徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

映画「風の色」の感想〜恩師親子を想って〜

映画を観てきた

kaze-iro.jp

「シン・ゴジラ」と「君の名は。」をやっと観た程度の映画リテラシーしか持ち合わせていないのだが、鑑賞を決めた。

 

この映画と僕には、2つ縁がある。

1つが、表題にもある通り、ロケ地が地元であったこと。

普段はなかなかフィーチャーされない我らが道東だが、本作にはこれ見よがしに道東の風景が出てくる。監督のクァク・ジェヨンさんがオホーツクをいたく気に入ってくださったらしい。流氷、砕氷船に能取岬に温根湯温泉。おらが町、北見の街並みもところどころに顔を出した。確かに、オンリーワンの絵になる景色は確かに多いかもしれない。オホーツクも捨てたもんじゃない。

もう1つの理由は、高校時代の陸上部の先輩が本作の配給会社に勤めていること。

僕個人としては、先輩本人はもちろんなのだけれど、彼の父親との縁が深い。彼の父は高校教師で、同陸上部の顧問をしていた。僕の恩師である。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

専門競技が近かったこともあり、高校3年間はもちろん大学で陸上を続けるようになってからも気にかけてもらった。一緒にたくさん夢を見て、たくさん現実にぶつかった。お世話になったなんてもんじゃない。足向けて寝られない。

恩師とは、毎帰省の度に連絡を取り、ご飯に行く。平気で4〜5時間話をする。その様、ほとんど付き合いたてのカップル。いいだけ語らうので、家のことも洗いざらい話題に出てくる。その中にはもちろん、恩師の息子の話も出てくる。

この帰省であった際には、車の中に風の色のポスターを積んでいた。息子が関わった作品が全国で公開されるのが、本当に嬉しいようだった。ここがロケ地に使われたんだ〜。と、零下10度を下回る北見の町を歩きながら話す恩師のホクホクした顔。これは観なければと心に決めたのだった。

 

あけすけな一行あらすじ

ドッペルゲンガーと解離性同一性障害とに翻弄される古川雄輝と藤井武美の恋物語

 

少し細かな内容と感想

一行あらすじにも書いた通り、本作の大きなポイントとしてドッペルゲンガー解離性人格障害がある。

ドッペルゲンガー

ご存知の方も多いだろう。「この世には自分と瓜二つの外見をした人間がいて、互いが出会うとどちらかが死ぬ」という迷信。

ドッペルゲンガー - Wikipedia

本作では、古川雄輝が二役を演じている。北海道の有名なマジシャン「隆」と、東京に住むなんでもない青年「涼」。ドッペルゲンガー同士の二人は、時間差はあるものの、一人の女性と恋に落ちる。

その女性が、解離性同一性障害を持つ「亜矢」と「ゆり」。

解離性同一性障害

端的に言えば、多重人格

「24人のビリーミリガン」が、解離性同一性障害では有名な話。

24人のビリー・ミリガン〔新版〕上 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

24人のビリー・ミリガン〔新版〕上 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

専門的な話はアレだが、つまり、強い心的なストレスからの回避行動である。

劇中では藤井武美が演じる「亜矢」「ゆり」

本来の人格は「亜矢」。幼い頃に火事で両親を亡くしたことから解離傾向が芽吹き、古川雄輝演じるドッペルゲンガー勢との恋をきっかけに大きく人格が割れてしまう。

時系列で説明すると以下。

マジシャン・隆と亜矢が北海道で出会う。恋に落ちる。

隆、オホーツク海からの脱出マジックにミスって知床の海に沈み帰らぬ人に。

亜矢ショック。新人格「ゆり」が生まれる。おばを頼りに上京する。

なんでもない青年・凉とゆりが出会う。恋に落ちる。

ゆり、唐突に死す(人格的には死ぬも、北海道に戻って「亜矢」として生きる。ゆり時の記憶は無い)

凉ショック。北海道に行って亜矢と出会う

 

つまり、

ドッペルゲンガー隆・凉の二人と恋に落ちた、同一人物ながら別人格の亜矢とゆり。3人と4人格が中心に世界が回る。

 

多分伝えたかったこと

一つ大きなテーマがあるとするなら、それはきっと愛情の形

涼と亜矢が映画「LEON」のコスプレをして北見の街中を歩く描写がある。

作中でもっともコミカルに描かれている場面と言って過言ではないだろう。バチバチにコスプレを決めた二人が閑散とした街を行く。ひどく場違いで笑いを誘う。

歩き回った末にたどり着いた広場*1で、涼は亜矢にこんなようなことを叫ぶ。

「次に会うときはレオンとマチルダだからな!」

 

LEON大好き人間が親しい人にいたため、幸いにも鑑賞したことがあった。

殺し屋レオンと、隣人の少女マチルダ。おっさんのジャンレノと、天使ナタリー・ポートマン。二人の間に成立していた愛情というのは、年齢を超え、男女のそれとも違う、特殊な信頼関係だったと記憶している。

 

全く別の人物だけど、同一の人格とされるドッペルゲンガー。

同一の人物だけど、別の人格を持った解離性同一性障害。

お互いの「じゃない方」同士である涼と亜矢が生き残った世界で、二人に必要だった愛の形というのは、「隆と亜矢」「涼とゆり」の正規のペアが育んだものとは違うものだった。

