徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

大丈夫?俺と一緒で。

終電間際の京浜東北線。場所は、横浜。床には誰が落としたか知らないゴミが散らばり、乗客の呼気にはもれなくアルコールのフレーバーが含まれている。僕ももれなくその中に身を投じている。

ある男女が入ってきた。合コンか、なんなのか。初めて出会った男女のようである。まずまず深い夜まで共にしているのだから、お互い嫌悪感を抱いているとかそういうわけではない。どことなく距離はあるものの、仲睦まじい感じで彼らはやってきた。

僕の耳に一番最初に入った言葉が、男性が放った言葉だった。

「大丈夫?俺と一緒で。」

これを尋ねる心中たるや。

側から見ていれば、そんなこと聞くなよと思う。お前それ女の子に聞いてどうするんだよと。よく言う、セックスしてるときに気持ちいいかどうかを尋ねる男のダサさみたいなののカジュアルバージョンが、「大丈夫?俺と一緒で。」だ。

たぶん、2人で合コンの集団を抜け出してきたのだろう。刹那の意気投合、瞬間のシンパシー。男女はわからない。一瞬の出会いが全てを決めることだってある。フィーリングカップルランデヴーを決め込んだ2人が京浜東北線に乗り込んで、堪らず男が口走った、「大丈夫?俺と一緒で。」

ぶっちゃけ、これを尋ねたくなる心情は死ぬほどよくわかる。とにかくこの男は自信がないのだ。自分に自信がない。だから、大丈夫と言って欲しくて、あえて「大丈夫?」と尋ねる。自分を認めるために。認めてもらえている事実を確認するために。しかし、しばらく社会で生きていると、この虚勢すら誰もが感づくようになってくる。あぁ、こいつは自分に自信がないんだな。だからこんなことをあえて女の子に尋ねているんだな。虚勢を見破られた時点で、その言動は猛烈なダサさを帯びる。

「大丈夫?」を聞かずに済むのは、生来の自信家か、虚勢に虚勢を塗ったくった愚か者だ。楽しかった?とか大丈夫?とか、確認作業をすることなく、俺がいるんだから楽しいに決まってんだろ。ってかそもそも付いてくる段階で楽しいんだろ。みたいなロジック。天性のやつもすごいし、演じきれるやつも凄い。どちらにせよ、真似できない。

 

車両に突っ込んできた男女はどうやら逆方向に向かいたかったらしく、賑やかに退場して行った。残された僕らはしめやかに彼らを見送った。うるせぇな半分、頑張れ半分である。

大丈夫、君と一緒で大丈夫だよ、きっと。

 

さて、寝るか寝ないか。逡巡である。

夜とコンビニ

楽しく飲んでそれなりに酔っ払って、夜中の家路で出くわすコンビニの魅力に誰が勝てるというのか。いや、勝てない。機能面、ビジュアル面の両方から殺しにかかってくるコンビニの悪意たるや、東野圭吾あたりが小説にしそうである。

だいたい、散々水分を摂取しているというのにアルコールの分解のために水分不足になるというお酒の構造がどうかしている。アルコールも水分である。適当に酒の中で収支をまとめてくれればいいものの、酒ばかり飲んでいたら脱水的なサムシングになって底なしの具合悪さに引きずり込まれる。知らぬ間に泥酔パターンでは喉の渇きを感じる前に死するのだがしかし、きちっと酔っ払った時には喉の渇きを感じる。喉乾いた。喉が渇いた。ぶつくさと頭の中でリフレインさせながら出くわすコンビニ。塩味も甘味も兼ね備えた、あらゆる水分が連ねられている。見ずとも経験則で知っているラインナップ。決して安上がりではないし上質でもないが、酔っ払いのゴミクズみたいな欲求を満たすには十分すぎる。というのを、僕は知りすぎている。

そんな悪魔の建屋コンビニは、光る。煌々と照る。闇夜に目あり、コンビニあり。酔っ払いは夜光虫と化す。意識下の力学で吸い込まれては、本当に飲みたかったのか、食べたかったのかわからないジュースとかアイスとかカップ麺とかを買って出てくる。

 

