徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

YouTubeを見る

僕はYouTubeを見る。

ゴミを出さなきゃ、公共料金を払わなきゃと思いながら、YouTubeを見る。

ライブの動画を見て、バンドやりたいなーって思うけれど、思うだけで、やっぱりYouTubeを見る。

ゲームの実況動画も、楽しそうにプレイしている見ず知らずの人の声を聞いて、やりたいなーって思うけれど、思うだけで、やっぱりYouTubeを見る。

仕事しなきゃ、勉強しなきゃ、ご飯食べなきゃ。

たくさんのやらなきゃいけないことと、たくさんのやりたいこと。ぜんぶ綯い交ぜになって、どれ一つ手につかない。取っ手がありすぎて、どれをもっていいのかわからないための手持ち無沙汰。虚空をさまよう手はパソコンのマウスを掴み、焦点の合わない目は画面を見つめる。

いつだってそうだった。

いつの時代だって使命の傍には誘惑があった。

ある時は漫画、ある時はテレビゲーム、携帯ゲームに、メール。脇道や寄り道はどれもこれも僕を潤した。

そして、今僕はYouTubeを見る。

数分間に、数億回の再生回数。沢山の人の、沢山の人生が突っ込まれた動画。YouTubeによって、五劫のように擦り切れていく生活。

漫画には教訓を遺され、ゲームには世代の共通言語を遺された。じゃあYouTubeは僕に何を遺すだろう。擦り切れた生活は何を形取るだろう。

静かに絞め殺されている。そんな気がする。

Welcome to ようこそ 32V型AQUOS

何度となく繰り返してきたテレビとの出会い別れ。おそらく、これにて終止符が打たれるだろう。32インチ。6畳の居住空間には圧倒的不釣り合いな大画面が、今、僕の目の前に置かれている。オリンピック。スケートショートトラック。画面のどこを見たらいいのかわからない。スピード感に翻弄されている。

これまでテレビを重要視してこなかった。ずっとテレビを持っていなかったわけではないのだが、優先順位としては極めて低かった。テレビをパソコンのモニター代わりにしてみたり、ほぼブラウン管のようなテレビを見てみたり。画質が悪いから熱心に見ようとも思わなかった。

SNSも大してやらず、新聞の社会面を読まない生活。Amazon Echoから流れるJ-waveは流行りのチューンを流してくれるけれど、世間一般のニュースは聞かせてくれない。AlexaのニュースはNHKのニュースを淡々と流してくれるけど、入ってこない。iMacは僕の好きなようなパソコンになっている。僕の趣味趣向の外のニュースをなかなか取ってきてくれない。みているサイトも偏るから、偏った知識ばっかりつく。

そういうわけで、思い切ったのがAQUOS。6畳間ギリギリの32インチ。

中途半端な大きさでは、これまでの二の舞になると思った。どうせ買うなら長く観られるものを。どうせ買うなら観たくなるようなものを。不退転の価格交渉をヤマダ電機で行った末の、こけら落としであった。

オリンピックに、これからW杯もある。スポーツ観戦一家に産み落とされた人間にとっての当たり年。ここで買わずしていつ買う。オリンピック見ずしてどうする。

iMacとAQUOSが並ぶテレビボード上。思った以上に自分得環境が整いつつある。

あとはHDMIとMacをつなぐコードを買ってくれば、全部がリンクしていく。楽しみだ。

スケート熱い。スピード感に惹かれる。DNAを揺さぶられている。

アイロンとの邂逅

タイトルは、韻を踏みました。

 

先だっての帰省で、母にアイロンを買ってもらった。

旧居では近所に安いクリーニング屋さんがあったからシャツの洗濯は120円でアウトソーシングしていた。しかしどっこい、現在の家の近所には安いクリーニング屋さんがない。ファブリーズやシワ伸ばしスプレーで繊維に喝を入れる日々がしばらく続いたのだが、さすがに無理が出てくる。そういうわけで、自社工場での洗濯に舵を取ることを決めたのだった。

