徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

我が家の太陽、僕らが惑星

リビングに息子がすっ転がっている。これが、我が家の太陽である。

息子が家にやってきてやや2週間。育休を貪りながら、育児をしている。泣き、笑い、寝る。乳を飲み、吐き戻し、寝る。起きて、泣く。人生の滑り出しを我が物顔で奔放に生きる息子。突然家庭に恒星が現れて、僕らが惑星になったような気分だ。全て太陽の思し召しのままに、僕らも惑わされる。まさに惑星である。

全ては息子のリズムによって僕らは動く。さすが恒星、核融合のごとき爆発的代謝のため、およそ2時間から3時間おきに腹が減る。それに合わせて、妻は乳を差し出すし、僕は哺乳瓶を差し出す。出産時にも男親の無力さを感じたが、乳が出ないあたりも、男親の無力さである。口元に何かがあると安心するのか、息子はよく授乳中に眠る。天使のごとき寝姿なのだが、寝てもらっちゃうとすぐ空腹に苛まれるのが見えているため、心を鬼にして叩き起こす。吸え、乳首を、吸え。眠気に閉じる口をこじ開け、口の奥深くに乳首を持っていくと、吸啜反射によりほぼ自動的に乳を飲んでくれる。人体のシステムはよくできている。

授乳に次いで重要なイベントとして排泄がある。彼の排泄は時と場所を選ばない。たとえ火の中、水の中、草の中、森の中。おむつの中、おむつの外、おとうさんの服の上、ソファの上、カーペットの上。うんちだろうがおしっこだろうが、心の赴くままに排泄する。いたいけな肛門から発射さえれる大便はなかなかの威力だ。アトムよろしく、百万馬力のスピードで噴射される。夜空の星であるお父さんとお母さんは、一生懸命後片付けをする。できれば、できればでいいからオムツ替えの時にうんちはしないでほしい。できればで、、いいから、、

自由闊達な排泄があれば美化清掃活動もある。沐浴である。しかしこれも一大事だ。僕は泳ぎが非常に苦手で、その根源には水への恐怖があるのだが、これがものの見事に遺伝してしまったようである。ベビーバスに浸かった時点から体は恐怖に慄き、インベーダーのようなポーズで硬直する。束の間、顔面が紫色に染まるほど苛烈な鳴き声をあげ、恐怖を訴えてくる。僕が風呂に入れているのだが、心情が非常に理解できてしまうこともあり、申し訳ない気持ちになってくる。怖いよね、水の中で目を開けるとか、正気の沙汰じゃないよね。心を寄せるだけ寄せ、無慈悲のシャワーを放つ。息子はパニックである。毎晩やるのに、一切慣れない。しかし、ひとたびバスタオルの上に打ち上げられると、爽快の面持ちでニタリと笑う。

風呂上がり、泣き疲れてようやく寝たかと思えば、突然思い出したかのように猛烈な勢いでアリクイの威嚇のようなポーズをとる。そして、自らの動きに驚き、泣く。モロー反射である。この手の、自分の動きがままならなさすぎて泣くパターンは結構多い。自分の手の動きが全く制御できず、顔面をパンチして、泣く。自分のくしゃみやしゃっくりに驚いて、泣く。息子の様子を見て、その昔、ピアノを練習していた頃に、自分の指が自分の思ったように動かず、自分のものじゃないように思えたことを思い出した。自分の身体を思うように動かすのはこれほどに難しいのだ。

一つ一つの出来事に驚いて、泣き、その度に僕ら両親があやす。昼夜を厭わないこの作業は辛くもある。同時に、自分の身体を認識する難しさ、思うように動かす難しさ、人に何かを伝える難しさを、息子を通して追体験しているようでもある。発達してしまった社会ではまずできない経験を、息子にさせてもらっている。たとえうんち塗れになったとしても、それすらもありがたい。いつか僕が太陽だったように、彼にも太陽としての役割を完遂してほしいなぁと思う。

本日も僕は1時の授乳を行う。なぜか夜になるとむくむくと元気になり、泣き喚く息子との睨めっこだ。宥めても泣き止まず、心を無にして部屋をうろつく亡者のようになりても、惑星に休みはない。何しろ太陽ありての惑星なのだ。

しかしこいつ寝ないわ。なにが嫌なんだ、頼む、教えてくれ。

息子が生まれました

昨日、息子が生まれました。妻と二人で2年半ほど、それは楽しく暮らしてきましたが、なんと一人増え、三人家族となりました。

20代前半の頃、雑談や飲み会などのなんでもないコミュニケーションにおいて、「将来子供欲しい?」みたいな話は比較的よく上がる話題だったと記憶しています。30代に入り、子供関係の話は大いに配慮しなければいけないお年頃になってきましたが、若者の間であれば、子供欲しい?くらいはまぁよく話題に出るでしょう。その際、僕は「自分に似た他人が自分の知らない未来をどう生きるのかに興味がある、だから子供は欲しいと思う」と、わかるようなわからんような理由をつけた沸切らない解答をしていました。そうこうしているうちに、自分に似た他人が誕生したわけですが、今、息子を目の前にして、自分の知らない未来をどう生きるかなんてことは微塵も思いません。かわいい以外の感情は脳内から爆散し、スペースデブリとなってアンドロメダの彼方まで飛んで行ってしまいました。

当初、妻との間では、そのうち子供できたらいいね、くらいの真剣さで構えていました。しかし、僕のキンタマが望外にポンコツだったこともあり、緩い構えでは時間の切っ先に差し込まれて身動きが取れなくなるとの危機感のもと、結構なスピードで妊活を駆け抜けていきました。昨日生まれた子は顕微受精なる、そこそこマジな不妊治療によって授かった命です。現代医療の力がなければ、僕は親になれませんでした。「自分に似た他人が〜」なんてスカしたことを抜かしてる場合があったらさっさと静脈瘤を結索した方がいいよと、あの頃の僕に忠告してあげたいです。

妻のお腹の中の命がどんどんと大きくなっていくにつれ、嬉しさと共に寂しさがむくむくと育っていきました。何しろ、妻と二人の生活が楽しかった。新しい命が生まれることで、二人の生活が崩れていくような気がして、怖いような、不安なような、そんな気が強くなっていきました。望んでいたはずの変化が目の前に迫ってきた時に、急に変化が怖くなることは、よくあることなのでしょう。上京するときの不安や、就職するときの不安、それに類する感情だったように思います。妻と二人で、これまでの生活を反芻するかのように語らいました。本当にこれまでの生活が楽しかった。楽しかったからこそ、名残惜しく、寂しい。寂しさこそ、これまでの生活が楽しかったことの証明なんだ。最高の結婚生活だった。きっとまたこれからも三人で送る最高の生活が待っているはずだ。きっとそうだ。