昨夜、ここまで書いて寝こけていた。

夜中にシャワーも浴びず電気もつけっぱなしでテレビが淡々とW杯を映す部屋の世紀末さと言ったらなかった。

さて、今夜もやっていきましょう。

昨日の試合のこと

例にも漏れずに観戦しました。日本対ポーランド。

案の定、僕の周りの小さなコミュニティでもあの幕引きに対しては紛糾した。サッカー経験者が多い中、あれはサッカーじゃないだなんだと、至極その通りの感想をぶうぶう叫んだ。ド級の未経験者である僕も似たような感想を持った。ブラジルみたいにちょろまかすわけでもなく、愚直に後ろの方でパス回しをする姿。ポーランドもポーランドで、勝ってるから特に波風を立てるわけでもなく眺める。テレビ越しでもブーイングがわかるレベルのスタジアム。そりゃ金払って見に来て最後の最後で戦略的戦意喪失をかまされたら怒るのも納得だ。


長谷部の投入が終わりの始まりだった。

ちょっと整理する。

大前提を確認したい。ワールドカップ最大の目標は、一試合でも多く戦うことだ。それはすなわち優勝であり、準優勝であり、グループステージ突破である。出場段階で三試合は保証されており、そこから一試合でも多く戦うためには、グループステージを突破しなければならないし、ベスト16を勝ち抜かねばならない。さらにグループステージを突破するには、グループステージの三試合で勝ち点を多く取らなければならない。これは相対的な問題であって、何点取れば必ずステージ突破できるとかいう保証はない。

昨日の長谷部投入段階で、日本がグループステージを突破するための条件として主だったものは、

・コロンビア対セネガルが1−0のまま終わる

・日本がイエローを貰わない

この2点。

この2点が揃った場合にのみ、日本がポーランドに敗北したとしてもグループステージを突破できた。

そこで、監督の判断となるのだが、監督はセネガルが追いつかないと踏んで、確実にイエローを貰わずに試合をこのまま終わらせる道を選んだ。これが後半82分からのお話。

結果は、自明のこと。

 

後ろの方でパス回しを始めた時点で、僕はどう思ったかといえば、「これでもしセネガルが追いついたらこの人たちはどれだけ後悔するんだろうか」だった。これだけコロコロ後ろで回して攻めることもなく試合を終わらせにかかって、もし他会場でセネガルが意地を見せたら。どれだけ情けない気持ちになるだろう。友人たちとテレビを囲む中で、そんな話をした。

一夜明けて考えたのだけれど、この、「もしも負けたら」論自体が多分間違っている。間違っていた。

もしも負けたら情けない。もしも負けたら悔しい。そんなこと、なんで負ける前に考えたのだろうか。何しろ最大の目標が「一試合でも多く試合をする」である。目標につながる最短距離を走るのは当たり前のことで、最大の目標を達成するための手段であれば凡そのことは構わないのではなかろうか。たくさんの波風が監督をはじめとしたベンチワークに吹き付け打ち付けているだろうが、「だって勝ちたかったんだ。僕は、僕たちは、こう言う戦い方が1番勝ち目があると思ったんだ。」って反論が何より強い。美しくとか、自分らしくとか、そんなのより余程強い。


散り際に心が動く民族だ。僕らは。

最高の負け方や美しい散り方が歴史に残りがちである。だから最低の勝利や醜い生にはなかなか光が当たらない。今回の試合に冷水を浴びさせられた気がする。目を覚ますいい機会だったのかもしれない。

一つの価値観として許せそうな気がする、一夜明けての心境。

合わせ技一本ライフ

例えば駅伝で、全区間で5位くらいを取り続けてたら優勝争いができる。最近は青学がどうしようもない感じで強いからアレだけど、先頭争いが団子であれば区間5位キープは相当すごい。逆に区間賞を取っても、どこかの区間で脱水を起こしたら途端に優勝戦線から離脱してしまう。言うならば区間5位の合わせ技一本というか、なんというか。

結構堅い職業に勤めている。実際そんな堅いつもりはないのだけど、どうやら堅いらしい。そんな職業と、普通程度の音楽を作る素養が組み合わさると、例のごとく才能があるんだね!みたいな話になる。全然努力なんだけど。まぁそういうのは抜きにして、そこそこに面白がってくれる。