干支2回分とちょっとの人生。アイロンときちっと向き合ったことがなかった。学生時代の戦闘服はジャージだった。オシャレにも無頓着だったから丹念にアイロンがけをするなんてことはなかった。つーかシャツをそんなに着なかった。社会人、そういうわけにはいかない。無骨さよりは、ある程度おしゃれを求められる職場において、シワとヨレの分だけ減っていくのは信用。そりゃアウトソーシングもしたくなる。

 

のっぴきならず、自らの衣服と向き合うこととなった185センチの男性。

アイロンの難しさに直面している。反面、悪くないなとも思っている。

困ったらすぐにグーグルに聞きがちなゆとり真っ盛りマンは、今のところ「アイロンのかけ方」で検索をかけていない。珍しいことだ。

熱した鉄で、衣服を律する。

ただそれだけのことに検索する必要があろうかという気持ちでいる。例えば、料理であれば検索する必要があるだろう。あれは、切る・炒める・味付けをする等々、多種多様な要素が絡まりあってできている。でも、アイロンは違う。アイロンは鉄で衣類をこするだけだ。それは、「カレーを作るとは」異なる。「キャベツを切る」と同義だ。僕は「キャベツ 切り方」では検索しない。切るだけだから。単純明快な作業だから。別に今更検索する必要がないと考えている。

上記のような偏屈を抱えたアイロンがけは、物の見事に衣服にシワを寄せている。心折れそう。多分圧倒的にコツがあったりノウハウがあるんだろうけど、負けたくない。たかだかアイロンがけ。単純明快な作業だ。屈しない。

試行錯誤しながら一枚一枚アイロンをかけていく。一枚ごとに創意工夫が詰まった作品が出来上がっていくため、案外時間がかかる。

その時間が、今は愛おしい。歩いている時と同じ感覚で、時間を過ごしている。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

衣服と向き合う静謐な時間。情報過多の世の中で、貴重なデトックスタイムとなっている。

工夫は工夫で楽しいし、慣れてきたとして作業になったらなったで無心になれるから楽しいのだろう。アイロンがけ悪くないぞ。悪くない。

 

いよいよ主夫になれるね!

と日頃お世話になっている方々から声をかけられる。一人で生きていけてしまう人は結婚も遅れるらしい。心のシワを伸ばすところから始めなければダメなようです。

多分りんごがあまり好きじゃない。

それはApple製品の比喩でもなんでもなくて、ただのりんごのことなんだけれど。

今、台所には3つりんごが置いてある。そう、キティちゃんの体重と同じだけのりんご。「ワケありりんご!」と銘打たれて安く売られていたブサイクな形をしたりんごたち。買ってからしばらく、彼ら彼女らは台所に鎮座し食されることもないまま今日を迎えている。

りんごって、風邪を引いたらすりりんごを食べるのが結構社会通念としてまかり通っちゃってるほどにポピュラーな果物だと思う。創世記の禁断の果実もりんごっぽいビジュアルで統一されがち。果物界の4番サード、ナンバーテンに限りなく近い存在であることは間違いない。

思えば実家のばあちゃんもりんごが好きだった。塩水に漬けて変色しないように気を使われたりんごをよく食べさせられていたものだ。「おりんご食べなさい?」と丁寧語の矛先をよくわからない方向に向けながらりんごを食べるよう催促されていた。昨日のことのようだ。

ポピュラーだから。よく食べていたから。だから僕はりんごを好きなものだと考えていた。マスに迎合し、祖母に教育され、りんごの魅力を知った気になっていた。

しかしどうだ。いざ「ワケありりんご!」を買ってみたが一向に口にしない。僕の方がワケありだ。

仮にりんごが好きじゃないとして、なにが嫌なのか考えてみると、原因の多くはあの食感にある。独特のシャクシャク感。瑞々しさに比例して激しくなるシャクシャク感。あれが僕をりんごから遠ざけている。味も好きだ。蜜も好きだ。あれが柿のようなニュクニュクした食べ物だったら大好きだったかもしれない。でも違う。フレッシュさに能力値をめっちゃ振っている。果肉の主張が強すぎる。それが神様の親切心なのかもしれないが、仇だ。