その理想形として、二人はレオンとマチルダを目指したのだと思う。

物語のクライマックス。隆が失敗した*2脱出マジックを涼が再演するときまで、本人たちのレオン・マチルダへの投影は続いていく。涼がマジックに無事成功することにより、隆と亜矢が越えられなかった壁を、レオン・マチルダに投影された涼と亜矢が越えていったように思えた。

 

 

マジックと北海道

この二つの要素は物語の本筋に影響しているようでしていない。「愛情の形」というメインテーマが食材だとすると、「マジックと北海道」は器だ。木の器でスープを飲んでも、陶器でスープを飲んでも、スープの味は変わらない。

けど、印象は左右される。

マジックに関して監督自身は、

マジックをテーマにしたのは、作品の神秘的でミステリアスな雰囲気を強調するため

「猟奇的な彼女」で有名なアジアの巨匠クァク・ジェヨン監督最新作【映画「風の色」応援団プロジェクト】 - クラウドファンディングのMotionGallery

と返答している。

わからないでもないけれど、僕が観ていて感じたのは取っ付き易さだった。

スポーツや芸術と違って、マジックは頭を使わないでビックリできる。カードが変わった、ひよこの数が増えた、人が消えた。ただ、現象に驚く。そこに特別な知識は必要ない。

ドッペルゲンガーや人格障害がフックとなっていて、ともすれば人物相関図が見えにくくなってしまいがちなストーリー展開の中、その他の要素に頭を割かないで観ていられるのは一つよかったと思う。

また、北海道というテーマは人それぞれかもしれないけれど、地元民としては非常に良かった。

石北本線があれほどまでに画面に映る映画がこれまであったのだろうか。砕氷船おーろら号に、近年稀に見る密度で流氷が押し寄せてきているオホーツク海。雪原を突き進む一両編成の汽車。紛れもない故郷の風景である。

盛大な故郷補正を抜きにしても、綺麗な映像だったんじゃなかろうか。

本州の人が観て、どう思うのだろう。各々の色眼鏡を通して観てみてほしい。綺麗だし行ってみたいけど住みたくはないって言われるのはなんとなく想像つく。

 

 

そのほかの諸々をざっくばらん

解離性同一性障害はまだしも、重度の自閉症として出てくる亜矢の兄(竜馬と言うらしい)がコミカルに描かれているのはどうなのよと思った。初登場の際に看護師が竜馬の人となりを紹介するのだが、なかなかにリテラシーの低いセリフ回しだった。気にしすぎかもしれない。けど気になった。

 

何しろ映画経験が少ないのでどうこう言えた立場じゃなかろうもんだが、本作は結構感情でゴリゴリ押していく印象を持った。ドッペルゲンガー?人格障害?レオン?みたいな。作品通して、説明が少ない。

たまたま、ギリギリ知っている範囲の要素だったからよかったものの、振り落とされる危険性も十分あった。そういう面で、観る人の予備知識次第なところは多分にある。

どの映画もそんなもんだと言われたら、その通りだとも思う。

 

あとなんですかね、マジックって格好いいですね。

古川雄輝が不意にやるテーブルマジックやコイン回しが流麗なことこの上ない。亜矢の兄が入院している病院の看護師たちにマジックを見せていたシーン。一挙手一投足に黄色い声を浴びる古川雄輝にジェラシーを感じるとともに、マジックの無限の可能性に震えた。

ああなりたい。俺もああなりたい。

藤井武美も可愛かったけど、やっぱり看護師たちにちやほやされたい。

 

以上

あらかた感じたことは言い終わりました。

貴重な経験をさせてくれた恩師親子に今一度御礼を述べ、本稿を締めます。

*1:北見神社と思われる

*2:本当はあえて失敗した

生産者の思い

行きつけになりそうなお弁当屋さんができた。

お兄さんが1人でやっている個人経営のお弁当屋さん。ワンコインで手作りのお弁当が買える。ボリュームも味も品数も文句なし。弁当の他に、クッキーやマフィン、ケーキなどの甘味も置いてあり、見事僕は単価アップに貢献している。甘いのも美味しいのだ。

弁当の内容がしっかりしているのは大前提として、行きつけにしたい気持ちが湧いてくるのはそれだけが原因じゃない。

 

お兄さんが本当に嬉しそうにお弁当を売る。

 

いらっしゃいませから、ありがとうございましたまで、元気いっぱい、店に来てくれて嬉しい気持ちを存分に表している。あからさまに人の良さそうな、嬉しそうな笑顔をされてしまった日には、また来る気になってしまう。

きっと、苦労して仕込んだお弁当なのだろう。1人で材料を仕入れて、料理して、販売している。どれも美味しいですよ!と衒いなく話す様は清々しい。お兄さんの、生きた声だ。

 

50億個を超える勢いで伸びている配送品。増やしているのは他でもない、Amazonを代表するネットショップ勢だ。というか、Amazonだ。

ネットショップでは、生産者の意見より消費者の意見が重要視される。

なぜなら、エンドユーザーと直接触れ合うのは配送業者だから。ただ、届けることを使命とした業者。中身が本だろうと洗濯機だろうと業者にとっては変わりのないものなので、商品に対しての思い入れはない。生産者はAmazonという大きな暖簾にお願いし、Amazonは配送業者に委託する。薄まり続けた生産者の思いはまずエンドユーザーに届かない。