その度に、合わせ技を感じる。

多分僕の音楽に対するそれは、音楽界においてはミジンコである。間違いない。ただ、音楽にあまり造形のない集団(語弊があるかもしれないけれど)にいてのみ、それとなく凄そうに見える。でも、実際はミジンコだ。足の速さもそう。陸上競技において僕はミドリムシくらいの力量を持ってフィニッシュしたが、陸上界を離れると不思議と普通に足の速い人になる。

情けないっちゃ情けない。どれかこれかをもっと集中して頑張れと言われると、そこまでやり切れるかわからない。やりきってダメだったものもあるわけだ。


誰もがプロフェッショナルになれたのなら苦労はないだろう。実際は違う。プロフェッショナルなんてヒエラルキーピラミッドの頂点を電子顕微鏡でドアップにした先端だ。だからプロフェッショナルを目指さなくていいというのではない。プロフェッショナルを目指してひた走った事実は財産となり、必ず身につく。無駄にはならない。敗走したとて人生は続いていき、次のステージと出くわす。

その時、プロフェッショナルの残滓が輝くのだ。次のステージとの合わせ技一本という形で。

ぶっちぎりで敗者の論理だが、世の中大抵が敗者だ。今の商売は今の商売で、やれるだけやっていって勝てたならいい。負けてもやれるだけやったら何が残る。多分それは次で使える。


そうやって慰めていこうぜ、兄弟。

いとまのまにまに

何にもすることない1日だ。いや、それは嘘だ。叩けばやることなんていっぱい出てくる。けど、叩かなくてもいいくらいのやることだと信じて目を瞑る。仕事もなく、保険のお姉ちゃんに会う予定もない。飲み会もない。まっさらな1日である。

取り急ぎ洗濯物を干したりして、目の前に転がっている瑣末な面倒臭いマターを掃除し、さてどうしようか。なんでもできる自由の前に心が右往左往する。取り急ぎすっ転がってるギターを持って、キリンジのエイリアンズを練習する。今更ながらキリンジの低反発枕みたいな音楽を聴きだした。君が好きだと言いたいけれどあえて言わずに言葉の兵糧攻めを食らわせていくスタイルの歌詞と、音を抜いたり足したりしておしゃれに仕上げたコード進行。平成末期の倦怠感にぴったりである。とかなんとか言って、いつくるかしれない、不意にギター渡されてなんか弾いてと言われるシチュエーションのために虎視眈々と練習しているだけに過ぎない。生暖かい自己顕示欲の表れである。あー気持ち悪い。僕の短所をジョークにしても眉をひそめないで。

朝飯は最近フルグラに回帰してきた。生来シリアルの英才教育を受け育った僕は、牛乳と穀物のコンビネーションにめっぽう弱い。いくらでも食べちゃう。学生時代から社会人に上がりたてくらいまでは欠かさずシリアルしていたのだけど、ここしばらくは特に訳もなく買っていなかった。この間不意に入ったスーパーで500円ちょっとでフルグラが投げ売られていたので衝動的に買ってからというもの、牛乳とフルグラの最大公約数が見つけられないままずーっと食べている。牛乳がなくなったタイミングではフルグラが余っている。フルグラがなくなったタイミングでは牛乳が余っている。仕方ない、買い足すか。こんな具合で食べているからそのうちカロリー過多で太るんじゃないかと思ってるけどそんなに心配してない。美味しいこそ正義。

ギターも一通り弾いて、ご飯も食べて、洗濯物も干した。曲でも作ろうかと思ったけど、殊に今日は穏やか過ぎて曲作るエナジーすら湧いてこない。図書館でも行くかなとフラフラすぐそこにある図書館に向かう。外は真夏日らしい。真夏となると、そんじょそこらの暑さじゃない。蒸している。小籠包の気持ちが少しわかる気がする。全身にお湯を含ませたガーゼを貼られているような感覚。夜も気温は下がらない。なんの罰ゲームでこんな機構のの場所におしくらまんじゅうしているのか。おしくらまんじゅうのプレイヤーながら擬を呈したい。