破水は突然でした。

仕事中に妻から電話がかかってきて、破水した、病院に行く、と話した次の瞬間には妻は入院しており、僕は早退して自宅で待機をしていました。結局陣痛は来ず、翌日誘発剤を使って陣痛を起こし、分娩に臨むこととなりました。

立ち会い分娩を希望していたので、分娩当日は一緒に陣痛室兼分娩室に入りました。壮絶な場面でした。陣痛の初期の頃は、お尻の辺りを握り拳で押し込んで、痛みを散らすお手伝いができていました。ただ、いざお産が始まると、妻が小刻みに痙攣するほどにいきんで、息子が狭い産道に体をねじ込みながらなんとか外に出ようとしているのに、僕はひたすらに妻の汗を拭くマシーンにしかなり得ず、男親の無力感を味わいました。冗談めかして言っていますが、妻と子の頑張りは僕の持ちうる言葉で表せないほどのものでした。最後、妻が振り絞るようにいきんで、助産師さんが息子を引っ張り出した瞬間。息子の姿を見ることができました。血と羊水に塗れてどろどろだけれど、なんとか息をしようと口を開けている息子がいました。溺れたように喘いでいた息子が、口の中を掃除してもらうと、元気に泣き出しました。本当に、忘れ得ぬ光景になりました。

 

はたして、三人家族になって丸一日ほど。妻と息子はまだ病院にいます。妻と話した不安は、今のところ顕在化しておらず、これまでのようなやりとりを続けています。面白おかしく、時間が過ぎていっています。その中心には息子がいます。何しろ、かわいい以外の感情は脳内から爆散し、海の藻屑となってマリアナの最奥まで沈んでいってしまうほどの息子です。写真フォルダは息子以外何もなくなり、自宅は息子を迎えるための形態にフォルムチェンジをしました(おとうさん頑張りました)。全てが息子を中心に回り始めています。僕の親と妻の親は、呼称をおじいちゃんとおばあちゃんに変更しました。僕らが息子の写真を親族のグループラインに上げるたびに、将来はピアニストだ、目が賢そうだ、何かの思索に耽っている顔だ、などと、好き勝手な話をして盛り上がっています。息子を中心として、同心円上に喜びの輪が広がっているようです。

いざ、親の立場になってみると、「自分に似た他人が自分の知らない未来をどう生きるのかに興味がある」というのは無責任なところがあったなぁと思います。自分に似た他人とたくさん関わるのは自分です。ならば僕が、未来を面白がれるような、未来を楽しめるようなヒントの種を、自分が手に持っている分だけ息子に渡してあげたいなと思います。未来には腐って使えないものばかりかもしれないけれど、もしかしたら芽くらい出るかもしれない。それを使って、人生を面白がってほしい、そしてそのとき、息子を中心として、同心円状に喜びの輪が広がっていたらなんといいことだと、思っています。

なーんて、生きているだけで本当に可愛い。かわいい以外の感情や理性は脳内から爆散してニュートリノ大の素粒子の如く何百光年も彼方まですっ飛んでいっているので、生きている以上のことはもう望まない!

なんでも因果なんでも理解

この春、異動した。人事の職から一転、現場の営業部隊に鞍を替えろ、そこでマネジメントをしろ、という異動が発令されたのだった。4年半、労務屋さんとして、社内的な諸々や高名な疫病への対処など、常時歯を食いしばって働いてきた。その食いしばりが何に影響を与えたか不明だが、なんらかの力が働き、ピンボールのように弾き出された春の日。ピンボールは全く見知らぬ畑に着弾、門外漢の管理職が一匹爆誕した。

嘘でもマネジャーという立場になったため、取引先の職員など、日頃関わり合う人の数が非常に増えた。就任序盤、畑違いの僕は、なんとか皆から受け入れてもらおうと努めて気さくに話しかけ、部下やら取引先やらから聞ける限りの話を聞き、困りごとを解決できるだけじゃかじゃか解決した。その甲斐あり、たくさんのステークホルダーたちとそこそこな信頼関係が築けたように思う。門外漢、パージされなくて本当によかった。おかげで前職とは比べ物にならないほどたくさんの人と共に働き、たくさん話をしている。

かつて人事職のころ、僕は経営判断の実務調整を担っていた。多量の情報を元に、各所の利害を調整をすることが仕事だった。一方、現場では、たくさんの顧客に対してたくさんの職員が売上を上げるために働く。役割が違うもんだから、必要な情報の優先順位も変われば、与えられる情報の質も変わる。さらに、現場に行けば行くほど、経営判断の意図からの距離も遠くなる。そのギャップを埋めるのが僕の仕事なのだが、一旦棚に上げる。物理的に遠ざかることは事実だろう。

多量の情報から距離を置き、経営判断を愚直に執行する。このような立場に置かれると、多くの人はどうやら様々なことを想像するらしい。経営判断の意図を想像する。想像と日頃見聞きした事柄に因果関係を見出す。そして、理解する。この理解は事実でなくてもいい。各々が想像しやすいように想像し、思考しやすいように思考し、納得した時点で想像と思考が理解に変わるのだ。さらに、自分の想像の真偽を確かめることは多くの場合でしない。ちょっと調べればわかることでも、自分の想像から因果を辿った理解を覆すような行動はなされず、審議を超越した理解がそこかしこに発生する。

僕もこれまで、勝手に自分が理解したことをこうしたブログなどで書き続けてきた。しかし、どれだけの思考において、正しく事実を把握しようとしただろうか。ほとんどの場合で、目の前の事象と世の中の風潮を、勝手に因果で結びつけ、アナロジーを見出し、さも新発見をしたように書いた。その瞬間、僕の中で因果が正しいかなんて全く関係ない。自分の思考で辿り着いた因果に酔い、理解に溺れるのである。

「理解をすること」は人間の習性なのだなと、たくさんの人と触れ合ってみて痛感している。仕事の文脈では、この理解をハックして同じ方向に歩んでいくことがマネジメントの大きな意味なのだろう。

