徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

「思ってて」おじさん

「思ってて」おじさんと勝手に呼称している人々がいる。おじさんとしているのは僕の周りにおじさんが多いからである。他意はない。

「思ってて」おじさんは語尾に「思ってて」を多用する。そのため「思ってて」おじさんである。「思ってて」で文節を切る話法を多用するのが特徴だ。正式に記載すると「思ってて。」である。「思ってて、そして、」とは続かない。「思ってて」で対話者に会話のバトンをパスしようとする。「思ってて」における「て」は接続詞だ。接続しないと「て」の役割は十分ではない。それでも会話のバトンを押し付けてくる。かつて僕は「思ってて」おじさんのバトンパスに気づかないことがしばしばあった。彼らの「思ってて」の後にブランクが空いてしまい、今どっちが話すべきターンかわからない数秒を過ごしたりした。しかし、「思ってて」おじさんの存在を完全に認知してからは、「今の思ってては僕にバトンを渡している思っててだな。」と「思ってて」を理解するようになった。「思ってて」おじさんへ寄り添うようになった。

「思ってて」が登場する話題としては、「思ってて」おじさんが重要視している理念のこともあれば、個別仕事のやり取りの中の事象であることもある。要するにどんな話題にでも、会議の場でも日常会話でも、「思ってて」が顔を出す。「本件は一旦ペンディングにするのがいいと思ってて。」の場合もあれば「今日の夕飯はチャーハンがいいと思ってて。」の場合もある。「思ってて」おじさんが思ってることは全て「思ってて」である。当然だ。

さらに「思ってて」おじさんは頭がよさそうな場合が非常に多い。語弊のないように言いたいのだが、頭がいい悪いなど、単一の尺度で測れたものではない。だから本当のところがどうなのかは一切合切闇の中だ。だが、少なくとも話を受け取る側としては頭がよさそうな語調で「思ってて」を食らっている感覚がある。頭がよさそうな語調で「思ってて」をキャッチアップするものだから、「思ってて」おじさんが思ってることはめちゃくちゃ正しそうに聞こえる。「今日の夕飯はチャーハンがいいと思ってて。」の場合も、火急的に今日の夕飯はチャーハンにする必要があるようにすら感じてしまう。

でも、「思ってて」おじさんはただ思っているだけだ。だからどうとは言わない。

例えば業務におけるメールを送信する際に。「思ってて」と記載したらどうだろう。誰が動くだろうか。誰も動かないだろう。誰も人の思ってることなんて興味はない。必要なのは数字と指示と、組織がなんて言っているかだ。仮に組織の代表の発言としても、「思ってて」はいらない。断定しろ。「思ってて、だからどうする」を言え。断定できないなら発言するな。断定できるまで考え抜け、断定できない場合は検討するとか熟慮するとかとしろ、具体的な組織の行動として伝えろ、お前の思考の戸惑いや逡巡など求めていない。と、思ってて。

 

勢いで色々書いたが、違和感は二つ。

「思ってて」で文を終了せしめんとする日本語への違和感と、お前の思ってることなぞ聞いちゃいないのになぜ思いを伝えたがるかという違和感だ。

だからどうという話ではない。攻撃をする意図もない。ただこの違和感、気持ちの悪さ、居心地の悪さを吐き出さずにはいられなかった。花粉症のように、「思ってて」おじさんへの抗体が作成されてしまった結果のアレルギー反応だ。