図書館は涼しく、人生の一仕事を終えた壮年過ぎの皆様が物憂げな顔で新聞とにらめっこしたり雑誌読んだりしている。家にいても旦那や奥さんと蒸し蒸ししてしまうのだろう。一つの逃げ場としての図書館。プライスレス。横目に見ながら三島由紀夫が置いてある書架に行くも金閣寺は借りられてしまっていた。読みたい本が置いていないのは図書館の常である。何借りようかとフラフラしながら、宇宙の図鑑と村上春樹を借りてきた。村上春樹の著作はほんの数冊しか読んだことがない。それも短編何冊かとノルウェイの森だから、村上春樹のなんたるかを全く知らないでやってきている。いい機会なのでねじまき鳥クロニクルを借りてきた。昔大学の友達に実家が本屋だって話したら当たり前のように読書家認定され、村上春樹トークをものすごい圧力でされたことがある。申し訳ないけど読んでないくせして適当に話を合わせた中で、ねじまき鳥クロニクルを僕は絶賛したのだった。読んでないのに。名前だけ知ってる本を絶賛するほど危険かつ愚かなことはない。深掘りされたらアウトである。しかしこちとら話を適当に合わせまくってきた歴史の上に立っている。実家が本屋の説得力にかまけてそれとなく文体がどうこう、春樹の当時の作風がどうこうと知った顔で知った言葉を並べ連ねてうまく危機を乗り越えた。あの日の罪悪感への償いとして、読んでみることを決めた。春樹に疲れたら図鑑、図鑑に飽きたら春樹で今日一日を過ごす魂胆だ。

図書館から出たら相変わらずの真夏が口を開けてて、飛んで火にいる夏の虫の胸中を慮らざるを得ない。さぞ暑かろう、さぞ暑かろうと揺らめきだった道路を眺める。生活の糧を手に入れにスーパーへ向かう。我が家とスーパーとを直線で結んだ時、図書館が中点に来るくらいの距離感。もう半分歩く。

大田区の大森や蒲田のあたりに越して来て半年が経った。町工場が所狭しと並ぶ路地をぶち抜いている幹線道路が「産業道路」である。日本を動かして来た地区なんだろう。暑さは別として、下町の住宅街で生きる分には東京を感じない。東京の看板が新宿渋谷六本木丸の内池袋あたりであるなら、今住む街は東京ではない。東京の看板が近い、ただの街だ。だけど、東京の看板が近いことが今の日本においてはこの上なく重要で、東京が太陽とすると首都圏が多分地球の公転軌道、北海道は海王星とかだろう。離れると寒くなる。海王星にはあまり唆られない。場所に縛られない世界が広がりながら、結局は場所に縛られている。人が人を呼び、塊になって都会を形成、すでに耕した畑を掘り返しまくって情緒が薄いメトロポリスが完成して行く。公団の屋根の上にボーイングが飛ぶ景色すら、過去のものだ。僕もきちっと塊の中の一人で生きている。居心地はいい。悪くない。でも次のW杯の頃はどこにいるやら知らないぞと羽田まで続く下町の道路を歩きながら思う。

洗剤を買って、食材を買って、帰って来て、いよいよ春樹と向き合うだけになって、この文章を書いている。取り止めもないことを書いてこんなにも筆がパタパタ進むのは久しぶりである。よほど心が穏やかなのか、なんなのか。隣のスマホは震えることなく真っ黒の顔を仰向けに寝ている。常日頃誰かからの連絡を待っているような気がしている。暇つぶしとさみしさ紛らしのために。阿呆らしいけど、世の若者の大半はそんな感じだろう。発信しては反応を待ち、どこからともない連絡を待つ。で、たまに飲む。

さっき歩いた羽田まで繋がる道は遠くに行くに従って細くなっているように見えた。遠近法。当たり前の話だ。これから僕らはどういう道を果たして行くのか。細くなって行くのか、細くなった先に空港が待っているのか、広がるのか、止まるのか。この星のこの僻地で。

 

今日のお昼はカツ煮です。

どうでもいいながらちゃんと観た日本戦

なんというかこう、縦パスがしっかり入るあたりでコレやれるなって感じがあったんだけれど、マジでサンドバッグみたいに立ち上がってくる日本良くやったし凄い。ぶっちゃけ縦パスが入るメカニズムとかは全然わからない。専門家じゃないしサッカープレーしたことも体育くらいしかない。でも、素人観戦を続けた中での帰納法的な推論として縦パス入ったらいい形になる。あれがスパスパ決まった今試合は観てて楽しかった。

