではありません。脱皮しようとした意欲作です。

アルバムの一曲目、アルバムの指針を決めると言ってもいい重要な一曲の始まりが、ストリングス。これまでのアルバムとの毛色の違いに驚きを禁じ得ない。

 

やっと歌詞を拝見したわけであるが、作詞者がJ×S×K。渡辺淳之介氏である。

敏腕プロデューサーでありながらエモい歌詞製造機である彼。オーケストラ、プロミスザスターと、有名どころの歌詞の多くは彼の手によるものである。

 

エモい歌詞はわかりやすさが前提となる。

オーケストラで言うところの

やがて訪れたよね さよならの声 忘れはしないよ

あんなにも近くにいたはずが 今では繋がりなんて あの空だけ

端的に別れの寂しさを表している。

豚骨ベースの家系ラーメンのようなわかりやすさがないと、エモったらしい歌詞にはなかなかならない

そして、大衆受けする楽曲の多くに、エモい歌詞はつきものだ。

 

対してこのMy landscapeの歌詞はとても抽象的である。歌詞の中身よりは音に言葉を乗っけることを重要視したような歌詞。

だが、大抵の場合、そういう抽象の裏にこそ本音が隠れているものだ。

弱音と不安を抱えながらBiSHを動かしている胸中

まだリスクリスク

負えない 全てを

発散できぬ 涙流れて

頬 伝う ほぼ いらない

またいつかいつか

そう言えば叶うか

ほとほと疲れたまる何かよ

大きくない ほぼ いらない

サビ前の歌詞にそれでもやっていかねばならない気持ちと、覚悟が滲む

My landscapeは誰のlandscapeなのかって、多分渡辺さんのなんでしょうね。

 

2.SHARR

しゃらくさい歌。

モモコグミカンパニー作詞。

ミクスチャーロック黎明期のような雰囲気。レイジとかフーファイターズってこんな感じなんじゃなかったでしたっけ。サビのシャウトのバッキングで鳴っているアルペジオがイカしている。

歌詞の内容はリアルだ。My landscapeのような抽象はない。

多分新卒で入った会社で、お局様たちに邪険にされながらも懸命に働いた後、帰りの電車で思ったことを叩きつけてるんだろうと察せられる

すごくわかるよ、その気持ち。

後、シャウトやりすぎて喉壊さないか、僕は心配です。

 

3.GiANT KiLLERS

前に書いたと思ったら書いてなかった。

先だって発売されたミニアルバム「GiANT KiLLERS」のリードトラック。

ktaroootnk.hatenablog.com

 

OTNKの作詞に代表される、BiSHの空耳作詞担当、竜宮寺育氏が書いている。が、竜宮寺節は控えめである。

 

この曲はアルバムでの文脈というよりも、「オーケストラ」、「プロミスザスター」とリリースされた後の曲としての立ち位置で見た方がしっくりくる。泣メロ二発をリリースした後の、GiANT KiLLERS。ストリングスをふんだんに使うスケールのまま、これまでのBiSHの流れを汲んだような一曲。そして、My landscapeへと繋がる。

www.youtube.com

PVも曲の雰囲気をよく表していて良い。

PVありきの曲なんじゃないかって気もしてくる。

 

4.SMACK baby SMACK

再び竜宮寺育氏の作詞。

もう、みんなブリブリにノっている。歌ってて楽しいです感が存分に伝わってくる曲

曲調もベースリフからして王道ど真ん中だと思う。ロッキンの中くらいのステージでやってるバンドが提げてても全く不思議じゃない。

Bメロラストの

物理の法則か?