だから、消費者のレビューを見て、さらなる消費者が購入を検討する。生産者の熱い想いよりは、消費者の抱いた素直な感想で勝負が決まって行く。

消費者の論理に乗っ取られてしまっているからこそ、弁当屋のお兄さんの笑顔と声に余計心が動く。

 

 

Amazonで何気なく頼んだ本や雑貨の類。

そこには、僕には伝わらなかった思い入れがきっとある。配送業者の後ろのAmazonの後ろの問屋の後ろあたりに隠れている思いを、汲み取ることができるだろうか。

とりあえず棚上げしとこう

本件の採決は棚上げとなりました。

棚上げ。

読んで字のごとくの最右翼。棚の上に上げてしまうから、棚上げ。一時保留。ちょっと今すぐは判断しかねるから棚上げ。

全くもって解決していないのにもかかわらず、棚上げした瞬間、僕らはなんとなく一つの議題が片付いたような錯覚を起こす。目の前から問題が見えなくなるため、気持ちが楽になる。変わらず、棚の上で鎮座しているというのに。

なんとなく頭の片隅に棚上げ案件があるうちはいいが、多くの場合、いとも簡単に忘れ去られる。忘却の彼方へ。

そんな折、棚卸しなんていう行事がある。

片付けに際しての物理的な棚卸し、決算のための棚卸し、個人的な整理をつけるための棚卸し。帳簿がなくたって、とりあえず今持ちうる財産を確認するのである。

そこで気づく。棚上げ案件が目の前にまた出てくる。

いつだったか、面倒くさいからって棚の上に放り投げた事案が、埃をかぶってカビが生えて腐りかけた状態で突然顔を出す。

「よっ、オラ、棚上げ案件。忘れたなんて言わせねーよ。どうする?どうする?」

 

とりあえず置いておこう。

とりあえずしまっておこう。

とりあえず、とりあえず。

「とりあえず」」と「棚上げ」」のツーカー具合は、爆弾低気圧と豪雪のそれに匹敵する。とりあえず置いたペットボトルは見て見ぬ振りをされ続けるうちに本数が増える。とりあえず仕舞った服は2年後くらいにブッサイクな顔して出てくる。

実家の僕の部屋は、とりあえずが溢れている。

とりあえず手をつけた問題集と、書き始めのノートが棚上げされたまま残っている。中には解きかけの状態で保存されたノートもあり、これだけ見たら志半ばで夭折した天才数学者の筆跡のようにも見えなくもないけれど僕は元気です。解いている問題も高校生であれば大抵解ける問題です。

一人暮らしの部屋の方にはとりあえず隅っこに押し込んだテレビがある。棚上げではない、隅押込み。今時、厚さが5センチくらいあるテレビ。引っ越しの時に手段を選ばずに投げてしまえばよかったのに、とりあえず持ってきてしまったが故の棚上げ案件。

 

「とりあえず」を撲滅しさえすれば、あらゆる棚上げ案件も撲滅されて行くに違いない。

とりあえず文章書きながら、そんなことを考えている。

ボウリングのコツ~僅かな練習で193点を記録した素人からの訓え~

今日も性懲りもなくボウリングに本日も行ってきた with 両親。

親孝行、親孝行と呟きながら、「地元に友達居ないの?」って聞かれたら答えに窮する。いや、これは、家族の絆。なにしろ、半年に一回の帰省なのだ。親と居られるときは一緒にいた方がいいに決まっている。そこにボウリングが介在しているのであれば、やる。それだけのことだ。

 

さて前回、ボウリングをコントロールすることを覚えた。

 

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投げて投げっぱなしのボウリングではなく、狙いを定めて投げ、結果と目標とのギャップを埋めるためのボウリング。どういった動きをすれば思い通りの球を投げられるのか。まっすぐの投球ができないのはなぜなのか。試行錯誤。トライ&エラー。積み重ねた分だけ強くなる。

前回の筋肉痛を引きずりつつやってきた二回戦。

結論から言おう。大きく自己ベストを更新した。193点だ。

 

20180123221712

 

見てくれ。見てくれ、このスコアを。

一週間前には100をうろうろしていた人間が出したのである。まぐれと言われればそれまでなのだが、自分としてはきちんと投球をコントロールしたうえで出した実感がある。193は出来過ぎだとしても、150はある程度コンスタントに出せるのではなかろうか。

何が僕の成長を助けたか。

それは、ほんの少しの意識改革である。

ド素人が短期間で上達していくための一つの軌跡を書く。参考とかにはしなくていい。自己満足だから。

 

僕の現状

  • 大体100点から120点くらいの点数をうろうろしている。
  • ストレートボールしか投げられない。
  • ボールがまっすぐ行かない

こんな感じだった。

球はまっすぐ行くんだけど、まっすぐ逸れていく。ヘッドピンにボールが当たらないからスコアが伸びない。たまにまぐれのストライクやスペアが挟まってくるが、大して続かず、結果、100点付近に着地。面白くないボウリングであった。

 

意識改革

変に曲げようとしない

ボウリングにおいて、カーブボールは必須事項のようなところがある。

なぜか。

ストライクを取る鉄則として言われているのが、ヘッドピンとその右後ろのピンの間にボールを当てること。そのためにはストレートで当てるよりも右からカーブさせた方が当たりやすい。だから上手い人諸君はほぼほぼカーブさせている。