ポーランド戦でぶいぶいしてたゲイエがどうも消えていたところをみると、日本の守備がちゃんと機能ていたんだろうなと思う。そしてどうやらエンディアイエって名前はセネガルに多いらしい。「佐藤」でさえ日本代表にいないのに、3人エンディアイエがいるセネガルのエンディアイエ率は特筆すべきものがあるのは間違いない。身体能力よりもエンディアイエ。

セネガルにがっぷり四つで力負けしなかったし、この間コロンビアに勝ってるところを見ると戦前のしょんぼりムードはなんだったのかと思ってしまう。確かにハリル解任で見えなくなったものもあるのだろうけど、なんやかんやで結果が全ての世界だ。仕事もスポーツも。勝利の前には全てが言い訳になってしまう。良し悪しはあるのだろうけど。いいとして、問題は次のポーランドでどうかである。コロンビアとポーランドがどうなるかによりけりでだいぶ風向きは変わる。

コロンビア、セネガルとやってきた流れでポーランドと当たるとドギマギしやしないか。欧州勢のサッカーはわかりやすい分、普通に計算できちゃう恐ろしさがある。コロンビアとか確かにめちゃ強いけどムラがあるのだろうし、セネガルも立ち上がりの鬼攻めに殺されそうになったけどフィールド中央の守備がグスグズだったっぽい。けどポーランドにそういうのはない。バチバチに軍隊サッカーしてくる。東欧って真面目なイメージもあるし。セネガル~ポーランドの時はセネガルがゴリった結果レバンドフスキまで配給が回ってこなかったけど、日本が普通にサッカーしたらレバンドフスキまでボールいく。マジ怖い。マークの数とかじゃない世界の住人と普通にサッカーしちゃいけない。

だからなんだ、計算できてしまう分ポーランド戦が苦しいんじゃないかって話をしたかったんだっけ。エンディアイエ。

寝ンディアイエ。

ほんっとどうでもいい

結構世の中どうでもいいことだらけだ。明日のマイアミの天気とかまじでどうでもいいし、石北本線が鹿と激突して止まってもどうでもいい。都内でドラッグが密売されてだとしても甚だ僕には関係ないし、会ったことのない又従兄弟とかが風邪ひいて寝込んでたとしてもまぁそうか、お大事に。くらいな気持ちにしかならない。ほんとどうでもいいことで溢れている。

サッカーとか音楽とか興味あるとしてることでも、言ってしまえば割とどうだっていい。今晩日本が負けたらどうだろう。残念だ。だけど特に暮らしに支障はない。明日も普通に生きる。勝ったら嬉しいけど、よっしゃ勝った!って言って明日も普通に過ごす。にやけが止まらないとか、そんなことはない。結構そんなもんだ。

親が死ぬとか、自分が死ぬとか、配偶者が死ぬとか、どうしてもどうでもよくない事ってそのくらいしかないんじゃないか。どうだろう。帰属意識がめっちゃ強い人は違うのだろうか。

仕事でお金もらってるけど、あれも考えようによっては「どうでもいいことを必死にやる対価」みたいにも捉えられる。生活のために働いていると割り切っている人は元より、仕事だから真剣にやる人、真剣にやってたら案外面白くて好きになってきた人、そもそも好きなことを仕事にしている人。これも色々あるだろうが、どういうパターンであれ、本来の本来のところは多分どうでもいいんだと思う。どうでもいいながら、次第にどうでもよくなくなって、真剣にやっている。どうでもよくないって思ってくれてありがとうっていう会社からの謝礼が給与だ。

さらに考えてみれば結婚は多分どうでもよくない人を増やす行為だ。普通に生きていても、仲良い友達とかどうでもよくない人は出てくるだろうけど、結婚は国に対して書面でどうでもよくないことを示す。どうでもよくない宣言である。そう考えたら別に男女間じゃなくても許容してあげればいいのにって思う。彼にとって、彼女にとってのどうでもよくない人なんだから。

みんな案外どうでもいいなって思って生きているんだから、「興味ないんで。」みたいな突っぱねかたをすることもない。僕はあの突っぱねがほんと苦手で、興味ないって言ったら元も子もないじゃん、みんな興味ないことだらけの中で生きてんじゃんって諭してやりたくなる。わかってるよ興味ないことなんて。興味なくても優しさでぼやかせよ。