でペンタトニックスケールをベタベタに駆け上がった後の

逆らっていたくない

心地よく縛られて

というサビ。たまらない。垂涎。

そして何しろ、大サビ前のアユニパートである。

ショタボイスとして名を馳せたアユニ・Dが精一杯のドスを効かせて歌う。ハムスターが牙をむいたようなその声が、ちゃんとかっこいい。成長著しい。

 

5.spare of despair

アユニ作詞。

スカっぽいリズム⇨シェイク!シェイク!⇨サビに行くと思ったらCメロでブレイク⇨四つ打ちシェイクなサビ

燃える展開。心底踊りやすそうな曲調である。アイドルのライブではコールするのが正義みたいな風潮あるけど、この曲とか普通に踊れるじゃないの。コール勿体無い。

そして、サビではハモってる。

BiSH「All you need is love」以来ではなかろうか。

歌詞も秀逸。spare of despair、絶望のスペア。ディストピア極まりないタイトルだが、身の丈で感じている絶望を歌っている。

サビの頭

失踪した気持ちに出会って絶望

の語呂の良さったらない。全く無駄なく歌詞が音に乗っている。テトリスの長い棒の如き収まりの良さだ。

後頭部がバイオレンス

何千回の過去純情

あたりもなかなかのパワーワード。

 

6.プロミスザスター

素直な良曲。周知の階段を駆け上がっていった曲。

 

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書きたいことはあらかた書いている。

 

7.JAM

モモコグミカンパニー作詞。

ミディアムテンポのバラードである。曲の入りの、ミュートめっちゃかかったドラムとイントロのシンセサイザー。2000年代後半のファンキーモンキーベイビーズとか、Greeenとか、あのあたりの曲調を彷彿とさせる。ピアノは終始なり続けている。

放課後の教室に西日が入っている光景のような、セピアな情景を想起させられる音像。

 

曲調もそんな感じで、歌詞も自分の哲学を葛藤するような内容。

すごく飲み込みやすい曲だし、取り方によっては毒にも薬にもならない曲とも言える。ゴールデンタイムに流すならこの曲。お茶の間に安心して流せる。

 

8.Here's looking at you, kid.

リンリン作詞。

やったぜ、脳みそストップロックの時間です。あらかたパワーコードぶん回しプレイで押し切れる。ヤバいTシャツ屋さんあたりが弾いてもおかしくない曲。

「楽器を持たないパンクバンド」を標榜して、1枚目、2枚目あたりまではさもありなんパンク然とした楽曲が多かった。しかし、最近は売り出し方の方針なのだろう、パンクパンクした曲が少なくなっていたように思う。

変わったことは何もしない。ただ、それがいい。

 

JAM、Here's looking at you, kid.の流れで、一服といったところだろうか。

 

9.ろっくんろおるのかみさま

セントチヒロ・チッチ作詞。

これはあれだ、ポジティブになった「ファーストキッチンライフ」だ。

Aメロのドラムロールの間に歌詞を突っ込んで行く戦法は「ファーストキッチンライフ」でしかない。

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前アルバムのキラーチューン「ファーストキッチンライフ」はリンリンの作詞で、それはそれは負のオーラが充満した曲だったのだけれど、「ろっくんろおるのかみさま」は打って変わって爽やかな内容となっている。遊戯と闇遊戯の関係に近いだろうか。

君に届けば 夢で逢えたら

道の先に恋い焦がれ毎日

何と素直な歌詞かと思う。

割と硬質のメロから、開放感あふれるサビへ素直に繋がって行く。

2番サビのアイナの声が完全に楽器になってて笑いが止まらない。

 

10.BODiES

モモコグミカンパニー作詞。

bodiesと聞いて、映画スタンドバイミーの原題がThe Body(死体)だったって話を思い出した。しかしこの曲では別に死体のことを歌ってない。全く関係ない。

90年代のロックによくあるようなギターベースユニゾンのリフから、スカっぽいAメロ。松隈氏の中ではスカっぽいリズムがブームなのかもしれない。前作の「Hey gate」にしろ、本作の「spare of despair」にしろ。

モモコはエモさを歌詞に打ち込むのがうまい。先述のオーケストラ戦法だ。わかりやすい言葉で悲しみを歌ったり鼓舞したりする技術に長けていると思う。

Aメロ

全部作りもののような気がしてる

Bメロ

生きる意味の旅に 一人で出かけても どうせ見つからない

サビ

切り裂いた 意味なんてもういらないよ

起承転結のお手本のような歌詞回し。わかりやすさに僕らは心打たれる。

 