自己の経験から帰納法的に理解すると間違えることを理解しながら、勝手な理解で、また書く。

水の前では皆平等

我が家にはたくさんの植物がある。観葉植物である。部屋の中に数十体、玄関先に寄せ植えがいくつか。妻の趣味だ。

僕も、植物の名前を覚えたり、窓辺にハンギングされている植物を見ていい部屋だなと思ったりなどしている。そして、妻が早く家を出たりしたときに、たまに世話を手伝う。

植物の様子を観察して、変化を察知して、適切な処置をするのは、至難の業だ。妻は本当に物事をよく見ているし、変化にも気がつく。そして植物に対して慈しみの気持ちを持って世話をする。日々見ていて、僕には到底できないなと、尊敬の気持ちを抱いている。

僕ができる世話は、本当に簡単な水やりである。主に寄せ植えに水をやる。ビオラシクラメンが植っているのだが、しおしおした植物たちが、朝に水をやれば帰る頃には元気になっている。わかりやすい奴らだなあと、面白く様子を見る。

 

今日も僕は寄せ植えに水をやった。

ブリキのジョウロに水を汲んで、寄せ植えにジャバジャバと水をかける。たっぷりやる。土は乾いているので、多めに水をやってもどんどん吸い込んでいく。気候も良好で、数日前の寒波が嘘のように暖かくなった。さぞ植物も喜んでいるだろう。

ひとしきり水をやって、ジョウロを片付け、喉の渇きを覚えたので、僕も水を飲んだ。同じ水道水を。

 

はたと気がついた。僕は植物と同じ水を飲んでいる。喉が渇いて、水を飲む。土が乾いて、水をやる。同じ水である。

何を今更言っているのかという話だ。人体を構成する要素のうち7割だか8割が水分というのは有名な話だし、植物が育つには水と空気と日光と養分と気温が必要なのも小学校理科で習う。常識も常識。

しかし僕は、人間も植物も、全く同じ水で生きていることを、実感していなかった。水とは理解していたが、なんとなく違う水のように感じていた。だがそうではなかった。なんら変わらない、同じ水で生きていた。

 

人間であることを少し驕っていたのかもしれない。特別な水などない。植物も動物もひいては人間も、生命として、水の前では平等なのだ。

謙虚におおらかな気持ちで生きねばならんと自省した、日曜の昼下がりであった。

今まさに新型コロナウイルスに感染している

12月半ば、4度目の接種をした日、僕はこれで一定の抗体を得たものと確信していた。周りを見渡しても、同年代の連中で真面目に4度も接種を行なっている人は少ない。副反応と後の健康との天秤を揺らした際、若者は重症化する可能性が低いとのことから、4度も打たずともいいと考える人が多いのだろう。

ただ、それでも3度目、4度目の接種をすることで、短期的な発症リスクを低減できることや、重症化リスクをさらに下げる効果が期待できることが、確からしい資料にあった。で、あれば。帰省するかもしれないし、安全と安心を踏まえて打とうではないかと考えたのがわずか一月前の話。

 

1月29日、朝起きたあたりから気管の肺側のあたりに違和感を感じた。生来扁桃腺が弱く、喉の口腔側が腫れることは慣れていたのだが、気管の奥の方の違和感はあまり心当たりがなかった。強いて言えば、かつて北海道で陸上競技に精を出していたころ、寒空の下で走り込みをした時の気管の違和感に似ていた。たまたま、その前日に辺りをちょろちょろと走っていた(いわゆるジョギングである)ので、その影響だろうとたかを括っていた。

しかし、これが紛うことなく、新型コロナウイルスの予兆であった。

その日の17時ごろには全身がなんとなく寒気を覚えだし、風呂に入るもその寒気は改善されることがなかった。仕事は休みたくない、事実を直視したくない、と体温計測に対しては忌避を決め込んだのだが、妻に説教をかまされ、落ち込みながら測った体温は38.0℃。体温は一切落ち込んでいなかった。戦いの幕開けである。

この時点ではまだ、明日の朝ケロッとしている可能性も考えられた。だが、常識的に考えて、今のご時世、前日に38.0℃の発熱をかましておいて、翌朝出勤することは御法度である。主観的にはやらなきゃならないことが山積みなのだが、懸命に自らを客観視し、翌日の休暇取得を決断、発熱外来の予約を実施した。

その夜は苦しかった。仕事のことが頭をよぎり続ける中で、寒気でろくに寝付けない。深夜に解熱剤を服んで、なんとか3時間ほど寝たものの、およそ片手の数では収まらないほどの悪夢を見た。

翌朝、36.9℃くらいまで熱が下がった瞬間もあり、これはただの風邪なのでは!?と糠期待などもしたが、病院に着く頃には38.0℃まで鰻登りをかまし、検査をしたら秒で陽性判定が出た。検査結果が出るまで15分くらいかかるかもって言ってたのに、よほど元気に陽性を示したのだろう。

 

脳裏には様々なことがよぎった。4度も真面目に副反応と膝を突き合わせて向き合い、くんず離れずの格闘を繰り広げたというのに、なぜこうもあっさり罹患するのか。あの苦しみ抜いた健康への先行投資はなんだったのか。1週間も外に出られないときた。仕事はどこまでどうやっつけていただろうか。誰に何をお願いすればよかろうか。はたしていつ頃熱は下がるのだろうか。

熱で動作不良になっている頭で各所に話をし、家に帰ってきた頃には妻も立派な濃厚接触者である。彼女にうつさず、この局面を打破できるだろうか。自らの体調だけでない戦いが本格的に始まった。

 

4度もワクチンを打ったといった。であるからして、よほど軽症で治まり、隔離期間を大いに持て余すようなことにもなろうかと、若干の期待をしていたのだが、目下罹患3日目、何もしなければ常に39℃台の発熱をきたし、喉の痛み、咳、止まることを知らない痰と鼻水、聞こえの悪くなった右耳と、軽症であるとはいえ、主観的にはシンプルに苦しい。幸い、頓服(カロナールとロキソプロフェンをもらっているが、ロキソプロフェンが1番効く)は効くのだが、一時的に効いたとて効き目が切れたら39℃に逆戻りである。寒気、筋肉痛が容赦なく押し寄せる、熱が上がるあの瞬間を頓服を服むたびに繰り返している。あまりにお決まりのパターンすぎて、頓服の使用を躊躇っている。今も39.3℃の熱があるが、安定して39度台に居座ることができれば、歯の根を鳴らすような事態は避けられるし、こうやって文章も書ける。対策として正しいのかはわからないが。

 