どうでもいいんだけど。

「フジ子・ヘミングの時間」を観てきました

横浜の黄金町にある小さな劇場ジャック&ベティにて、観て参りました。

fuzjko-movie.com

 

クラシックの道を志したでもなんでもないのだけれど、9年間ピアノを習った集大成としてラ・カンパネラを演奏した。その唯一無二の動機づけとなったのが、フジ子・ヘミングだった。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

朝のジャック&ベティ。混雑の予感に駆られて上映2時間前にチケットを購入し、どこまで混むやらとのこのこ開演前に戻ったらとんでもない人だかりが発生していた。恐るべしである。平日の真っ昼間、老齢の方が多い中に混ざる二十代。定員およそ150名の小さな映画館がパッツパツになった。さて。幕が上がる。


80歳を過ぎたフジ子の今を追いかけながら、フジ子の話からその音楽性のルーツをたどる。フジ子・ヘミングに対して特別な思いを持たない人間からするとなんでもないドキュメンタリーなのだろうけれど、彼女の演奏に一度でも心を動かされた人間であれば、観て損はない。要所要所で出てくるフジ子幼少期の絵日記の内容が殊に精緻な描写で、ありありと当時を表していた。

まずフジ子の演奏の源流を知った。

フジ子のカンパネラだったりトロイメライだったり、多少譜面を無視してでも気持ちを前面に出した演奏。あれは母の厳しい指導で培ったテクニックの上に、クロイツァーなるピアニストの指導が乗っかった賜物であった。バッハでも気持ちを全面に込めろ。歌え。フジ子が弾く月の光を聴いたらよくわかる。気持ちで弾いている。それでも、聞こえて欲しい音は必ず聞こえる。上手さの上に万感の感情が込められているのがフジ子のピアノである。

そしてどこまでも素直で衒いのないフジ子だった。

ドキュメンタリーのカメラが回っていようといなかろうと、多分あの調子なのだろう。猫と戯れ、タバコをふかし、酒を飲み、アンティークを愛でる。死には悲しみ、友との交流に喜ぶ。いまだに恋をして、「私まだ16歳くらいの気持ちのままよ」って80過ぎの女性の言葉だろうか。毎日世界を飛び回るような生活に疲れが滲んだ場面もあったが、なんだかんだハリが出ているのだろう。肌つやだとか声色は16歳とは言わないまでも若々しい。

60代の終わり、テレビに出るまでの人生はあまり知られることのないところだが、ピアノの先生をしながら年に一度リサイタルを開いていたのだという。貧しかったと言っていた。けれど、当時の写真や語口からはとてもそうは感じられなかった。財力だけじゃない豊かさがあった。フジ子の弟である大月ウルフも出演していたのだが、彼の話の中でフジ子は小さな頃よくいじめられていたとあった。時は昭和20年代である。ハーフへの風当たりは強かったようだ。でもフジ子は至極けろっとして当時を語った。あらゆる感情が心の肥やしになったかのような懐の深さを感じた。

カンパネラについての話の中では、「この曲は全てを捧げなきゃ弾けない曲だ」と語っていた。

他のカンパネラを聴いてもらえればわかる。私のカンパネラは誰のものとも違う。

仰せの通りだと思う。誰のものとも違う。多くのカンパネラが鐘の音を表しているとすると、フジ子のカンパネラは誰かの心象風景にある鐘の音だ。機械的な音じゃなく、記憶の脚色が入った鐘の音。フジ子は自分の歴史と感情を演奏に込める。タッチミスがあっても厭わない。記憶が属人的なものであるように、演奏も譜面の正しさを追い回すことはない。まぁテクニックがあるからそこまで酔えるのだけれども。

 

ショパンの雨だれを書いた記事の中で、クラシック音楽全般についても触れたことがある。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

言葉がないからこそ解釈の自由が生まれ、音から感じるとるものも一人一人違ってくる。

誰が弾くよりも叙情的に歌うフジ子のピアノ。彼女が込める気持ちの深さや幅の広さが、すなわちそのまま彼女の心だろう。父の失踪、厳しい母、人や動物への愛情。八十余年の人生のなかで、数々のものに起因して醸成された心。それが、テクニックだけでは震えない部分を震わせるのだと思う。

 