11.ALLS

アイナ・ジ・エンド作詞。

嵐でいうサクラップのような合いの手が入る。

High and Mighty Colorというバンドがあった。ORANGE RANGEに代表される沖縄ブームの頃だった。かわいい女性とかっこいい男性のツインボーカル。女性の方がメロを歌っている中、男性はデスボイスで合いの手を入れる。それを支えるめっちゃうまい楽器隊。

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好きだった。

ALLS。冒頭のデスボイスやウェットめっちゃかかったボーカルの合いの手。僕の中でHigh and Mighty Colorの影が見え隠れしている。気になって仕方ない。

特筆すべきはチッチのノリノリ具合。アイナ作詞にも関わらず、チッチの節回しのドンズバでハマってる。サビのチッチの歌声にはもはや美しさすら感じる。

 

12.パール

ハシヤスメ・アツコ作詞

これまた壮大なロックバラード。ドラムにかかったリバーブがどう聞いてもライブハウスの鳴り方じゃない。ホールやアリーナの鳴り方。

展開も熱い。

Aメロ⇨Bメロ⇨サビに行くかと思いきやまたAメロ⇨Bメロ⇨楽器全開ストリングス大爆発のサビ

焦らすだけ焦らしてサビに入る

サビでは終始ドラムがスネアとバスドラを連打していて、音が猛烈な圧力で迫ってくる。黙っていても心拍数上がってくる。

 

13.FOR HiM

松隈ケンタ・J×S×K作詞

壮大な楽曲群がひしめくGUERRiLLA BiSHの最後の曲は、バンド編成で弾ききることができる、シンプルなロックチューンだった。

RADWIMPS界隈のバンドを彷彿とさせるイントロ。

岡崎体育界隈のコミックバンドやレイザーラモンRGを彷彿とさせるようなメロの歌詞。

一転、真面目なサビの歌詞。

何を伝えたい曲なのかと、アルバムの最後にこの曲をなぜ持ってきたのだろうかと考えてみたんだけれど、まぁ、こういう事件が以前あった。

 

www.brandnewidolsociety.tokyo

 

BiSHの姉妹グループBiSの中心人物プー・ルイにダイエット企画を仕掛けるも失敗し、活動休止を言い渡すという流れ。

これがあまりに酷すぎるとそこそこの騒動になって、渡辺氏もまずまずの風当たりに晒された。

という一件に対しての、FOR HiMであると。

言葉一つが足りなくて

君に愛が届かなかったんだね

後ろ指を刺されながら

君に愛伝えればよかったんだね

計3回繰り返されるサビのフレーズが、途端に形取られて行くようである。

それ以外の歌詞で岡崎体育をするのも、このフレーズを聞かせたかったらなのだろう。

プー・ルイに向けた、プー・ルイへの懺悔をBiSHを使ってやろうというのも、なかなかの根性だとは思う。

 

 

書いた

ウワァァァァっと書いた。13曲分。

書いてみて思ったんだけれど、音楽のことを知っているようで、実は全然知らない。このリズムを言葉で表したいとか、この曲調を表現したいとか思うのだけれど、適当な言葉が全くもって思い浮かばない。鍛えなきゃならないなと、改めて思った次第。

 

さて、いよいよ売れにきている。売れている、BiSHだ。

別にこれを読んでもらってBiSHを啓蒙しようとか、そういう気持ちはあまりない。音楽を楽しむ方法が多様化の一途を極めている世の中で、3,000円払ってCDを買うというのは前時代的な話だろうから、CD買ってほしいとも思わない。

BiSHが周知されるようになって、誰かがアルバム名とかで検索かけた時の一助にでもなればいいと思う。

 

以上、「GUELLiRRA BiSH」のあらましでした。

 

 

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お歳暮商戦について、多少携わっている身として考えていること

お歳暮を贈られたことがあるでしょうか。

僕はあります。ほんの数回ですが。

 

