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徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

ブログで稼ぐという月面宙返り

ブログ飯なんて言葉が出てしばらく経つ。ブログで稼ぐ人は確かに一定数いて、昼夜面白い記事を量産したりしている。

拝読させていただいているブログの中で、きっと稼げているであろうブログを種類分けすると、簡単に3パターンに分けられる。役立ちブログ(アフィリエイト込み)と文才ブログとプロップスブログである。

構造は簡単で、世の中の便利情報を面白おかしくわかりやすく伝えているブログ群が一つ、日常のなんでもないことを圧倒的な筆圧で尖らせて世に放つブログ群が一つ。それらの群の中でレジェンド的な活躍を見せたブログ群が一つ。

いわゆる文才ブログをやっている人が認める文章の勢いたるやすごい。そりゃ書籍化できるよねって思う。鍛錬の成果なのか、マジでキーボードをぶっ叩きまくる才能に恵まれたのかはわからないが、自分の持ちうる言葉数と文の展開の仕方との隔たりがあまりに著しいものだから、興味がわく。興味しか湧かない。

対して、秀才タイプと言ってもいいであろう役立ちブログをやっている人もまたすごい。書籍化っていうか、論文書けばいいじゃんって思う。理路整然と自然な展開で世界を説明してくれていたり、商人よろしくAmazonを貼りまくったり、大衆の流れを掴んでいる。どんなに背伸びしたってそこまで趨勢を読み取れない。やっぱすごい。

労働を通してお金を稼ぐ大変さを知るのはよくある話だ。だが、ブログでお金稼ぎしている人たちを見ると、別の角度からお金稼ぎって大変だなと感じる。ぶっちぎりに文字を書く能力か、ぶっちぎりの分析と理路整然力。どちらかがないと全く話にならない。どちらにせよ異次元の所業だ。

とりあえず僕はお金稼ぎよりも台所の食器を片付けなければならない。目を逸らすな。

喩え話貧者

日常会話を面白くするための方程式っていうのが多分存在していて、その中の一つに個別の事象を一般化する(喩える)ことがある。

テトリスで喩えるならば

不意にタイミングよく、待っていたものが来た時に、「テトリスの長い棒が来た」という一般化をしたり、全く美味しくなくて誰にも見向きもされない料理を「テトリスの奇抜な形したやつ」と一般化したりする。

誰もがなんとなくわかるレベルの喩え話であれば、そこそこな民意を得られる。上手いこと要領を押さえて喩えられた場合には、元ネタを喋った方にも話をわかってもらえている感覚を与えられる。喩えられてみた時にこれは痛感する。

喩え稼業をせっせとこなす日々だ。コミュニケーションの本質をずらしながら誤魔化す、のらりくらりの喩え稼業。こればっかりやってると、なんとも自分の引き出しが枯渇していく感覚がわかる。同じシチュエーションで出てくる喩えがワンパターンで、前にも似たようなこと話したなぁと思いながら話す。すると、自分が面白いこと言っている確証が持てないから勢いが出ない。結果、面白くない。

別にダウンタウンが好きなのではないけれど、松本人志はものすごく喩えがうまいに違いない。ネットニュースとかでたまに流れてくる松本人志の全盛期(何を持っての全盛期かは知らない)の名言集的なそれを見ると、なるほどキレキレなのが一目瞭然だ。ノックアウトされた曙太郎を小籠包みたいと喩えたのは本当にすごいと思う。

つまるところ、瞬間的に過去の経験の引き出しを開けることができるやつが例え話がうまい。ある刺激に対して、この引き出しが似てる!って瞬時に開ける力。現状僕は、著しく引き出しの数が不足している。開け古した引き出しが並んだマイチェストにはなんの魅力もない。

何かとアウトプットばっかりしたがる性分が良くないのだろう。曲作りたいし文章書きたいけど、大した曲も聞かないし本も読まないから含蓄のないどんぐりばかりが並ぶ。引き出しは増えないままである。結局アマゾンプライムでも大して映画見ないままだ。

次の休日にでも、引き出し増やしにでも動こうか。

夏と歌と電車

高度成長に沸いていた頃、岡林信康がフォークの神様と呼ばれていた。山谷ブルース。名前だけしか知らないその曲は、タイトルからしてワーキングクラスの悲哀を歌っているに違いない。チューリップのアップリケなんて歌もあった。まだ少年の頃に両親と見ていたテレビで流れていた。酷く暗い曲だったことだけ記憶にある。

空前の好景気、のちのバブルにつながる坂道を登り続けていた頃の日本を彩ったのは、明るいとは言えないフォークソングだった。

天使にラブソングを」という映画をご存知の方も多いだろう。通っていた中学校の音楽教師が好きな映画だった。授業中に観たのを覚えている。ゴスペルの映画だ。アメリカのハイスクールのゴスペル部の顛末を描いていたはずである。劇中でゴスペルの出自に触れており、黒人が弾圧されていた頃に作り上げられた音楽であることを学んだ。

誹謗と中傷の礫をぶつけられながら生み出した音楽は、えらく明るい人生賛歌だった。

歌は世につれ世は歌につれ。世情に沿ったり反発したりして歌は世を映す。好景気の裏側、光化学スモッグに煙った日々を鬱々と綴ったり、苦しみの雲間から一筋の光が入ることを求めて明るい歌を唄う。

時代を見るといつも不安定で、不断の成長を求めてバランスを崩しながら進んでいく。シワが寄るところと引っ張られて千切れるところが生まれ、シワのたわみと千切れた隙間に歌が滑り込む。時代にしか生きられない僕たちの心を満たして行く。


今日はよく晴れている。夏日で、暑いが村雨を呼ぶほどの暑さではない。シャツ一枚でちょうどいい。通常の7掛けくらいの仕事で抑えて回る。心配と不安は尽きないが、太陽に当たっていると除菌殺菌をしてくれるようで、すーっと平穏な心持ちになるのがわかる。

こんな時に素晴らしい曲でも書けたらと思ったのだが、安定してしまった心からは何も生まれなかった。水は高きより低きに流れる。平地に流れは生まれない。納得である。

西日が差す電車はまだ帰宅戦士たちに埋め尽くされずにいる。ほんの気持ちだけ早く帰れた喜びを分かつ訳でもなく、一定間隔を開けて人は立つ。耳元にはイヤホン。今日一日の隙間を満たす曲がきっと流れている。

穏やかに電車に揺られて、気付けば、日が暮れていた。