なーんて、色々考えてしまうともはやそれは芸術じゃないんじゃないかとも思う。歴史背景やピアニストの生い立ちが確かに水面下にはあるのだけれど、洋上に出ているのは演奏だ。その部分を素直に受け取る。それこそが芸術の愉しみ方じゃないか。フジ子がピアノにまっすぐ感情を乗せるように、僕らもまっすぐそれを受け取る。それでいい。それこそがいい。



そもそもフジ子が好きなこともあって夢中になって観てしまった。掛け値なく良かった。忙しい最中、いい潤いとなりました。感謝。

梅雨空の下の家路、鍵を無くす。

1日で最も脆い時間帯はいつだろうか。寝起きか、寝入り際か。違う。それは帰宅途中だ。家路。1日の疲れを背負い、安らぎが待つ自宅を目の前にする道すがら、人は最も脆くなる。トイレを目の前にした時に便意が最高潮を迎えるように、家を目の前にした時こそ疲れは最高潮を迎える。


梅雨空が暫くは続くらしい東京の空の下。僕はいつも通りに15分間の家路をテクテク歩いていた。顔見知りになった総菜屋さんでビッグチキンカツを買い、今日は涼しいねぇなんて愛想をブンブン振りまきながら。それでもやはり身体は疲れている。飲み会が続くのもあるし、繁忙期に楽しいばかりではない仕事をしているのもある。早く帰ろ。帰って風呂入ってチキンカツ食べよ。家まであと5分を切ったあたりでポッケに手を伸ばす。いつも家の鍵は左の前ポッケに入れている。ポッケに手を忍ばせた段階で鍵の存在にはすぐ気付くはずなのに、今日はそれがなかった。デコもボコもないぺったんこのポッケ。地震が起こった直後の潮のごとく、血の気が引いていく。慌てて全部のポッケを弄る。ない。ない。カバンを弄る。カバンなんかに入れた覚えはない。が、探さずにはいられない。足だけは家に向かっている。鍵のない、他人の家同然の我が家に。何しろ鍵はずっとポッケに入れているのだ。ポッケから落ちることなんてないはずだ。しかも酔っ払っていない。自分の意識の下にあって、なぜ鍵を落とすのか。ありえない。焦りが頭をかき乱し、乱れた考えは独り言となって口をつく。ないはずない…ないはずはない…家がいよいよ近づく。軒下まで来た。いよいよ鍵がない。雨から逃れ、ポッケとカバンを全部ひっくり返す。やっぱりない。どうしても、ない。携帯を手にとって、近隣に住む友人に声をかける。が、すぐには返事がない。はて…はて、どうしたものか。家以外の選択肢が浮かぶ。漫画喫茶、ネットカフェ。しかし、梅雨空だ。シャワーは浴びたい。やっぱり友人の家か。どっちにしろお金が必要だなと、近所の銀行に向かう。ATMは24時までやっているのが都会のいいところだ。取り急ぎ貰ったばかりのボーナスを引き出して、財布にチャージする。一応、どんな選択肢でも対応できる体制は整えた。さらに潰しがきくようにもう一度駅まで向かう。友人宅にしろ、ネットカフェにしろ、駅前に行かなきゃどうしようもない。さっき歩いた道を逆さまに歩く。総菜屋さんはこの少しの間に店じまいをしていた。悲しみを吐き出せると思ったのに見当が外れた。

雨の中を歩く。さっきの道と同じ道でも、全く違う道だ。トボトボと歩く。トボトボ、トボトボ。同じリズムを刻む徒歩。考えが捗る。絶望ってよく言うけど、あれは希望があるからこそ絶望だ。女の子と付き合えると思って声をかけるまでは希望に溢れ、断られて希望が絶たれる。それが絶望。今僕は日常を奪われている。自らの管理不行き届きにて、当たり前が失われている。多分これは絶望とは言わないんだろう。非日常に襲われた時、僕らはどう言葉で表せばいいんだろう。ぐるぐる考えながら歩いていると、悲しいかな、血行が良くなってくる。血行は考えを前向きにさせる。非日常の真っ只中にいる現在。非日常に襲われたのなら、がっつり非日常に浸ってやればいいじゃん。どうせ鍵の作り直しで何万とかかるんなら今日の出費とか誤差の範囲じゃん。