縁あって、お仕事の一環でお歳暮に携わることと相成っている。

セイボといえば聖母マリア。キリスト系の幼稚園をでた身としては、ナザレの聖母、ベツレヘムの馬小屋を想起してしまいがちなセイボであるが、今は全く関係のない話。

 

 

お歳暮とは

小売り各社がここぞと声を大にする「お歳暮商戦」

つまり何なのかというと、「年に一度の大プレゼント交換会」である。

年末のご挨拶として、お世話になった方やご近所さん、遠方の親戚なんかに品物を贈る。多くの場合はお互いに贈り合う。

元を正せば先祖の霊に供物を捧げた御霊祭の名残が云々ということらしいが、この際どうでもいい。

 

 

お歳暮が苦しい

今でも年に一度(中元も合わせると年に2度)のプレゼント交換会として、存在感を見せるお歳暮ではあるが、ここ数年、露骨にお歳暮の受注が減っている。

売り上げ規模から行っても、縮小傾向にあることは間違いない。

その昔は1兆円を優に超える市場だったようだが、もう1兆円には届かない市場となった。

 

www.yano.co.jp

 

こんな素敵な調査がありました。*1

しかし、足元の売り上げも本当に落ちてる。

 

なぜ減っているか。当たり前のようにそれは、贈り、贈られる人の減少による。

つまり、プレゼント交換の輪の中から抜けていく人が多く、新規に参加してくれる人が少ない。

「文化の希薄化」と言ってしまえばそれまでなんですがしかし、それじゃ商売が面白くないだろう。

お歳暮に関わる身としては、やっぱりなんとかしてプレゼント交換会の輪を広げていきたい。

じゃあどうすればいいのか。

頭のいい人たちが色々と策を講じているようなんだけれども、市井の人として、貧の者として、ぼんやり考えていることをまとめてみたい。

 

 

なぜお歳暮を贈らなくなっているのか

なんでなのか。

考えるに、原因はいくつかある。

  • お歳暮を贈っていた人たちの高齢化(贈り主・贈り先の減少)
  • 贈ったら贈り返さなきゃいけない煩わしさからの逃避(贈り合うのはもう止めにしましょう合意の締結)
  • 年一とかではなく、カジュアルに繋がれるようになってしまった(SNSの隆盛)
  • モノが満ち足りた(物欲から承認欲へ)

どんなもんでしょうか。

 

お歳暮をタグ付けすると、多分「しきたり」とか「文化」とかだろう。

脈々と続いてきた文化やしきたりがここ最近でめちゃくそスクラップ&ビルドされている。

ひな祭り、端午の節句あたりも、少子化をの影響をもろに食らっている。

同じように、歳暮も高齢化の影響が直撃している。お歳暮のボリュームゾーンがこぞって高齢化している。自然と、母数が減っていく。

文化の担い手・文化の主役の母数が減ると、やっぱり文化の存続って厳しい。

 

また、贈り贈られなきゃいけないプレッシャーや煩わしさもあろう。

お祝いのお返しとかも、なんとなく頭の片隅にこびりついて離れない。

「やらなきゃいけないこと」が日常に発生すると、僕らは息苦しさを覚える。

できる限り快適な生活をと思うばかり、お歳暮を贈らなくなる。

お互いにもう贈るのやめましょう協定を結んだり、フェードアウトしたり、

手を替え品を替えお歳暮の総数を減らそうとする。

 

さらにはご挨拶が簡単にできるようになってしまった。

手紙の代わりのライン、お歳暮の代わりの「スタンプを贈る」

そんな文化が出て来ているだかいないだか。カジュアルに繋がれる・ゆるく繋がれる世界に堅苦しいご挨拶は煩わしいだけのでしょうか。

 

また、結局のところモノが満ち足りている世の中だとも言えるだろう。

昔はモノが価値の権化として君臨していたけれど、今は写真だとか体験だとか、モノじゃないものが価値を高めて来ている。モノより思い出とはよく言ったものだ。

するとプレゼント交換会という仕組み自体が前時代的に見られるのかもしれない。

いや、モノは足りてるし。欲しいものだけ買えればいいし。

そんな声が聞こえる。

 

 