試しにワケありりんご!を食感関係ない料理にでも使ってみようと思う。バーモントか。ジャムか。

果たして、シャクシャク感を脱ぎ捨てたりんごを、僕は愛せるのだろうか。

うるとらみらくるくるふぁいなるアルティメット個人的なあの人は今が止まない

わーすたまじかわいい。

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車窓に流れる景色を見ながら、食器を洗いながら、大して興味のない文章に目を通しながら。本当になんでもない時に、懐かしい名前が頭をよぎることがある。それはもう何年も思い出していない小学生だった頃や中学生だった頃の同級生の名前。多分もう2度と会わない人たち。

彼ら彼女らの名前を思い出すたび、世界中を見渡してもあの子のことを思っているのは自分だけなのではないかという気がするのだが、思い出されているあの子も高確率で生きていて、世の中のどこかで誰かと関わりながら営んでいる。だからその子のことを思っているのは僕だけなんてことはおよそありえない。

時を経るごとに、こんな気持ちが膨れ上がっていくのだろう。

少し前に、親父が高校の同窓会に行った話を聞いた。40年以上前に卒業した面々が再開して、昔話に花を咲かせたようである。懐かしさに浸るのも楽しいし、近況を報告するのも、これまでの紆余曲折を話すのも、どれも楽しいに違いない。

いつかどこかで本気の同窓会をする時、きっといくつかのあの人は今が回収されるのだろう。もしかしたら、こんな文章をあの人が読んでいる可能性だってあるし、逆に僕もあの人の文章を読んでいるかもしれない。インターネットがこれほどまでに普及した今となっては、どこでどう人間同士が混ざり合っているかわかったもんじゃない。

 

わーすたの誰かが同級生だったらなぁーと思いながら、叩きつけた文章であった。

みんな可愛い。

朝日

ここのところ3日くらい、酒と脂で夜と朝をつなぐような生活をしていた。家に帰ることもなしに、借りぐらしをアリエッティしていたのだった。

人それぞれ気質は違うのだろうが、僕にとって朝日をきちっと享受することと1人の時間というものが不可欠なものだったらしく、3日目の怠さやくたびれさは眼を見張るものがあった。自分の社交性にに殺されかけていた。

昨日、それこそ3日ぶりの1人の夜。

誰に干渉されるでもない時間を過ごし、眠り、外の明るさで起きた時の覚醒具合たるや、やはり眼を見張るものがあった。箱根の山道を登りきった五区のランナーの気持ちってこんな感じなんだろうか。マイナスがゼロに戻っただけなのに、猛烈に感じるプラス感。

 

たまらず走り出した。

 

一年ちょっと前、僕はよく走っていたのだった。毎朝会社行く前に3キロちょっと。当時、特別体調が良くなっていた感じはしないが、走るのをやめて飲み食いのサターンと化している今に比べりゃよほど健康体だったろう。確実に脇腹に肉がついた。

太り行くことは気に食わない。けど、しんどいことはしたくない。怠惰な気持ちを動かしたのは、圧倒的な気持ちよさだった。

旧居のように近くに公園があるわけじゃないが、少し行けば川にあたり、海に出る。道も調べないでとりあえず走った。鈍行ペースで。見栄を張らずに。

たどり着いた海辺。朝日に照る水面。久しく浴びていなかった光線に晒された。

 

過ぎたるは及ばざるがごとし。

過ぎたる方に目が向きがちだが、及ばざるが「ごとし」なのだから、本当のガンは及ばざることだ。

飲食が過ぎ、夜が過ぎ、運動が及ばず、朝が及んでいなかった。

一日でググッと整った気がする如月。しかし一方で、順調に予定がパズリングされていっている。自ら首を突っ込んだものに、首を突っ込まされたもの。どれも大切で、どれも楽しい。