いつまで続くか体調不良。

幸い、妻は今のところ元気そうである。僕も、筆を取ればある程度雄弁だが、耳鼻咽喉の機能が軒並みハルマゲドンしているので、コミュニケーションをうまく取れないのがもどかしく、世話されっぱなしなのも心苦しい。

いつか必ず治るとは思うが、しっかりと苦しい。先が見えないような気がするのは、体調に起因するメンタルの落ち込みもあろう。

なんとか張り切っていきたいところである。

構造改革前夜の構造改革担当者の気持ち

8月が終わる。本州の人は夏休みの終わりを想起するのだろう。道産子の僕は、特に8月末に対する特別な感慨はなく育った。しかし、今勤めている会社は2月末決算のため、8月は上期の終わりにあたる。

期が変わるタイミングではさまざまな変化が訪れる。人事異動もあれば、組織の改正もある。

当業界は非常に厳しい営業活動を強いられている。件の疫病と紛争と為替の影響もあるが、それに限らず、根底には経費構造や労務構成などの慢性的な原因があっての厳しさ。これをなんとかせねばと、漕ぎ出したのが構造改革である。

 

日本人の特性なのだろうか、改めることを好む。古くは大化の改新がそうだろう。時代が下っても、江戸時代には三大改革と言われる、享保・寛政・天保の改革がある。内閣は改造されるし、憲法は改正するかしないか議論になる。成功失敗は様々あるだろうが、事業や政治の行き詰まりを「改め」で乗り越えてきた歴史が、日本にはあるように思う。諸外国のことは知らん。

 

そういうわけでこの度、弊社もさまざまなものを改める。ゴールは利益を生みやすい経営体質にすること。要するに、売上を伸ばせ、経費を抑えろという話だ。シンプル極まりない。構造改革構造改革と言葉は踊るものの、どの企業も当然のごとく取り組み、弊社もこれまで取り組み続けてきた「利潤の追求」に対して、「構造改革」の名前をぶつけることにより特別感がでているに過ぎず、別に目指すところの要件の定義が変わったわけではない。資本主義における普遍の目的に本気で取り組む、すなわち改革。

さまざまなアプローチがあったが、今回大きく変えるのは仕事の配分、仕事のやり方、組織の形、人の配置の3点とした。

既存の仕事を因数分解し、重複している仕事を括り出す。括った仕事を集中して行う部署を立ち上げ、パッケージにして効率化したうえで、他の仕事ももらえるだけもらって集約する。因数分解の中で、取引先にお願いできそうな仕事はできる範囲でお願いしていく。やめるものはやめる。あの手この手で少しずつ効率化した仕事の分だけ、人員を効率化させていく。あとは気合いで営業をかけるのみである。

これらの改革の結果、15%の職員が転出することとなった。縦割りを横割りに変えるのはこの手の改革の常套手段のようにも思うが、それだけで15%も効率化できるのかといえば、なんとも言えない。15%のうち10%は気合いだったりする。バファリンの半分は優しさできているように、改革の7割は気合いでできている。

 

僕はこの話の立ち上がり当初から参加しており、主に部署立ち上げに携わった。何をする部署とするか、何人必要か、どの程度の業務が担えて、どれだけ効率化できるか。3月からシコシコと机の上で進めた仕事が、8月に入ると日毎に現実味を帯び始めた。およそ60名の職員と共に、いよいよ明日から船出となる。人の顔が見えなかった頃は、相当ファジーな組み立てをしていたのだが、メンバーが決まり出すとそうも言っていられなくなった。さまざまな事情の職員がいる。モチベーションを抱く場所も、家庭状況も、体調も異なる職員いる。仕事内容が詰まりきっていないことが多かったり、新部署ではたらているビジョンも見えづらいためか、皆の不安が痛いほど伝わってくる。その不安の3割くらいは僕がもう少し気合い入れて仕事してこなかったことにある。まじで申し訳なく思う。

構造改革の議論の過程ではさまざまなことがあった。しかし、今この土壇場で何を思うかといえば、職員みんなが不安なく元気に働けたらいい、ただこれだけしかない。

再三だが、構造改革の本質はみんな元気に働くではない。筋肉質な経営体質への転換である。だが、ボウリングのスパットのように、みんなが元気に働くことを目掛けて走っていったら、結果ストライクが取れるような気がしている。

企業の筋肉と血液は人だ。一つ一つの繊維や細胞が元気な生命は必ず元気だし、逆もまた然り。利害が合わないことも話が食い違うこともあろうが、とにかくしばらくは現場に出て、一つ一つ向き合って解決していきたいと思う。時間はかかるが、それしかできないし、それ以外に一致団結していく術はない。

 

ここからが本番だ。負けずに頑張る。

自宅隔離をやってみての感想文

8月13日土曜日の夜、妻が発熱した。

互いに仕事帰り、テレビ見ながらゴロゴロとくつろいでいるリビングに鳴り響いた体温計の音はすなわち、開幕のブザーだった。思い返すと金曜日、なんか喉がイガイガする…気がする…と、ささやかな違和感を妻は食卓で話していた。僕もまあ大丈夫だろと正常性バイアス全開の認知をぶちかましていたのも束の間、緊張感を溢るる場面が幕を開けた。

台風が行き過ぎたばかりの東京は21時。しかも時期はお盆。医療機関は軒並み夏季休業だ。ご先祖さんもとんだ冥土からの土産をもってきてくれたものである。休日診療してくれそうな最寄りの医療機関は簡易キットの抗原検査の結果がないと診療してくれないというから、近所のドラッグストアに突撃するものの台風影響で早期に閉店していた。事態はそううまく進まないものだ。

翌朝、なりふり構わずドラッグストアを三件回り、やっとこ手に入れた簡易抗原検査キットにて妻の陽性は確認された。しかし重要なのは医療機関への受診である。例の最寄り医療機関に改めて電話するも、「簡易で陽性ならほぼ陽性なので保健所に電話してね!」と、つれない返答が返ってきた。医療機関の意味!薬は!?診療は!?と夫婦で憤った。この憤りからなのか、シンプルにコロナの影響なのか、妻の熱はグイグイ上がり、39℃付近をうろちょろしだしていた。

すったもんだはあったものの、多少遠方の病院に無事受診、医療用抗原検査でしっかり陽性を確認し、薬をもらい、妻は療養に入った。

 

それから1週間が経つ。

幸い、妻の熱は月曜日の夜には下がった。薬すごい。熱は下がれど、病院から言い渡された10日間の隔離生活は続く。一方の僕はといえば、なぜか発熱をせず、医療用抗原検査でも陰性を確認できている。リモートワークができる職種であったがため、仕事もそう大きな穴を開けることなくなんとかなっている。