お歳暮の売上を増やすために

簡単な話で、売上を増やすためには以下しかない。

  1. 贈る人を増やす(客数を増やす)
  2. 贈り先を増やす(客単価を上げる)
  3. 贈りものの単価を上げる(これも客単価を上げる)

売上が客数と客単価の掛け算で成り立っている以上、それ以外の選択肢はない。

贈り物の単価を上げるというのは、人と人との関わりの深さに委ねられてしまうので、お歳暮を提供する側とするとどうにもしようがない。

すると、我々の介在する余地があるのは、

贈る人を増やす・贈り先を増やすの二点になる。

お歳暮がプレゼント交換会の特性を持っている以上、この二点はほぼ同義だ。プレゼント交換会のプレイヤーを増やす。そういうことである。

 

 

お歳暮の牌をどう増やすか

贈る人を増やしたい、プレゼント交換会の参加者を増やしたい、と考えたとき、顧客像として二つの存在が仮定される。

  • お歳暮文化圏にいる人
  • 非お歳暮文化圏にいる人

お歳暮文化圏にいる人

つまり、すでにお歳暮を送る習慣がある人。プレゼント交換をしあっている人。

変な話、この層は黙っていてもお歳暮を贈る。どこから贈るかの違いはあれど、贈る。

しかし一方、

非お歳暮文化圏にいる人

この層は贈らない。年の瀬になったらお歳暮を贈ろうというアタマがそもそもない。

 

その上で会社規模で、お歳暮の牌を増やすためには以下が考えられる。

  • 他の会社から贈っていた人を我が社に引き寄せてくる(お歳暮文化圏内でのシェア増加)
  • これまでお歳暮を送っていなかった人が贈るように仕向ける(非お歳暮文化圏の開拓)

 

競合他社とのつばぜり合いだけ考えると、他社からどうやって顧客をぶんどってくるかというのは大切な事項だろう。

百貨店・スーパー各社がこぞって乗り換えキャンペーンを企てている。

だが結局、それは水が漏れている桶から各社が手酌で水を掬っているようなもので、全体の母数としての顧客は減るばかりだ。

だからなんとしても、非お歳暮文化圏から顧客を引っ張ってこなくてはならない。

お歳暮を新たに贈る人を増やさないと、そのうち死に市場になるのは見えている。

 

 

成功事例としてのハロウィン

あの騒ぎはどうしたものかと思う。本当にすごいことになった。

Facebook、Twitter、Instagramのインフラ化に美しいまでに乗じた文化隆盛。

消費マインドがどうこうとか、個人消費が低迷しているとか、ネガ要素をぶっ飛ばすだけの乱痴気がそこにある。

ハロウィンにおける消費というのは、歳暮とは真逆に位置すると考えている。

歳暮を、特定の人ににモノを贈る行為とすれば、

ハロウィンは、不特定の人と仮装(コト)をする行為。

歳暮が一対一の物々交換であるとすれば、

ハロウィンは、不特定多数との事象共有。

ある程度モノが満ち足りて、全国津々浦々どこでも同じものが手に入るようになった

物欲が踊り場を迎えた世の中で、上位次元の欲求として台頭した承認欲求

ハロウィンではモノを贈るでもなく、仮装した自分の姿をSNSでの披露し、承認欲求が満たされている。流行るわけだ。

すでにハロウィンの消費傾向も変化していて、2015年を潮目にフルチューン仮装から部分仮装へとカジュアル化しているらしい。

文化の変遷があまりにも早い。

だが、どちらにせよしばらくはこの承認欲求をどう満たしていくかが大衆消費をくすぐるキーにはなると思う。

 

 

具体的方策として

まず考えなければならないのは、お歳暮という文脈での贈り物がどこまで通用するかである。

上記の通り、モノへの欲求よりも承認欲求が優位になっている世の中で、モノを贈るシステムが通じるのか。

先出の調査にて、中元歳暮の消費は落ち込んでいる反面、ギフト全体の消費は上昇傾向にあると出ている。カジュアルなギフトは好調らしい。

少なくとも、モノは贈られているようである。

バレンタインデーしかり、父の日母の日しかり。

 