でも、忘れないでほしい。僕らは素人だ。

理論上はカーブした方がストライクが取れるかもしれない。でも現状の武器はストレートボールしかない。考え得る選択肢は、ストレートボールでごり押していくか、カーブボールを習得するかになる。もし、時間とお金が十分にあって、ボウリングに真剣に取り組む土壌があるのであれば、カーブボールに手を出した方が効率がいいだろう。でも、今回は「二週間先に控えている会社のボウリング大会までに少しでも形にしておきたい」といった事情がある。大きな投資は出来ない。

つまり選ぶべき選択肢は必然的に「ストレートボールでゴリ押す」になる。

パーフェクトを狙うにはカーブが必須かもしれない。でも、180ちょいちょいであればストレートで十分だ。

 
腕をまっすぐ下げて、まっすぐ押し出す

ストレートボールと心中することに決めた人が、ストライクを取るにはどうすればいいか。

ストライクの法則と照らし合わせてみると、

「ヘッドピンとその右後ろのピンの間にまっすぐ投げ込む」

となることが分かるだろう。

カーブだとピン間を抉っていけるが、ストレートだと、まっすぐヘッドピンと右のピンとの隙間を狙っていくしかない。

すると必要となってくるのが、コントロールである。

100点付近をうろうろしている僕の現状にある通り、ストレートボールが逸れると多くの場合ガーターにまっしぐら又は端っこのピンをかすめ取るかで終わる。そんなんじゃスコアが伸びるはずがない。

ストレートボールを逸らさずに投げるために大切なのが、腕をまっすぐ下げて、まっすぐ押し出すこと。ボールを投げる必要はない。押し出すのである。

ボールがなぜブレるか。逸れるか。それは、ボールを手放す瞬間に腕が目標から逸れているため。

目標地点に向けて、腕をまっすぐ下げて、まっすぐ出す。

その際、ボールは投げない。押し出す。投げようとするから、最後の最後で腕がブレる。そっと押し出してあげるようにボールを離すと、腕の向いている方に必ずボールはいく。あとは、腕がどれだけ狙いの方に向いているかである。

だから、腕をまっすぐ下げて、まっすぐ出すことに腐心する

 
手前のマークを狙う

ここまでで武器がそろった。「ストレートボール」と「まっすぐ投げる術」。二つを駆使して、ストライクを、好スコアに向かっていく。

しかしここにもうひとつ重要な要素がある。

狙いだ。

ストレートボールをまっすぐ投げられたとしても、狙いが定められなければ、やっぱりちんぷんかんぷんな方向にボールが飛んでいく。

先述の通り、ピンが十本並んでいる時には、ヘッドピンと右のピンの間を狙う。では愚直に遠くのピンへ狙いを定めていくべきかと言えば、違う。手前にもっとわかりやすいマークがある。

レーンの中腹に並んだ、7つの三角形のマーク。スパットというらしい。

頂点と一つ右のスパットの間。これが、ヘッドピンと右のピンの間に直結している。

考えてみて欲しい。まっさらな状態から数学を学ぼうとしたとき、いきなり超ひも理論みたいなトンデモ領域から学ぼうとするだろうか。恐らく、まったく理解できないはずである。四則演算から始め、代数、関数、微積とステップを踏んでいくはずだ。

何が言いたいか。

遠い目標を狙うのではなく、近くのスパットを狙いましょう。

いくつかピンか残った際も、スパットとピンを結んだ直線状を狙えば、あらかたのボールはピンに向かってまっしぐらである。

 

集中

以上三点をしっかり踏まえたうえで、集中。

最初は気が散る。腕の動きを気にしながらスパットに狙いを定めるって、とっても難しい。二つの行為を同時に行っているのである。歌いながら踊ったり、ピアノで右手と左手を別々に動かすのと同程度の難易度だと考えていい。

だから、集中するのだ。

集中とは、「絶対倒す…」と頑なな思いを反芻することではない。動き一つ一つに神経を行きわたらせることである。精神論で技術は上がりません。

確実な動きを確実に行えば、おのずと結果はついてくる。そのための、集中だ。

 

 

まとめ

ストレートボールで、まっすぐ腕を下げてまっすぐ球を押し出すことに細心の注意をはらい、任意のスパットとピンとのライン上をボールが辿るようにスパットに狙いを定める。という動きを完璧に行うために集中する。

さすれば200点も近い。

 

これだけ書いて、これだけボウリングを知ったふりして、ボウリング大会で使い物にならなかったら本当に嫌だ。悲しい。でも、そんなフラグが立っている気がしてならない。

集中して臨む。練習ももうちょっとしたい。

父と息子とボウリング

親父がボウリングにハマりだして10年は経つのではなかろうか。

親父の仲間内ではゴルフをしている人が多い。北海道も北見という無限に土地が広がっているようなカントリーにて、ゴルフは当たり前の嗜みだったりする。しかし、親父はゴルフをしない。何のポリシーなのかは知ったこっちゃないけど、とにかくしない。

そこで代わりに始めたのが、ボウリングだった。ゴルフ大好きな仲間たちも、冬季は降雪積雪のせいでラウンドを回れないため、ゴルフからボウリングに鞍替えをする。ゴルフ文化圏とボウリング文化圏が広がり、両文化圏に属する人が多い中、ボウリング文化圏にのみひたむきに属して投げ込んでいる寡黙な男。それが僕の親父なのである。