別に思う分にはそれでいい。言うだけならタダ、思うだけもタダだ。

ガンダーライップス

社会に出た頃、情報を伝える際には5W1Hを抑えて話すといいと言われた。なぜいつ誰が何をどこでどのように。これは正確に情報を伝える上でも、正確に情報を受ける上でも大切なことだ。例えば、誰かに動いてもらいたい、何かを対応してもらいたいとした時、なぜいつ…まで全部噛み砕かないとたいていの人は動かない。というか、そもそもお願いをする側のお作法として、5W1Hを明確にして情報を伝え、対応をお願いする。しかし、それでも仕事が進まないことがままある。それはひとえに優先順位の話だ。当然、受け手の中にも仕事の順番がある。仕事の順番が後回しになった挙句なんとなく情報の賞味期限が切れ、結局、何も成果物ができないまま終わるみたいなパターンは社会あるあるだろう。仕事を蹴り出す側、依頼をする側の本気度次第で、結実するか否かが決まる。みんな忙しいのである。

 

会社の方針を決める人のそばで仕事をしていると、全体の方針だけはしますけど細かいところは事務方でよろしく!みたいな仕事が霰のように降ってくる。

ガンダーラは西にある。どうもインドにあるらしい。誰も皆行きたがるが遥かな世界。みんなでガンダーラを目指そう。では、具体的にいつ誰がどこでどのように関わってガンダーラまで辿り着くか全部調整してよろしく!という仕事だ。さらに難しいことに、ガンダーラを目指すパーティは千人ちょいの大所帯で、ロードマップを引いた上でいろんな利害関係を調整しながら進んでいかなければならない。まじで面倒of the面倒。

こういった仕事は、とにかく具体的に決めないと利害関係の調整にすら入れない。具体的に決める、すなわち、いつだれが…である。これは非常に鍛えられる。現状を確認して概念を切り分けて実務に落として日限決めてどのスピードでやるかを決めて各部署に配分していく。鍛えられはするものの、抽象的かつ無意味な世の中の仕組みとかをモヤモヤぼんやり考える能力に血が通わなくなり、萎んでいく。萎んでいっている。目下萎えである。

特に文章を書く行為はガンダーラに行く業務でも使用する。すると、文章を書くときに具体性を持ち得ないと文章を書けない状況に陥る。諸君は僕のブログの下書きを見たことがないだろうが、書ききれなかった文章が山のように転がっている。具体性を伴わなかったため、結論を用意できなかったために世に出すことができなかった代物たちだ。

これをガンダーライップスと呼ぼう。

 

とはいえ、実体験も踏まえるとこういったガンダーラに行く経路を詰めていく話は、鍛え方次第でなんぼでも鍛えられるんだろうし、社会にはこちら側の思考を鍛えることに特化している人が多いように思う。結論のない話や具体性のない、必要性のない思考を好む人は、少なくとも今自分が所属しているクラスタの中では少ない。ガンダーライップスをくぐり抜けた先に悟りが待っている気がしている。

愛の国、ガンダーラ

軽薄な夜と同期の話

感染症に行動を操られるようになってしばらく。ワクチンの効果とマスク着用の社会様式のダブルパンチが効いて疑似的な集団免疫を獲得したともいわれる眼下の感染者状況の中、首都圏にも軽薄な夜が戻ってきている。

例えば夜遅くの電車を眺めると、陽気な人が多い。それはさまざまな組み合わせで、直前の酒の席での関係性をほのかに匂わせている。多くは同僚であり、恋人であり、恋人でもない関係であり。軽薄な夜を楽しんだであろう雰囲気だ。

類に漏れず、誰にも知られることのないよう静かに、僕は飲みに出た。会社の同期の連中である。「同期仲」という言葉が、会社の中にはある。「あの年次は同期仲がいい」などという。同期仲は、わかったようでわからない。丸6年同期をやってきた同期は、2年目の同期とは違うだろうし、30年同期をやったそれとも全く違う。多様性が少し膨らむけれど、同じライフステージにいるようで、既婚と未婚では環境がまた異なり、子がいるとまた違う世界が広がる。6年目の同期とはそういうもののようだ。多様の入口に立っている。多様の門をとっくに通った人もいるが、通ってない人もいる。6年目の同期と生きる僕が感じる全てが、その真実だと思う。