なぜカジュアルなギフトは好調なのだろうか。手軽さによるものか。

多分これ、カジュアルだからこそ工夫の余地があるということなんだろうと思う。

現在の歳暮ギフトの主流といえば、大手メーカーのビールやハム、ジュース、お菓子とか。

テンプレートテンプレートアンドテンプレート。テンプレート同士を贈りあっている状況である。

受注会社によって多少のラインナップの違いはあろうが、どの会社もカタログの半分は同様の品揃えなのではなかろうか。

猛烈に工夫の余地がない。

受注店としては可能なかぎり様々な商品を用意して特徴化を図っているが、結局は会社側が用意したカタログから選ぶ仕組みには変わりない。

対してバレンタインデーはどうだろう。

自作のチョコを贈る。レシピこそテンプレートになりがちかもしれないが、それだって無数に存在する。

どんな形にするか、どんなトッピングを入れるか。無限に工夫の余地がある。

それを写真に撮ってSNSにアップするまでが動線。見えるようだ。

散々いうけど、尚ハロウィンの工夫の余地をや

 

例えば、歳暮に何らかの形で工夫の余地を残したらどうか

お手紙が入れられる程度のものではなく、もっと根本的に、DIYしたものを贈るとか、稲作から関わった米を送るとか、そういうレベルで。

ここのところの動向からして、「私が作った」とか「私だけの」とか「私オリジナル」への渇望は途轍もない。

各々の特製品をお歳暮、ないしは「年末のご挨拶」として贈りあって、それぞれでSNSにアップとかしたら。

Facebookで無限に人の投稿を見てしまうあの心情をくすぐってやれはしないか。

水引アートが話題になるくらいだから、カジュアルお歳暮があっても全く不思議じゃないと思う。

ただ、いざ現在のように、全国規模の大プレゼント交換会をやるとなると、どうやって配送するねんみたいな諸問題が上がってくるだろうけど、たいていはドローンが解決してくれる。大丈夫。


承認欲求とプレゼント交換会の掛け合わせだが、きっと相性は悪くない。けど商売としてお金を発生させていこうとすると、やっぱりハードルが上がる。

売れんの?それ。

に口答えするには相当の気合いが求められる。そして萎える。

 

 

既存のお歳暮屋さんの限界

そうはいっても、今もなおお歳暮商戦は猛烈極まっており、いざスタートが切られてしまうと眼前の繰廻しに精一杯になってしまう。

嘘でも1兆円規模(若干満たない)の市場である。

現場にこれ以上の業務負担を増やすことを考えるとゾッとする。無理だ。

そのためだろう。既存のお歳暮屋さんは新規顧客開拓に消極的である。

既存の顧客等にとって便利なサービスへの注力、競合から顧客を呼び込む施策への注力がもっぱらだ。

でも、黙ってたらどこまでも牌は減っていく。下げ止まることはないだろう。

既存のお歳暮屋さんとしては、特命チームでも作って集客計る以外に道はない。でもそこに人的インフラを割くことはないと思う。

きっと人にもそんな余裕がない。

ほんと難しい。


 




スタートラインに立った時にはもう勝負は決まっている。

高校陸上部の恩師の言葉である。

準備段階で全て勝負は決待っている。スタートラインに立った段階での不確定要素なんて微々たるもの。

 

商売にしたってそうだ。

今日の売り上げ、今日の売り上げと売り上げを確認するのは、結果に過ぎない。それを受けてどうするかである。

もっと混め、もっと人集まれと、その場で念じても混まないし人は来ないし売れない。

来期に何を生かすか。

PDCAと言われるようだけれど、とかく季節労働のようなお歳暮のPDCAサイクル実にゆっくりである。

だからこそ一回一回の検討を大切にしなければならない。一回一回、新規開拓に真剣にならないといけない。

 