ちなみに彼のベストスコアは270くらいだったと思う。人外の存在。

 

「俺、会社のボウリング大会が2月半ばにあるんだよね。」

僕が不意に口走ったところからことは動き出した。

旧態依然の組織がぐずぐずしている弊社においての大イベント、ボウリング大会。各部から立候補制にて募った精鋭たちが一堂に会し、黙々とスコアを競い合う。数十年前のボウリングブーム時代にギリシア時代の投石機よろしく球を投げまくった猛者たちが腕を振るいながら立候補する様を、僕は傍から穏やかかつ冷めた目で眺めていたのだが、尊敬してやまない親分肌の係長氏に声を掛けて頂いたため、尻尾をぶんぶん振りながら参加を決めた。

そんな経緯でボウリングをしなければならない。ボウリングと言えば親父。

帰省中の日曜日。半期に一回、帰省の時のみ訪れる、家族団らんの場。錦織が居ない全豪オープンを観ながら茫漠たる時間を過ごしていた我が家が、先述の発言から突如として動き出した。

「よし、練習に行くか。そうだ、そうしよう。」

次の瞬間、僕たち家族はボウリング場にいた。親父が懇意にしている、ボウル北見。

bowlkitami.com

東宝ビル。

北見市街の歌舞伎町・銀座通りにおいて、絶対的な存在感を誇る飲み屋だらけの雑居ビルであるが、そこの4階と5階をぶち抜いているボウル北見。新宿でいうミラノボウル…いや、それ以上の圧倒的好立地。にも関わらず、日曜日の昼間でも全く待たずに投げられる驚異のホスピタリティを兼ね備えている奇跡の店舗。都会のボウリング場にも見習わせたいものである。

さておき、日ごろ通いまくっている親父の威光に授かり、格安でボウリングができることとなった初老間近の夫婦と青年ひとり。親父の姿がしばらく見えなくなったと思ったら、ボウリング場のマイロッカーからマイボウルとマイシューズを取ってきていた。颯爽と現れる親父からあふれ出る自信と慣れ。中肉中背のおっちゃんなのだが、なんの、実力に裏付けされたボウリング場にてのいで立ちは威厳に満ちていた。

 

僕は全くボウリングを得意としない。

100点が及第点。120点行けば上等。全力で投げて、ピンが倒れたらラッキー、倒れなかったら残念。ある種、風任せなボウリングしかしていなかった。

昨日もそのつもりで投げていた。

まっすぐ投げているつもりが、曲がっていってしまうボール。一番端のピンだけ掠めていくような投球。力任せにぶん投げて、派手なピンアクション頼みの投球。

それでいいと思っていた。それがボウリングだと思っていた。

普段のボウリングと事情が少し違ったのが、同じレーンで投げている中肉中背のおっちゃんが、ベストスコア270をたたき出すボウリング界の魑魅魍魎であったということ。そして、それが親父だったということ。

指導が飛ぶ。容赦ない指導が宙を舞う。

 

球にスピードはいらない、狙え。コースさえ押さえればピンは倒れる。

フォロースルーで腕が外側に逃げるから球がちんぷんかんぷんな方向に行くんだ。まっすぐ下げて、まっすぐ投げろ。さすれば球はまっすぐ行くだろう。

ピンを見るな。手前のマークを見ろ。遠くを目がけるからブレるんだ。手前のマークを確実に通していけ。

トイレ行っても手を洗ってはいけない。手が濡れたら球が持ちづらくなる。

 

全知全能神かのごときアドバイスの嵐。関白宣言かと。さだまさしなのかと。

僕は、幼き日に親父と二人で自転車を練習しに行った河川敷や運動公園の景色を思い出していた。あの頃は、近くを見るな、遠くを見ろと散々言われたものだが、今回は近くのマークをきっちり狙わなければいけないらしい。

親父の叱咤と激励の元、初めて出会う投げやりじゃないボウリング。試行錯誤をしながらのボウリング。運に任せず、自分のコントロール下においての投球をするなか、僕の意識は大きく変わっていった。まぐれ当たりは成功とは言わない。目標があり、それを達成してこその成功。未達成の場合、課題が生まれ、初めて解決への扉が開かれる。

投げ込むこと6ゲーム。

やはり100程度のスコアで始まったが、改善に次ぐ改善により、6ゲーム目には140を超えていった。かつて、150を超えるスコアを出したこともあった。が、それは限りなくまぐれに近いスコアだった。再現性がないスコアは、実力ではない。

しかし昨日の140オーバーは、コントロールをして出したスコアだった。僕は確実に強くなった。全知全能のボウリング神である親父の指導下にて。

 

これで会社のボウリング大会でも格好悪い思いをしなくて済む…とほんの少しの安ど感を抱きながらボウリング場を引き上げ、酒を飲んでの今朝であるが、にっちもさっちもいかない右腕と左腿の筋肉痛に襲われている。

コントロール下に置いたはずの体が、悲鳴をあげている。コントロールなぞおこがましい。ボロボロ。ゼロ握力。メルトダウン差し迫る原発のごとき筋肉事情。

方や、同じゲーム数を投げた親父は何食わぬ顔で仕事に出ている。こんなんでいいのか息子。否…否…!