仕事の話もだんだんしなくなる。互いの立場があり、互いの立場が異なる。利害も少なからず異なれば、互いの苦労話が互いをどんな気持ちにさせるかもわかるような、賢く気を使える人間ばかりだ。一方で、多様性の間に立つ僕らは、身の上話でわかりあうことができる。これは、いくつも歳をとったとしても、身体の不調のような普遍的な出来事に直面するであろうから、いつまでも続くものなのだろう。

学校が繋いだ縁が友達、趣味が繋いだ縁も友達。なぜか会社が繋いだ縁だけ、同期や同僚と名称が異なる。食い扶持を共にしている関係はやはり特別なのか。友達とは一括りにできない何かがあるのかもしれない。その何かは、形を変えながら、結局わかることがないまま年老いていく気がしている。

29歳になってひと月と少し

本年9月をもって29歳となった。十進法の世界で生きる僕たちにおいては、十の位が繰り上がることにやたら意味を見出しがちである。日本人初の9秒台、100打点、10勝ならず。そういう観点からは30にも満たない微妙な年齢なのだが、まぁ、どうあれ一つ歳をとった。

29歳は父が実父を亡くした歳でもあり、母が千葉から北海道に嫁ぐ決心をした歳でもある。29歳に重要なライフイベントが巡ってきている父と母であるが、私は28歳のうちに結婚をした。父と母は今のところ元気である。そのままであれ、一族郎党皆健康であれ、と願う日々だ。これは、コロナ禍においてはあながち冗談じゃなく。

 

すっかり秋も深まりつつある。

道東生まれの田舎者がついに山手線の内側に進出してきたことは以前記した通りだが、文京区は千石。非常に静かかつ自然豊かだ。これまで暮らした錦糸町や蒲田にはなかった落ち着きを感じている。

不忍通りと白山通り、大きな通りの交差するあたりに千石の駅があり、不忍通りを南東に進むと我が家に近づく。流石に大通りは車通りも激しく騒がしいのだが、一本道を入ると嘘のように静まり返る。閑静な住宅街だ。一軒家が立ち並ぶ街並み。東京での金銭感覚を把握したサラリーマンとしては、この辺りに一軒家を構えられる収入がある衆は果たして何を生業としているのか不思議に思う。そんな見方ができるようになった29歳、大人になってしまった。

街並みの中、集合住宅の廃屋が向かい合っている場所がある。駅から5分ちょっと。なんの利害があって次の宅地にならないのだろうか。双方ともに集合住宅だから、そこそこな大きさがある。物静かな金剛力士像のようだ。駅を背にして左側の廃屋は二階建てアパートだ。アパートとはいえ、戸数は10ほどあろうか。比較的大きなアパートである。壁は白いモルタルでできており、地面は丁寧にレンガが敷き詰められている。どちらも年季が入っており、モルタルの3割は風雨で侵食されて灰色に剥げ落ち、レンガの隙間からはそこかしこから雑草が顔を出す。敷地の中央には、大きな金木犀が育っている。伸びた枝は2階の屋根を越えんばかりにまで育っている。2階の廊下は枝に迫られて歩けたものではなさそうだ。おそらく、植えられた木が手入れされなくなり、伸び放題になっているのだろう。少し前の季節には、あたりが金木犀の香で満ちていた。双璧をなす廃屋は5階建ほどのマンションである。以前は1階部分が病院か何かだったようで、建屋の中央にはテンパー扉が据えられている。左側の廃屋よりは整った様子ではあるのだが、かつては整備されていたであろう前庭は、今や芦生原生林のごとき様相だ。藤棚のような囲いはあるのだが、藤ではない普通の雑草が棚を突き破らんほどに伸びている。目を引くのは大きな柑橘系の木である。誰が食べるでも、誰がみるでもないであろう実を黄色く実らせている。