会社の末梢神経のような立ち位置にいるから、僕の意は大抵発せられた瞬間に雲散霧消する。

これが絶妙にサラリーマンのやる気を削いていくキーであると思うのだが、まぁそれは仕方ない。サラリーマンはそんなもんらしい。

「偉くなった時にやりましょう。」

いつか言われた言葉。典型的だ。それを隠れ蓑にして生きていくのは簡単だが、悲しい。

 

 

以上が、ここのところ感じていることです。

お歳暮、これからどうなっていくのでしょうか。また、どうなって行ったらいいものでしょうか。

どうしていくべきでしょうか。

*1:サイト内pdfよりご覧いただけるとありがたいです。貼り付けるのは怖いのでやめます。

ここ最近考えていることについて

ほとんど具体的なことは言わないし、言えない。

けど、このブログというものを書き続けている中で、拒食嘔吐気味になっていた反面、本当に嘔吐したいことを吐き出せてなかった感じがしていたので、なんとか書いていきたい。

 

人生を何にぶっこんでいくか

ばあちゃんが死んだことが一つ大きかった。

通夜と葬式でばあちゃんがどれだけ頑張って生きたかがよくわかった。彼女の人生の多くは家業の鉄工所のぶん回しに彩られていて、その関係の人たちが大挙して押し寄せた。つまり、ばあちゃんは家業に人生をぶっこんだということとなる。その家業も、山や谷、時代の追い風や向かい風もあったけど、それなりに誰かの力を借りてやりきってきた。乗り切って来れた。

また、およそ三年前に中四国を回って自分のルーツを探したこと。これも大きい。

肉親というか、遠い先祖に当たる人たちが北海道という未開の地に夢と希望を持って郷里を飛び出してきたという事実。そしてうまく北海道に根付いて、事業を起こしていった事実。

翻って、自分も何かできる気になるし、やっていかなければならない気持ちになる。

色々な人に自分のルーツを探した話をするが、その度に誰よりも心を揺さぶられているのは僕だ。滋賀の田んぼに囲まれて、沼島の絶海のほとりで、北海道を夢見た人間の子孫なんだと自らを奮い立たせた。その景色が今でも現れる。

20代を折り返した程度の人生だが、自分にどれだけ時間が余っているか知れない。

新聞を読んで、自分も何かできるかもしれないと思えるのはいつまでだろうか。やれるうちにやらないと絶対後悔する。

 

だから何に人生を賭けていくのか

ほんと具体的に何ができるのかって話。これが大事なのにも関わらず、ビビるくらいすっからかんでビビる。ビビり散らかす。

しかし今商売をしていて、地べたを持って、店舗で商売していくスタイルの強みと弱みとはなんとなく見えた気がしている。

アマゾンエフェクトアマゾンエフェクトと異口同音に賢そうな人たちが叫ぶ。

家から出ない・財布を出さない・現金を払わないスタイルの商売の強みというのは、ひとえに便利さである。びっくりするくらい便利。あと、現金を払わないから購入までの障壁が一つ減る。ある種の買い物してない感を味わえるために、ポンポン買い物をしてくれる。財布を出し渋る行為がない。脳みそストップショッピングである。

重ね重ね、びっくりするくらい便利なネットショップ略してアマゾンだが、実際に地べたを持って店舗を持って商売している連中に勝てない点があるとすれば、それは実体験である。当たり前だけど。

最近はインバウンドもコト消費に変化してきていると、これまた異口同音に賢そうな人たちが叫んでいる。国内消費も大概同じだろう。旅行客は増えているようだし、相変わらずUSJは絶好調。TDLも続く。そんな中我らが北海道の翼、AIR DOは人手不足で欠航が相次いでいて世も末感を禁じ得ないのだけれど、とりあえず頑張れって思う。

もので言えば化粧品がすごい。

外国人・日本人問わず、百貨店やドラッグストアで化粧品がバカ売れしててウハウハだというのは、化粧品が体験できる消費財かつ美容という女性の本能を揺さぶる代物だからだ。「本能レベルで求める、コトとして消費できるモノ」である。マジで金のなる木。野郎どもが本能で風俗店に出入りするのと同様に、女性は化粧品を求める。表現はクズだけど、どちらも金のなる木。そりゃ儲かるわ。