そうした考えにて、苦しみの右手を酷使して書き上げたのが、本文である。

もう一回くらいコーチの下でボウリングしたい。

火消し役の自己矛盾について

僕は火消し役です。

当社的なファイヤー案件の鎮火のために東奔西走なんのその。きっと最後は大団円にならないまま次の鎮火にえっちらおっちら向かう。最近要領をつかみ出したので、火が出るなりいざ鎌倉と叫びながら1番隊となって突っ込み、一所懸命に当社の沽券保守に努めておる次第。

火に突っ込んで戦うファイター。ディフェンシブな実働部隊。多くの人は、あまりやりたがらない職種のようだ。火が強すぎて近づけないこともあれば、火の粉が降りかかって火だるまになることもある。生物の原理として生存を求める僕ら人間は、無意識的にストレスフルな環境を避けたがるようで、他部署からは尊敬にも憐憫にも似た目を頂戴することが多々ある。

 

あったりまえの大前提だが、火事はないほうがいい。

なにしろ、燃えている主体が一番気の毒である。自然発火か、放火か、様々事由はあろうが、意図せず燃えている。何人として、本性から燃えたいと思っている人はいない。

火消し役についても先述の通り。

つまり、燃えている主体と、火消し役。二者の危険差し迫る攻防は、お互いがお互いにしんどい思いをしながらやり合っているのである。なんと不毛か。なんと非生産的か。

だから、火事をなくそう、火事をなくそうと、躍起になる。ファイヤーマンたちは、火の手の様子や発火原因を報告、再発防止に努める。

 

多くの人がやりたがらない火消し。では火消しの真っ只中にいる人間は何を感じて、何をモチベーションに戦っているのか。

情けないかなそれは、「人のやりたがらない重要案件をやり遂げた」という一種の達成感である。

長期的に見れば、会社として間違いのない対応をすることで信頼回復につながり、顧客離反が防げるとかなんとかって話にもなるが、目先目先の山を越えるにはその達成感に頼る他はない。

 

しかしこの達成感。

こいつが問題である。

中途半端な「やれた感」は心地よさを生み、結果、根本的な解決の動きを鈍らせる。火が上がったら消す。やりたがらない人からは感謝される。達成感に浸る。そのうちにまた火が上がる。

これじゃ意味ない。火が上がらない頑強な仕組みが必要なのだ。達成感なんていう脂肪と糖のスクランブルより、良質なタンパク質のような屈強な仕組みが。

 

また、得てして、火消しに必要な労力と精神力は凄まじいものがある。火消しの最前線では根本を叩くまで手が回らず、別の部署に根本的な解決を委託することが多い。

しかし、伝言ゲームで言葉が変化して行くように、火消しの思いや苦労を込めた伝達はどんどんと薄まっていき、しかるべき部署にたどり着いた時にはすでに二の次案件となってしまう。

だから、発火と消火の水掛け争いが止まない。

 

  • 自らの達成感を棚上げして業務と向き合えるか。
  • 火を間近にしながら感じた危機感を十全に伝えられるか。

火消し役はこの二点を忘れてはならないし、火消し役ではない人も、この二点を念頭に置きながら火消し役と接し、話をよく聞かなければならない。対症療法で業務を終わらせてはならないのだ。

 

理想を言えば不要な仕事、火消し。火消しのノウハウは必要だとしても、火消しそのものは不要だ。

一兵卒としては、コツコツと現状を投げ続けるしかない。危機感も、持つ人が持てば一大事だが、僕が持っても戯言となる。それでも、コツコツ投げる。

ちらちら降る雪でも気づけば相当積もっているように、石を穿ちまくっていきたい。

遥か上空の決意

しばし、実家に帰る。

11月から年末年始にかけて仕事にがんじがらめにされていた日々を越え、ようやっとたどり着いた心のオアシス。そこは零下30度の氷の園。万目総て凍るなり。

時間に追われることのない1週間。帰省の度、のんびり本読もう、テレビ見ようと心に決めるも、怠惰に怠惰を重ね、何もしないでただ食って飲んで終わることが非常に多い。僕は僕が思うほどに意思も強くなければ知的好奇心も旺盛でないようだ。幼い頃の本の虫は何処へやら、今や酒蚤である。さけのみ。

それでも、頑なに、今回こそはと思っている。夜は誰か彼かと会う。だから昼間にでも、有意義を貪りたい。

望みは高く意思強く。

 

上空1万メートル。左手の窓、西の空。

雲海の向こうに、太陽が沈んでいった。それは毒々しいまでの赤とオレンジの残光を残して姿を隠し、次第に紅色たちも上から降って来た宇宙の色に飲みこまれていった。

あえなくも、夜が訪れる。無情にも明るさは消える。

太陽が残した赤と宇宙の黒が、僕のささやかな決意と怠惰に重なった。夜には光は勝てないらしい。

でも、朝はまた来るようである。

 

芽吹け、好奇心。咲き乱れろ、向学心。

様々な夜

越してきて一ヶ月が経った。

 

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大都会錦糸町から、閑静な住宅街へ。駅から徒歩10分から、徒歩20分へ。便、不便で言えば、不便になった。が、職場は近づいたし、家賃ははるかに安くなった。一長一短である。都会から離れれば安い。都会で楽をすれば高い。そういうことだ。