次の瞬間、アパホテルにいた。

今空いてる部屋に泊めてください。一生に一度言うかわからないセリフを吐いて潜り込んだアパホテル。スマイルホテルしか知らない人間からすると十分な高級ホテルである。朝ごはん付きで10000円。充電器を買ったり、晩飯をめっちゃ買い込んだり、総計恐らく15000円くらいのワンナイト。ネジ外して突っ込んだ。

転んでみなきゃ痛いのもわからない。だったら泊まってみなきゃわからないこともあろう。鍵をなくさないと蒲田のホテルなんて泊まることはないし、観光旅行では朝食ホテルビュッフェを食べない。緊急避難的に泊まる今だからこそ感じられることがあるに違いない。どうせ転ぶなら、タダで起きてたまるか。と、哀しみと疲れの果てのポジティブで今はなんとかやっているものの、じきにスーパー躁タイムも終わる。その時、充足感が残っているか、虚しさが残っているかは、これからの過ごし方にかかっている。

もう寝るしかないのだけれど。

明日のことは明日考えます。頼むからいい思い出になれ…!できれば鍵出てこい…!

サッカーの懐深すぎ問題

日本が勝ちました。やったね。僕は仕事が忙しかったり飲み会という名の会議に出席しなきゃならなかったりで観られなかったのですが、やっと今落ち着いて、宿敵となっていくであろうポーランドとセネガルの試合を心穏やかに観戦しています。

 

ここまで、多分半分弱の試合に目だけは通していると思う。初戦こそボソボソ試合だったけれど、概ねキリッとした試合が多い印象で非常に観ていて疲れる。面白いけど胃もたれするような試合が多い。

 

サッカーはラッキーパンチが多いスポーツと言われる。「〇〇の奇跡」みたいな突発イベントが起こりやすい。対して、アメフトとかラグビーとかはほとんどラッキーがないスポーツとされる。だからこそ南アフリカ戦のジャイアントキリングがインパクトある試合となっているわけだけども。

ある程度実力通りにいくラグビーと、そうではないサッカー。するとサッカーでどういうことが起こるかといえば、全部がサッカーらしい出来事となる。

例えば。

堅守速攻のチームがパスサッカーのチームを攻略したとしよう。僕らはどう言った感想を抱くかといえば、「これがサッカーだよなぁ」って思う。

また、パスサッカーでロマンを追ったチームが堅守速攻のチームをボコボコにしたとして、僕らは何を思うかというと、「これこそがサッカーだよなぁ」って思う。

幾度となくゴールを脅かされながらもすれすれのところで逃げ続けて、たまたま放り込んだロングボール一本がFW1に当たってコロコロ入っちゃったとしても「これがサッカーだなぁ」って思うわけだし、引退試合でジダンがマテラッツィをヘッドで倒して一発レッドを食らっても、メッシがバッジオが駒野がPKを外しても、「これがサッカーだよなぁ」って思う。

なんだこの懐の深さは。なんでもありじゃないか。贔屓のチームが勝つも負けるも、有名選手が活躍するもしないも関係ない。あらゆる可能性、あらゆる出来事に対して、「これがサッカーだよなぁ」が通じてしまう。そりゃ、サッカーという舞台の上でみんなが踊っているのだから当たり前といえば当たり前なのかもしれない。それでも、それでもだろう。

 

考えてみれば、イチローがそうだ。

メジャー3000本目の安打を彼がどう飾ったかご存知だろうか。彼は三塁打で3000本目のヒットに華を添えた。非常にイチローらしいなって思うだろう。

これである。

仮にイチローがホームランで3000本目を飾っても、右中間を破る二塁打でも。ライト前ヒットでも。内野安打でも、セーフティバントでも、きっとイチローらしい3000本目になったに違いない。これが懐の深さである。

 

大胆に解釈すると、誰もがイチローになれるスポーツがサッカーだ。イチローは彼の競技人生を捧げて、あらゆるヒットを自分らしいヒットとしてきた。サッカーも同様だ。連綿と続いてきたサッカーの歴史が、あらゆるパターンのサッカーをしらみ潰し、誰がどんな動きで活躍をし、どんな結果が生まれたとしても、それはサッカーらしいのである。サッカーがサッカーである以上、サッカーでしかありえない。

This is soccer.

That's all.