まだまだどうなるかはわからない。隔離生活もあともう少しというところだが、今のところは共倒れにならずにすんでいる。

 

これをもって、僕らの家庭が自宅隔離に成功したと言えるのだろうか。

家庭内で一人感染者が出たとき、家庭の目的はこれ以上の感染者を出さないことに定まる。マクロの視点では、感染者が増えれば増えるほど医療は逼迫と経済の停滞が輪にかけて進む。これを食い止めることが重要であるから、感染者を抑え込もうとする。なーんて、そんなご立派な話以前に、ミクロの視点でも、シンプルに苦しい思いはしたくない。罹患したくない。じゃあどうするか、といえば、自宅隔離である。今までわかっているウイルスの性質からして、隔離は一定の効果があるとされているため、僕らは隔離に躍起になる。

だが、隔離をやってみて思う。あまりにも変数が多すぎて何が奏功しているかわからない。

例えば、発症前の行動はコントロールできない。発症の2日前から感染力をもつらしいことがわかっているが、妻発症の2日前なんて、一緒に飯は食うわ隣で寝るわの濃厚接触パラダイスである。この時点でなぜ僕が感染しなかったのかは全くもってわからない。

発症後であっても、居室を分ける、寝室を分ける、食事を分ける、食器を分ける、マスクを常につける、触ったところは軒並みアルコールで拭く、など厚労省お墨付きの対策をやれるだけやったが、あまりにも色々なことをやりすぎて、この中のどれが効果的であったのかも一切不明だ。

さらには、僕の免疫や抗体、妻が保菌していたウイルスの感染力の強弱まで踏まえると、「なぜ感染していないのか」の答えは「わからない」でしかない。全くもって隔離がうまくいった感じはない。ダメな時はダメ、うまくいったらラッキー。パチンコのようなものと悟った。

 

では自宅隔離生活はどうかと言えば、端的に大変である。収斂すると、ひとえに家事だ。感染や接触に気を遣いながらの家事。これが大変だった。翻って、育児をしながら働く人や、介護をしながら働く人の大変さが、ほんの少し、実体験を伴って理解できたように思う。

朝起きて、手を洗って、身支度して、手を洗って、ご飯を作って、手を洗って、妻に出して、手を洗って、自分も食べて、洗い物をして、手を洗って、洗濯を回して、手を洗っているうちに始業時間となり、仕事をする。休憩時間になったら手を洗って、昼ごはんを作って、妻に出して、手を洗って、自分も食べて、手を洗って、洗濯物を干して、手を洗って、洗い物をして、手を洗っているうちに休憩が終わる。終業時間まで仕事をしたら18時半ごろ。手を洗って、夜ご飯を作って妻に出して、手を洗って、自分も食べて、手を洗って、洗濯物畳んで、手を洗って、洗い物をして、手を洗って、気がつけば1日が終わる。(まじであらゆる動作の前後に手洗いしている。気になってしまう。)

リモートワークができていて、なお、この状態である。肉体の移動がある場合にはどうすればいいのだろうか。そしてこれが育児や介護であれば、年単位で続いていくのだ。めちゃ大変。

さらに妻は妻で、家事のウエイトが夫に寄っているのを心苦しく思ってしまう。夫が忙しなく家事をしているのを見て、病気になってごめんね、という気持ちになってしまう。病気になった妻が悪いのではない。生活をしていれば一定確率で罹患するものなのだ。誰一人悪い人はいない。病気がそこにあった。ただそれだけの話。と妻に言い伝えるも、僕は僕で忙しなく生活と仕事をしているものだから、だんだんと優しくなれなくなってくる。人間の感情は脆いものだ。

総合的にみて、実務の大変さやお互いの精神衛生の観点からも、できればもう自宅隔離したくない。一刻も早く、妻と一緒に食卓を囲みたい。妻を自由に動き回せてやりたい。この一心である。

 

巷では、新型コロナウイルス感染症法上の位置付けを5類相当まで引き下げる話が議論されている。何を目的に変えるのか、何がどう変わるのか、その時に何が起きるのか、考えてみようと思ったが厚労省のページから考えるに足る情報を見つけ出すことができずに終わった。全員がハッピーになる判断や決定なんてあり得ないのだから、国益が叶う方向に突き進んでいけばそれでいいし、それに従って僕は僕として、生活なり仕事なりをアレンジしてきたい。

以上、雑多な感想文でした。

手術をしました〜ついに縛られた精索静脈瘤〜

5月27日、午前9時。僕は有楽町を歩いていた。酷い雨である。昼過ぎには上がる予報と聞いた。かの有名な桶狭間の戦いにて、織田信長は雨後の間隙をつき、今川義元を討ち取った。この雨が上がるころ、静脈瘤を無事討ち取ることができるのだろうか。タマに手を加える自分と、クビを手にかける信長をダブらせた。

 

精索静脈瘤により、キンタマがso hot、精子がtoo poorな感じになっていたことは前回話した。今回も結論から言おう。手に入れたものはよく冷えたキンタマ、失ったものは切開部位付近の陰毛。そう、手術は無事成功したのだった。

 

僕が受けた手術は、顕微鏡下精索静脈瘤低位結紮術という。

左の玉袋の少し上あたりを2,3センチ切開する。そこから、"精索"なる、タマから伸びている管を引き摺り出す。精索は、動脈・静脈・リンパ管などがまとまってできている管だ。この中から、静脈瘤と化した太い静脈のみを選んで結紮する。つまり、縛るのである。血管は末端に行けばいくほど細くなる。タマに近づけば近づくほど細かい作業が求められるため、顕微鏡下にて、熟達した技術を持って結紮するのだ。

低侵襲のため局所麻酔下の手術、日帰り可能、再発可能性は1%未満という、患者からはメリットだらけの手術だが、技術を持った医師が少ないのが難点である。

執刀医は、過日、大学病院で診察を受けた医師だった。40代前半ほどの若い医師なのだが、男性不妊界でゴリゴリと仕事をしてきた経歴をもつ。受け答えも人間味があり、信頼のおける医師だと感じた。

 