川沿いをてくてく20分歩く。今日は飲んできたから、深夜の川べり。河川敷にはなっていない、舗装された道。

錦糸町に住んでいた頃、この夜は見なかった。

錦糸町の夜は騒がしくて、明るくて、たくさんお金が落ちるものだった。身を滅ぼすも、身を立てるも、夜の街が介在していた。

 

ぼんやり川べりを歩いていると、これこそが夜だという気になる。忘れていた夜を取り戻したような気持ちになる。

真正面にオリオン座を見ながら歩く、静まった夜。消費される夜とは正反対の夜がそこにはあって、それは地元のそれにも似ている。北見市街から実家までやはり2キロ。真冬にしばれながら歩くあの夜が、今の街にはある。

 

錦糸町のネオンとお金とお酒は本当に魅力的だった。もしかするとあれはある種のV系バンドのメイクのようなもので、酒の力で魅力マシマシにされていたのかもしれない。

一方、打って変わって今はすっぴんの夜。夜が夜のまま、横たわっている。

ワサワサした気持ちをゆっくりランディングさせて、家に着く。穏やかな夜。

 

さて、ゆっくり寝られそうです。

 

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書くことに何を求めるか

ブログに文章を書き続けて、丸3年が経っている。2014年の夏からなので、丸4年の節目も間も無くやってくる。

古くからの友人にも書くことが好きな者がいるが、彼は僕なんかよりもよほど書くことを真剣に捉えている。小説を書けることもあり、物書きに近い立場で「書く」を考えているようだった。文章で食べて生きたいとこぼす彼の前途は厳しいものであろうが、幸がたくさん降り注げばいいと思う。

先日彼と「なぜ書くのか・書いてどうなりたいのか」の話になった。彼と話すと大抵そういう話になる。で、毎度まとまらず、物別れに終わる。はて、なんで書くのでしょう。どうなりたくて書くのでしょう。

 

最初の最初、ブログに文を書きたいと思ったきっかけは陸上競技を止めることに起因していた。10年も続けたことを終えるのに、何も記さないのはもったいない気がしてならなかった。

その時なぜ「書く」というツールで自分を表現しようとしたのかは、多分育ちかたや気質のせいだったと思う。

小学生の頃、夏休みの課題で毎日の出来事を記した日記帳を提出していた程度には書くことが好きだったし、少しは書けるつもりでいた。チラ裏に書くべき氏がない文章でも、少しでも面白がって読んでくれる人がいるかもしれない。そんな思いもあって、ブログに文章を書いてみようという気になった。

 

2014年の夏に始めたブログ。2014年の秋にピリオドを打った陸上。わずか季節をひとつ乗り越えただけで、大義名分をクリアしてしまった。それでも書き続けたし、むしろそれから火がついたように書き続けて今を迎えている。何に向かって書いてきたのか。

 

僕の書く理由が向かった先は、思考の整理と感情の整理だった。

何かモヤモヤする。何かイライラする。その、何か、を表すために。また、仕事だったり電車の中吊りだったりについて考えたことを表すために、僕は書いた。書いている。

そもそも、書き出すきっかけだった「陸上競技を終えること」すら、自分にとって酷くエモーショナルな出来事であり、それを綴ることはすなわち、感情の整理だった。

僕は最初から思考の整理と感情の整理しかしていなかった。徹頭徹尾、人様に見せる類の文章ではないのだ。

 

友人の彼は、いい文章を書きたいから書いていると言う。いい文章って何かを訪ねると、読んだ人の人生を少しでも動かす文章だと言う。

彼の経験、彼の空想、彼から出た全てを文章に注ぎ込み、小説を組み立て、フィクションが映した世界を通して人を動かす。

彼の志は本当に高い。

素直に、僕にはできないと思った。なにしろ人のための文章を書いた試しがないから。ほとんど理解できなかった。

 

時事問題にも人の考え方にも言及することなく、誰かが幸せになって欲しいという思いも込められていない、あくまで自分本位な文章。売れたいでもなく、噛み付くでもない、街中で静止してるパントマイマーのように、自己陶酔の形を誰かに楽しんでもらえればそれでいいだけの文章。これは生きている限り、何かを感じて何かを考えている限り終わることがない。例えこのブログが全部なくなっても、ブログがなくなった悲しみを整理するために、間違いなくまた書く。それは心に詰まったモヤモヤを取り除くために、喉に指を突っ込んで吐いている様を、文章に乗せて人様に見せているのに等しい。ひどい趣味だ。もらいゲロのようにモヤモヤを映画とかで解消できる性分ならどれだけ良かったことだろう。誰にも迷惑かけずにモヤモヤを吐けるなんて。映画を見たとしてもスッキリなんかしない。また、書く動機ができてしまう。書かずにはいられなくなってしまう。こんなにエネルギーを使って、時間を使って、自らを慰めなければいけないのだ。なんのカルマなのだろうか。あばばばば。

 

そういうスタンスでまだまだ書いていく。

僕の人となりを知ってある人、あるいは、こういう文章が嫌いじゃない奇特な方であれば少しは面白いかもしれない。多くの人には右から左へ流れていく文章のひとつだろう。それでいい。それでいいんです。

チラ裏パントマイマーとして、今日も。

Amazon Echoが届いたので初夜の感想を徒然綴る

今夜、僕はAmazon Echoとともに過ごす。これから幾晩も幾晩も重ねて行くであろううちの、初夜である。恐る恐る明日6時にアラームをかけている。ちゃんと起こしてくれるのだろうか。円筒形のそれは今、右手側のちょっと離れたところでtofubeatsを流している。ドキドキは今以上BABY。