身から錆を出さないよう、きちっとメンテをしようと、朝日に包まれながら思った。

Always with music

しばらく前にイヤフォンを失くしていた。

これまで、あらゆるイヤフォンと喧嘩別れをしてきた。最期まで添い遂げられたイヤフォンなんてない。あらかた大抵、失くす。

前回も例に漏れなかった。当たり前のように僕の前から姿を消し、探すけど見つからず、探すのやめたら出てくるだろうと思いながら諦めて、それっきり。引っ越す少し前に失くした。かれこれ2ヶ月はイヤフォンをしていなかった。

別に不自由はなかった。イヤフォンをすると好きな音楽を聴く。だから、好きでもなんでもない雑踏とか往来の音を聴くことがなくなる。規律のない音に触れる時間が少なくなるのだ。規律のない音は集中をもたらす。歩いている時がまさにそうだ。細工をしていない音にまみれながらリズムを作る。淡々と歩く中で、考え事をする。至高の時間。

 

でもなぜか、今日不意にイヤフォン欲に突き動かされた。いてもたってもいられなくなって昼休みに外出し、近くの電気屋でイヤフォンを買った。Bluetoothのイヤフォン。大した値段もしないやつだ。

昼飯もそこそこ、とにかく何か聴きたくなって、ビリージョエルをかけた。

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KANが「愛は勝つ」でパロディーをぶちかました曲、「Uptown Girl」。

 

脳みそが溶け出すかと思った。

カナル型イヤフォンの先端から鼓膜を直に震わせてくる音。デンプンの甘さしか知らなかった人間がグラニュー糖と出会ったような衝撃だった。軽快なメロディーに乗った、ビリージョエルの突き抜けるような高音。しばらく動けなかった。キマっていた。

 

帰り道、何ヶ月かぶりに音楽とともに歩いた。川沿いの道で音楽を連れるのは初めてだった。

やはり、気持ちよかった。

鴨がバチャついているかもしれない。猫が鳴いているかもしれない。あらゆる音をふさぎ込んでの、Uptown Girl。転居後最高速の家路だったように思う。ご機嫌極まりない。

 

好みの外や無秩序にはない、圧倒的なわかりやすさが音楽にはある。何語で歌われていたとしても、歌詞がなくても、音が秩序立っている時点でわかりやすい。

久しぶりに音楽に浸り、何事もバランスが大事だなと改めて感じた。

オーガニックだらけでもダメだし、ケミカルだけでもダメなのである。

 

けど、明日からしばらくはケミカルマンになる。

余白

川沿いの通勤路を歩いていると、通りに面した家々の洗濯物がひらひら棚引いているのが見える。一軒家も集合住宅も、もれなく川沿いにひらひら。晴れた日の朝に見るそれはとても優雅だ。洗濯機を回す音と、味噌汁の匂いと、洗濯物が交錯する川沿いには、それとない多幸感が詰まっている。

この間まで帰省をしていたのだが、北海道では川沿いひらひらをまず見ない。なぜなら大抵の家に庭があるからだ。洗濯物はそこに干すものだという認識で道産子は一致している。まして冬は洗濯物がたやすく凍る外気だし、雪が積もってしまって物干し竿が雪中にお隠れなさるので部屋干しを強いられる。部屋干しして間に合わない洗剤を、各家庭に常備しているとかなんとか。

土地が広くて地価が安いから庭を作れる。雪を投げる場所がないから庭を作らざるを得ない。事情はどうあれ、北海道の景色が北海道たる所以、東京の景色が東京たる所以は、その余白にあるように思う。悠然と佇む余白だらけの住宅地景観は北海道を、奇跡のテトリスのようにぎゅうぎゅうに押し込められた住宅地景観は東京を端的に表す。