診察室に通された。

まず、手術着を着るように言われる。衣服を全て脱ぎ、手術着を着る。頭には不織布でできたキャップを被る。絵に描いたような患者ルック爆誕である。着替え終わると、執刀医が診察室に来て、簡単な健診を行う。術前に実施した血液検査の結果を見るに、手術に一切の問題がないことを伝えられた。そうして、いざ、桶狭間である。「緊張される方が多いので」と、精神安定剤のような錠剤を渡され、服んだ。何しろ局所麻酔なのだ。痛みも感覚もなくなるにしろ、正気のままtop of the デリケートゾーンをいじられると具合悪くなる人がいるのもわかる。しかしこちとらノーパン手術着おじさんである。具合悪くなろうが泣こうが喚こうが後には引けない。看護師二人に付き添われながら、腹を括って手術室に乗り込んだ。

手術室は、医療ものドラマで見る手術室そのものであった。日帰りだろうがなんだろうが手術には変わりないようだ。情け容赦ないいでたちの手術台が中央に鎮座した、純白の空間が広がる。手術台に乗るように言われる。横になるなり、血圧測定やら脈拍測定やらさまざまなデバイスを身体に接続され、バイタル関係が問題ないと確認するや否やあれよあれよと言う間にズボンをずり下ろされ、Hello World, it’s my son.

 

剃毛をしますねー

執刀医がバリカンを持ってやってきた。陰毛、放っておいていいと言われたので自由に伸ばしていたのだが、そりゃ手術には邪魔だ。残しておく道理はない。

慈悲の一つもなく、必要な部位だけ刈り込まれる陰毛。最近は脱毛が流行っているようだが、僕は脱毛したことがない。剪定をした覚えもないため、僕の陰毛の先端は第二次性徴期の記憶を残しているに違いなかった。地層が地球の歴史を教えてくれるように、数百億光年向こうの光が宇宙の始まりを教えてくれるように、陰毛は僕の成長そのものだった。が、しかしここであえなくcut outである。歴史的な価値は特になかったようだ。残念。しかも手術に必要な部位のみ刈り取ったものだから、my sonの正面上部の毛はツルツルなのに対してサイドの毛はいつも通りの蓄えを保ったまま。紛うことなき落武者のヘアスタイルである。今川義元の気持ちが少しだけ分かった気がした。

剃毛が終わり、my sonのちょい左のあたりにブロック注射を打ち込む。痛いですか?これは?と二、三ヶ所プニプニと突かれる間に痛みを感じなくなった。オペの開始だ。切開部分から精索を引っ張り出す際だけ違和感を覚えたが、その他、終始全くの無痛であった。

1時間半の手術の間、世間話をした。

執刀医とサポートの医師が1名、看護師が1名。執刀医とサポートの医師は、よく育った僕の静脈を縛り上げるのに集中をしていたが、看護師は要所要所で機材を用意する以外に特段の仕事はないようであった。看護師の彼女は、術前採血を担当してくれた方だ。折々のコミュニケーションから、僕がよく話す性質を持っていることを感じとっていたのだろう。頻繁に話を振ってくれた。気を散らす意味もあったように思う。誘導されるがままに、仕事の話や、子供の頃の話、妻との出会いの話などを快活に話すのはフルチンの男。手術台の上でなければただの変態紳士である。手術台はなんだって許容してくれる。まるで母なる海のように。

 

おしゃべりの間に、静脈瘤は縛り上げられた。1週間は激しい運動と飲酒を控えるように言われ、帰路に着いた。僕のキンタマを十数年温め続け、精液スコアを赤点に叩き落としていた諸悪の根源は、1時間半の手術の末に断たれたのだった。あっけないものだった。

外はまだ雨が降っていた。気圧のせいか、精神安定剤の効きが遅かったせいか、頭に靄がかかったように感じながらの家路。昼食を食べ、眠った。麻酔が切れてからは当たり前のように傷口の痛みに悩まされたが、ロキソニンが全てを解決してくれた。副反応から手術まで、痛みに対する解決のレンジが広すぎる。万能薬か。

 

明らかな変化を感じたのは術後2日ほど経った後である。キンタマの表面温度が下がってきたのだ。これは、ちんちんが教えてくれた。生まれてこの方、夫婦の如くキンタマに寄り添い続けてきたちんちん。彼が僕に語りかけてきたのだ。キンタマが冷たい、キンタマが冷たいと。

精液所見が悪かったから静脈瘤が発覚したものの、これまで一切の自覚がなかった。きんたまが暖かいから精液所見が悪い理屈は理解するが、果たして自分のキンタマが暖かいのか冷たいかが把握できている成人男性がどれだけいるだろうか。比較対象も、客観的視点も欠如して然るべき箇所である。しかし、ちんちんは素直だった。キンタマの血流を敏感に察知した。体感としても、快方に向かっているのが感じられたのはよかった。同時に、キンタマにすまない気持ちでいっぱいになった。何ひとつ知らぬ間に、苦しい思いをさせていた。危うくデッドボールになるところだった。どうかこれからは元気いっぱい、のびのび、思う存分精子を生み出して欲しいと、キンタマの主としては思う。

 

 

そういうわけで、精索静脈瘤による一連の騒動であった。

人生、いろいろなことが起こった方が面白いものである。苦しまなくていいことなら苦しみたくないし、痛い思いはできる限りしたくないが、否応無しに痛み苦しみ悩みは目の前にやってくる。それこそが人生の醍醐味だろうし、それこそまるで静脈のように錯綜する紆余曲折を振り返って飲む酒は、美味しいものだ。

この手術の結果がどこに行き着こうとも、それが人生。

3ヶ月後に再度精液をローンチの上、検査を行う。頑張れ、俺のキンタマ

手術をします〜僕のキンタマと精索静脈瘤〜

これから僕が綴る話はさして綺麗な話ではない。しかし、僕の身体に今まさに起こっている事実である。綺麗や汚い、上や下のような二元論では語りえない事実。それに相対する当事者としての感受を綴りたい。冗長な話が多いかと思う。どうか許してほしい。

 

結婚して一年が経つ。早いものだ。新居に越してきた頃に咲いた桜がまた咲いた。ツツジの季節もすぎ、今は紫陽花が漏斗のような葉を伸ばし、その足の付け根あたりに小さな花弁たちが顔を覗かせている。重低音のようにコロナ禍が横たわる世情において、色づく街は殊に華やかに見える。昨年に比して自粛を強いる圧力もいくぶん減退しており、花見の季節には色とりどりのレジャーシートが地面を彩った。