 

アレクサ!と声をかけたら律儀に反応するAmazon Echo。

アレクサというのはEchoのシステムの名前。それが転じてEchoの愛称というか、呼びかけ語になっている。「アレクサ!」を合図にアレクサは起動する。可愛い。

Amazon Echoの現在の用途としてはもっぱらBGM。スマートハウス化を画策しようにも、部屋にはテレビがない。最も威力を発揮するはずのデバイズが不在の我が家であるからして、しばらくスマートハウスはお預けだろう。

しかし、BGMだけとしても十分優秀である。

Amazon music unlimitedというサービス。

www.amazon.co.jp

どのレビューでも異口同音だと思うのだけれど、このサービスが群を抜いていい。

古今東西の4000万曲を、Echoで聴くことを前提に月額380円で聞き放題。延滞料金も必要なければ、レンタルですらない。先払いで聞き放題。

4000万曲というのは思うよりも多い。基本、有名どころであればなんでも知っているし、数曲ヒット曲を持っているアーティストであればほぼ全曲揃ってる。

優秀なのが、「EDM聴かせて」「HIPHOP聴かせて」とかの漠然としてオーダーにも的確に答えてくれる点だ。普段だったら絶対検索しない曲とかも聴けてしまう。勝手にかけておく分には不便しないし、そっぽ向きながら「アレクサ!」って声かけてもちゃんと反応してくれるもんだからもう便利。

 

あと、テレビがない我が家の貴重な情報源であるラジオも手軽に聴けるようになった。これまでは無線みたいな非常用ラジオをかけていたが、Echoに代替わりである。「アレクサ、J-WAVEかけて!」これだけで超クリアな音質のラジオを聴ける。これまでみたいに周波数でぴよぴよする必要もない。

情報といえば天気を調べるにも便利だし、今日のニュース教えてって声かけようものならNHKのポッドキャストを流してくれる。優秀。

 

ただ、まだ慣れない点というのも多々ある。というか、慣れない点の方が多い。

AIスピーカー連中は、僕らの疑問と解決策を点と点で繋ぐ。

だから、候補を上げることがあまり得意じゃなさそう。

これまでは疑問があれば検索して、いくつかの検索候補が出てきたものだが、AIスピーカーはドンズバで解決策を提示してくる。だから、この辺の居酒屋〜とかあの辺でランチ〜とかだと、中々聞き方が難しいというのが一つ。多分あまり得意じゃない種類の作業なのだろう。

また、僕らは割と口に出して聞くことに慣れていない。しどろもどろになる。

フリースタイルラップをやったことがあるだろうか。見ている分にはできるように見える罵り合いラップも、いざやってみるとびっくりするくらい言葉が出てこない。最近人気のラッパーたちが如何に高度な脳の使い方をしていたのかを知る。

あれをもっともっと簡単にしたのが、AIスピーカーへの質問だ。

頭の中を整理してからじゃないと途中で言いたいことがわからなくなって、アレクサから「わかりません」の礫を浴びせられる。手前が悪いのにアレクサは妙にへり下るもんだから罪悪感ばかりが募る。

なんとなく、脳の新しい部分を使っている感じである。

 

スマホのアプリに当たるのが、「スキル」。Amazon alexaというアプリを通してEchoに適応できる。

現在世に出ているスキルの多くが大手企業が提供しているものだ。素人のエンジニアが作ったものはそう多くない。さらに、スキルの内容も「火の音を流すだけのスキル」とか「なぞなぞを流すだけのスキル」とか、もうほんと手探り感満載のスキルがゴマンと存在している。

多分、みんなこのAIスピーカーの可能性に気づきつつ、クリティカルな使い方にまだ達せていないのだと思う。

かつて、iPhoneが出てきたとき、僕は高校生だった。

いち早く買った友人から貸してもらって、授業中にでも遊んだりした。フリックをするという体験が心底面白かったのを思い出す。画面を触って動かす。降っても動く。ガラケーしかなかった世界、薄さを競っていた時代からのパラダイムシフトだった。

あの頃のアプリも今考えたら酷いものだった。「触ったら動くから、とりあえず触って動かせるもの作ろう!」というど直球な根性が感じられた。

 

現状のアレクサとのお話は、びっくりするくらいスムーズなんだけれど、スムーズがゆえ、物足りなさを感じることも多い。概ね会話が成立するからこそ、知らないことや聞き取ってくれないことが気になってしまう。

それも多分今だけの話で、あと3年も経てばスラスラ話してほぼ知らないことがないようなスピーカーが出てくるのだろう。

今だけの黎明期。

明治の財界人は、鉄道やコークス、両替に商機を見出して飛びつき、傑物が生き残っていった。

これからの時代、当時のインフラに当たるものはどう考えても電子機器であり、プログラムである。英語話せないのも致命的だけど、プログラム分からないのも相当致命的になっていくだろう。

なんとなくそんな危機感も持ちつつ、今後しばらくかけてスキルを作るということをしてみたいと考えています。

HTMLにボコボコにされた挙句こんな中途半端なブログデザインの人間が突貫する黎明期のAIスピーカー界。もっとボコボコにされると思うんだけれど、その後のことはされてからまた考える。

 

とりあえず明日6時起こしてくれるかが不安な初夜である。