街並み、景観、雰囲気は、余白が醸し出すものなのかもしれない。

余の頭の中は今もなお真っ白である。

オオグチボヤ人間

敬愛する早川いくを氏の名著、「へんないきもの」に於いて、4番サード的なポジションに君臨する深海生物、「オオグチボヤ」。

オオグチボヤ - Wikipedia

海底に根を張り、名の通りの大口を開けて獲物を待つ。口の中に入り次第、濾し取る。

究極の受動。生命の鍵を握る食事というファクターを、「待つ」という行為に賭けている。博打を打つなんてもんじゃない。全生命をかけて、彼は、彼女は、待っている。

 

なまじ人間は動けてしまうので、能動こそ正義のような風潮になりがちである。受け身の人間はダメだと言われがち。主体性を持って考え行動する人が素晴らしいとされがち。

間違いなくそうなんだろうけど、人間いつでも能動的に生きられるわけでもない。

 

大して働いていない癖に疲れてんのか知らないが、本日無性に何にも考えたくない日だった。無。虚無。ニュースも見ない。活字も読まない。無。やはり、虚無。

ぼんやりと君を眺めていたんだ

校舎の窓からやっぱり可愛いなって

back numberの「恋」の歌い出しである。

「ぼんやりと」ぼんやりしているのはわかるが、「君を眺めている」時点でそれはほぼほぼぼんやりではない。見てしまっている。

ぼんやりとは、何も考えない、何も見ない、何も聞かない。不感。

目には入っているし、耳にも入っているのに、輪郭を持たせない。

 

一日極めてぼんやり過ごしてみて、あぁ、これは、オオグチボヤだなと思った。

深層海流の中をそよぎながら、ただ待つ。選り好みをしないで、来たものを拒まないで受け入れる。ぼんやりと生きる。

ぼんやりしてもオオグチボヤは生きていけるように、僕ら人間もぼんやりしていたとてたくさんのものを見て、たくさんの音を聞いているんだから、しばらくするとなんとなく頭が動き出してくるんじゃないかなーって思ってる。

 

はたから見たら何考えているのかわからないような顔をしていたろうが、僕はぼんやりしていた。そして、オオグチボヤのことを思っていた。そんな一日であった。

歯 meats 歯

歯噛みして悔しがる。

歯をくいしばる。

歯と歯を合わせるというのは、悔しかったり踏ん張ったりするときの行為であるのが世の相場。感情であったり、物理的な衝撃に対する反応だ。

かねてより顎関節症になったり片顎だけ発達してたり歯がすり減ってたりと、歯ぎしりの状況証拠が猛烈に揃っていたのだが、帰省の折に歯医者で歯垢除去した際、日常生活での食いしばりに注意しろと言われた。

寝てる時間より起きている時間の方が多いのだから、日頃の生活の中で無意識に食いしばるのをなくしていこうということらしい。

日頃って、日中はそんなに歯を噛み締めたりしてないっすよ〜

と話してみたものの、気にしてみたらめっちゃめちゃ噛み締めてた。不意に歯と歯が合わさってる。何で今俺こんなに力んでんの?ってタイミングですっごい力入ってる。

これ、気にし出したら猛烈に気になる。

極力歯を合わせないようにと思うから、変に顎あげてみたり、舌を歯と歯の間に挟んでみたりと、四苦八苦。未だ都合のいい歯の収まりどころを見つけられてはいない。

ついには、イーッて笑顔を作るのも気になる。あ!噛み合わさった!ってすごいナイーブ。笑顔と雑談で仕事してたみたいなところがあったのに、そいつを封じられている。矛が強奪されたみたいなものだ。辛い。


このまま歯が磨り減り切って、神経とかに到達しまったら最後、僕は途轍もない激痛の渦に巻き込まれ、昼は仕事に手がつかず、夜は眠れぬ日々がやってくるという。こちとら必至である。

あ!ほら、こうして文章を書いている間にも。痛みを想像している間にも。