2度目の季節を眺む僕ら夫婦の生活は、簡潔にいうと、とても楽しいものである。件の重低音にかき消され、結婚式や披露宴、新婚旅行のような婚礼にまつわるエトセトラを行うことはできていないが、浮かんでは消える日常のやりとり一つひとつに珠玉の楽しさを感じている。例えば、学生の非常に狭い特定のコミュニティでしか通じない挙動や言葉があるように、夫婦の間でしか通じない挙動や言葉がこの一年で増えた。閉ざされたコミュニティで煮詰まるコミュニケーションほど面白いことはない。日々の楽しみの相当量を妻と話すことが占めているように思う。幸せなことだ。

 

婚礼にまつわるエトセトラができないまでも、夫婦にまつわるエトセトラは世間一般の夫婦がするように、エトセトラしていた。ネズミやサルのころから連綿と繋いできた遺伝子のバトンだ。いち生物として、バトンをもらったからには次に渡したい気も、人並みにある。そういうわけで、頻度や形態は他所の夫婦と比べてどうかは不明なものの、日常生活の一部分としてエトセトラは組み込まれていた。うまくいったら御の字、焦ることもないだろう。それくらいのスタンスである。

そうこうする間に一年が経った。特に狙い澄ましてスナイプしているわけではないにしろ、音も沙汰もない。ぼちぼち本気で結果にコミットしてみるかと、信頼のおける医療機関にてコンディションチェックを実施したのだった。

そう、精液検査である。

 

一度話を脱線させたい。僕の体格、生育の話をする。

北海道で自営業を営む家庭に生まれ育った。先祖代々から受け取った遺伝子と、十分な栄養と睡眠のハーモニーが功を奏したのか、文にしろ武にしろ、そこそこな総合力を有するに至った。背の順はほぼ1番後ろ、体力テストは大体オール10点、勉強は進学した先々で上位30%くらいの位置をうろちょろした。いくつかの趣味にも恵まれた。上には上がいるのは百も承知だが、両親や伯父伯母、親族一同に育んでもらった能力や性格に大きな不満はない。当然、齢29を数えるに至るまでにはいくつかの挫折と、苦労があった。今は上場企業の総務をしている。悩みごとが頭を離れることは少ない。諸々の苦労もすべて込み込みで、まあそう悪くはない人生だと感じている。

 

話を戻そう。結論から、ざっくりと言う。

100点満点で、僕の精液は15点であった。80点が合格点だという。立派な赤点である。

元気な精子が、力強く、素早く運動するのが合格点の精液だが、呆けた精子が、弱々しく、のんびりと動いているのが、僕の遺伝子を分けた愛すべき精子である。遺伝子の排出元は体力テストでぶいぶい言わせてきたのに。遺伝子のメッセンジャーは精液の海を鈍くぷるぷるしていた。

 

家から歩いて10分ほどの婦人科で受検した。妻の通う病院である。出したてほやほやの精液を指定のビーカーに入れて持ってこいとのことだったので、気合い入れてローンチした精液を小脇に抱えて歩く大通り。如何ともし難い背徳感が後頭部のあたりを撫ぜた。

婦人科に着き、受付でビーカーを渡すと、10分ほどで結果が出るとのことであった。受付にて適当に時間を潰す。診察室に呼ばれ、扉を開けるとおじいちゃんと言っていい年齢の医師がいた。僕が診察室の腰掛けて早々、医師が口を開く。

「疲れとか体調によって精液の状態というのは良くも悪くもなりますし、今回の結果が通常の精液の状態であると言い切ることもできませんが…」

およそ8年も前になるが、新入社員研修でビジネスマナーを学ぶ機会があったやに記憶している。その際、さまざまな場合でクッション言葉が重要になることを知った。

「差し支えなければ」「お手数をおかけいたしますが」「大変恐縮ですが」

物事を柔らかく伝えるためのまどろっこしさ。伝えづらいことを伝える前のクッション。老医師が発したのは枕詞よろしく猛烈なクッション言葉であり、これを聞いた時点で僕は自らの精子の有様を悟ったのであった。

15点の精子の様子に続いて、婦人科では専門的な知見は持ち得ないことと、男性不妊の原因となる疾患が潜む可能性があること、専門の病院があるから受診を勧めることも併せて伝えられた。気合い入れて精液をローンチしたあの時点で、はたして誰が僕の体に病理が潜むだなんて想像したろうか。見えないものを見ようとして望遠鏡を覗いたら病理が見えたようなものだ。精子の状況からしてもザーメン of chickenって感じである。

 

検査結果を受け、病院を出る。街を見渡すと、世界が変わってみえた。

何しろ、世の中の"お父さん"になりえた人たちはおおむね精子が元気なのである。背が高かろうが低かろうが、体力テストが10点だろうが5点だろうが、算数が得意だろうが苦手だろうが、健康診断で引っ掛かろうが引っ掛からまいが関係ない。「精子が元気」という一点において、僕は、全国津々浦々にいる"お父さん"の後塵を拝している。

謙虚さが芽生えた。傲慢になっていた己に気がついた。

表層に発現している能力や見てくれなど、人のごくわずかな側面でしかない。これまで測ってきた能力が人よりちょっとよかったからなんだ。命のバトンを繋ぐ能力、生殖。これこそ、生命の本質だ。じゃあ僕はなんだ、僕の生殖は、僕の精子は、、、

 

さておき、問題は精子であり、精液であり、要するにキンタマだ。キンタマに赤点の原因が潜んでいる。事実を正しく認識した上で、目的に対してクリティカルな判断を素早く実施してアクションを起こすのが何においても重要である。

ここで運のいいことに、僕にはかかりつけの泌尿器科があった。

男性諸君、泌尿器科をかかりつけにしたことがあろうか。50代や60代のシニア層に膝下まで使った諸君であればあるかもしれない。しかし20代の諸君はほぼ経験がないのではないか。僕は22歳の頃、慢性前立腺炎と診断されたことから、引越す先引っ越す先で、かかりつけの泌尿器科を設定するカルマを背負って生きている。慢性前立腺炎に罹患した最初のきっかけは、”クッションのないフローリングに地べたで座りながら日がなギターを弾いていた(作曲していた)こと”という、なんともクリエイティブな原因だった。あの日のクリエイティブは後生背負うこととなる大きなカルマを呼び寄せたが、精子を懸けたこの土壇場において丁度いい駆け込み寺となった。(今のままだと僕の精子ではクリエイティブができない。)

 