逆に、日用消耗品はガンガンネットショップで買うようになる。物自体の価値はどこで買っても一緒なので、使い心地を知っているものとか食べ心地・飲み心地を知っているものはネットの範疇。何しろ便利だから。ある種化粧品も「これ」と決まればネットに流れていくのだけど、美への欲求は決め打ちできないらしい。ガンガンみんな試しメイク(タッチアップっていうっぽい)しにいく。で、買う。

結局のところ、今のネットと店舗との関係は

「想像の範疇=ネット、想像の外=店舗」と表せる。

ネットとしたら、どれだけ個人を相手にしたマーケティングを詰めていけるか(オススメの動画機能やあなたへのおすすめ商品機能)に注力しているし、店舗はどんな体験をしてもらえるか(顧客体験型のイベント、それを生かした商品紹介)に注力している。

顧客個人のペルソナを仮定する正確さはネットに軍配があがるが、満塁ホームランのような、こんな商品買おうと思ってなかったけどがっつり心奪われて買っちゃった体験を創出できるのは店舗である。一長一短。

 

さて、僕も人生を賭けて商売はしていく気でいる。

で、何を使って、何を売って何を売らなくて、どこにいるのをやめてどこで生きていくのか。これを選ぶこととなる。

僕にも家業がある。

ひいじいちゃんが北海道に入植してきてから続く本屋が僕の家だ。

小学三年生の頃書いた作文からして家業を継ぐとしたためていたくらいだから、余程教育の仕方がよかったのだろう。実家大好き人間である。

というか、実家・地元が好きでたまらないというよりは、ひいじいちゃんが起こした店を屋号をそう簡単に潰しちゃならないだろうという気持ちでいる。今は100年も前から続いている本屋という形態をとっているが、別にそれがどういう方法であってもうちの店が続いていけばそれでいい。本は売りやすいだろうけども。

じゃあ、本は本として、手前の代で何を為すのか。

これをなんとも定めかねている。

 

一つ、可能性を感じているのは、文化を興すこと。文化商売。

年の瀬になってお歳暮のCMがよく流れる。僕もあの商戦に与している。現場にいて思うのは、文化が持つ購買意欲の高さだ。

お歳暮に関してはもはや購買行動とすら思っていない人が多い。

「お歳暮は送るもの。お付き合いとして不可欠なもの。」そういった方たちがたくさんいらっしゃって、おかげで僕らお歳暮に関わる人間が少しずつ食べていける。贈る人よし、貰う人よし、メーカーよし、仲介業者よし。配送業者は最近苦しいけれど、概ねみんな嬉しい商売である。

さらに、文化には多くの人が参加する。人が集まってこその文化。

パンクバンドのライブで、アーティストが客に向かってダイブするのを見たことがあるだろう。あれは、たくさんの人が支えてくれる前提で飛び込む。仮に一人が支えてくれなくても、大密集した人間がそれとなく支える。大コケがなくなるのだ。

チリツモの究極系のような売れ方。それが文化稼業。

自社的にもある程度売上の見込みが立つメリットもあれば、多くの人のお金を掘り起こすメリットもある。

最近はやりのビットコイン。ビットコインを稼ぐ(増やす)ことをマイニングと表現するのは有名だろう。「掘り起こす」という意味の単語となる。実際は暗号を解いてブロックチェーンを繋げる行為のようなんだけど、「掘り起こす」という単語はすごくいいと思う。

一人の100万円と100万人の一円。額は一緒でも後者の方が効果としては大きい。100万人が一気に手を引くことも考えにくければ、100万人のうちの50万人が五円出してもいいかなって思う可能性がある。100万人の財布を掘り起こす。それが文化だ。

何かしらそういった商売を企てたいんだけど、具体的な話が全く思いつかない。

なんかないかなーって考えながら生きてたらきっと不意に何かを捕まえられると信じて生きてる。真っ最中である。

 

全然シラフなんだけどめっちゃ眠いから一旦筆を置いて明日の朝にでも恥ずかしがってみる。では。