そういうわけで、かかりつけ泌尿器科にてキンタマにエコーを当ててよくよく調べたところ、僕は左のタマに精索静脈瘤を抱えていることがわかった。

精索静脈瘤とはなんたるか。

左のタマと右のタマ、似たようなものに見えるが、実は静脈が帰結する位置が異なる。右のタマはタマの近くの大静脈に帰結するが、左のタマは腎臓近くの静脈に帰結する。要するに、左のタマの静脈が右に比して長く伸びているということだ。静脈は動脈と違い、血がゆっくり進む。血管には弁がついており、血液が逆流しない仕組みになっているため、これが正常に作動していれば一切の問題はない。しかし僕の左のタマ静脈においては弁がうまく働かず、腎臓までの距離に負け、血液が滞り、血管が太くなってしまっていた。さらには血が滞ったり逆流することによりタマの周りの温度が上がる。健康な精子を作るためには33℃程度の涼しい環境出なければならない(だからタマは体外にぶら下がっているんだと思う)のだが、静脈瘤のために体温と変わらない温度になってしまう。熱に弱いタマは、途端に活動が鈍り、元気な精子を作れなくなる。さらに悪いことに、左のタマの右のタマは隣接している。左のタマにこもった熱は右のタマにも伝播する。結局、左右双方のタマが蒸し風呂となり、僕の精子はぷるぷると呆けるに至ったのだった。

 

進行度合いは最も進んでいるグレード3。瘤のの太さからして、どうやら10年以上静脈瘤と付き合ってきた可能性すらあるらしい。中学生、高校生の頃から無意識に精子を茹立たせていたというのだからタマには申し訳ない気持ちになる。タマったもんじゃないね。なんつって。

進行程度がそこそこであるため、根治するには専門的な治療、手術が必要であった。かかりつけ医は大学病院への紹介状を認め、僕に渡した。

そうして、僕は大学病院を受診し、ついに明後日、掲題の手術を受けることになった。下腹部をほんの少し切開し、タマの付近の静脈瘤の箇所を縛って逆流を止める手術である。

先述の通り、症状としては結構進んでいるらしい。執刀医がいうには、正常なタマの機能を取り戻せるかどうかはわからないという。ただ、やらないよりやった方がいい、やるならより早い方がいい。最善を尽くす以外の道は今やないのだから。

 

 

長々と書いた。

自然に交わり、自然に生まれてくる命がある中で、キンタマに手を入れなければいけない性質を持っていることを、正直なところとても面白く思う。先述の通り、体躯はどこから見ても人並み以上に健康なのだ。なぜにそこだけ、なぜにそこを選んで弱いのか。生命の逞しさと生殖の乏しさ。このギャップである。可愛げすらあろう。

僕が行うのは男性不妊の手術であり、これが治ったとしても一般男性が立っているステージに登ったにすぎない。それで子供ができるできないは次の話となるし、いわゆる"妊活"がここから始まるわけだ。とかく、女性にウエイトがかかりがちな妊娠出産において、先陣を切って生殖機能改善手術臨めることは、夫婦共闘体制を敷く意味においてもよかった。

 

タマが元気になってくるのはおよそ2ヶ月後だという。

暑い夏、僕のキンタマはかつてないほどの涼しさを取り戻しているかもしれない。そう信じて、明後日を迎える。

「思ってて」おじさん

「思ってて」おじさんと勝手に呼称している人々がいる。おじさんとしているのは僕の周りにおじさんが多いからである。他意はない。

「思ってて」おじさんは語尾に「思ってて」を多用する。そのため「思ってて」おじさんである。「思ってて」で文節を切る話法を多用するのが特徴だ。正式に記載すると「思ってて。」である。「思ってて、そして、」とは続かない。「思ってて」で対話者に会話のバトンをパスしようとする。「思ってて」における「て」は接続詞だ。接続しないと「て」の役割は十分ではない。それでも会話のバトンを押し付けてくる。かつて僕は「思ってて」おじさんのバトンパスに気づかないことがしばしばあった。彼らの「思ってて」の後にブランクが空いてしまい、今どっちが話すべきターンかわからない数秒を過ごしたりした。しかし、「思ってて」おじさんの存在を完全に認知してからは、「今の思ってては僕にバトンを渡している思っててだな。」と「思ってて」を理解するようになった。「思ってて」おじさんへ寄り添うようになった。

「思ってて」が登場する話題としては、「思ってて」おじさんが重要視している理念のこともあれば、個別仕事のやり取りの中の事象であることもある。要するにどんな話題にでも、会議の場でも日常会話でも、「思ってて」が顔を出す。「本件は一旦ペンディングにするのがいいと思ってて。」の場合もあれば「今日の夕飯はチャーハンがいいと思ってて。」の場合もある。「思ってて」おじさんが思ってることは全て「思ってて」である。当然だ。

さらに「思ってて」おじさんは頭がよさそうな場合が非常に多い。語弊のないように言いたいのだが、頭がいい悪いなど、単一の尺度で測れたものではない。だから本当のところがどうなのかは一切合切闇の中だ。だが、少なくとも話を受け取る側としては頭がよさそうな語調で「思ってて」を食らっている感覚がある。頭がよさそうな語調で「思ってて」をキャッチアップするものだから、「思ってて」おじさんが思ってることはめちゃくちゃ正しそうに聞こえる。「今日の夕飯はチャーハンがいいと思ってて。」の場合も、火急的に今日の夕飯はチャーハンにする必要があるようにすら感じてしまう。

でも、「思ってて」おじさんはただ思っているだけだ。だからどうとは言わない。

例えば業務におけるメールを送信する際に。「思ってて」と記載したらどうだろう。誰が動くだろうか。誰も動かないだろう。誰も人の思ってることなんて興味はない。必要なのは数字と指示と、組織がなんて言っているかだ。仮に組織の代表の発言としても、「思ってて」はいらない。断定しろ。「思ってて、だからどうする」を言え。断定できないなら発言するな。断定できるまで考え抜け、断定できない場合は検討するとか熟慮するとかとしろ、具体的な組織の行動として伝えろ、お前の思考の戸惑いや逡巡など求めていない。と、思ってて。

 

勢いで色々書いたが、違和感は二つ。

「思ってて」で文を終了せしめんとする日本語への違和感と、お前の思ってることなぞ聞いちゃいないのになぜ思いを伝えたがるかという違和感だ。

だからどうという話ではない。攻撃をする意図もない。ただこの違和感、気持ちの悪さ、居心地の悪さを吐き出さずにはいられなかった。花粉症のように、「思ってて」おじさんへの抗体が作成されてしまった結果のアレルギー反応だ。

別に思う分にはそれでいい。言うだけならタダ、思うだけもタダだ。