帰り道、廃屋と廃屋の間で立ち止まることが多い。左には金木犀の廃屋、右には柑橘の廃屋。互いに伸び放題となった草木の中には秋の虫がたくさん住んでいて、りーりーしんしんころころと思い思いに鳴いている。四方八方から鳴き声が聴こえるため、通りの中央に立って目を瞑ると、音の霧に包まれたようになる。

 

日常の中で自然の音に耳を澄ますことをしていなかった。

北海道にいた頃は、夜、近くの草むらでおそらく蛙が鳴いているであろう声をよく聴いた。小さな頃は家の程近くにある二つの大木が風に揺れる音を聴きながら家に帰った。冬の静寂などはこれこそが北海道の音であった。雪が防音材のように音を吸い込み、しーんと静まる夜が雪国にはある。-10度の帰り道、足元の雪がぎしぎし鳴る音と静寂。ありありと思い出すことができる。例えば、本州の夏の虫の声にはある種の圧を感じる。短命であることを知っているかのように、長い間幼虫で過ごした鬱憤を晴らすかのように、大きな声で鳴く。耳を澄ますようなことはせずとも、彼らはそこにいる。旅行先で見た海の波の音や、森の木の葉が擦れる音はよく記憶しているが、それは日常ではなかった。

世田谷で5食200円の冷凍うどんを食んでいた当時はまだそうした感性が備わっていたのかもしれないが、それも10年も前のことになる。社会に出て、少しずつ忘れていったのだろう。とても仕事が落ち着いているとは言えないが、社会が止まり、少しずつ動き出そうとしている今が、文京の秋でよかった。

 

はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと

ワクチン二回目接種における辛い気持ち

深夜2時。誰もが寝静まる丑三つ時にこうしてなんの生産性もない文章を認めているのはなぜかと言えば、モデルナ製ワクチン二回目接種の副反応のせいである。熱と、腕の痛みとで、僕のバイオリズムを木っ端微塵に破壊してくれている。

8月31日の19時40分ごろ体内に注入されたそれは、同日21時に腕の痛みを引き起こし、翌日10時半に発熱を引き起こした。しかもこの発熱はそんじょそこらの可愛い発熱ではなく、解熱剤が効いて38℃、解熱剤が切れると40℃にまでなる苛烈な発熱である。保冷剤を頭と首と脇と股間に当てるも、あまりの熱に程なくして保冷剤はただのジェルと帰す。熱を奪ってくれてサンキューなのだが、なんら本質的な解決には至らない。

どこぞやの原住民が、成人のなるための通過儀礼に刺青を施すように、この副反応も現代の通過儀礼のような様相を呈している。僕自身、接種前にはワクチン接種の先輩たちに、どんな副反応が出たか、なにをすると傷が浅く済むかと訊いて回り、やれ水を飲め、やれ葛根湯を服めと言われたら言われた通りの準備をして接種に臨んだ。水は接種前3リットル、接種後2リットル飲み、葛根湯は接種当日の朝から服用したが、話を訊いた誰よりも発熱している。40℃である。やらないならやったほうがマシだったのだろうか。もしなにもせずに接種したら、42℃とかまで発熱していたのだろうか。対照実験もできないなかでは、答えは闇の中だ。通過儀礼にしてはあまりに重く、個人差が果てしない。


しかし、モノホンの新型コロナウイルスによる肺炎は、40℃の熱すらおままごとに等しい。仕事柄、陽性者が復職する際の産業医面談に立ち会う。千差万別の症状があるなかで、中等症の闘病体験を聞くと生唾がじわじわ出てくる。38℃の熱が10日間続き、パルスオキシメーターの値は92。咳き込んでは夜眠れず、社会とのつながりは保健所からの定期的な電話のみ。先の見えない体調不良のトンネルの果てに、酸素が取り込めない未来が待ってるのか、はたまた日常生活が待っているのかわからない中で、1人戦うのだ。過酷そのものである。

それに比べれば健康への先行投資として、なんのこれしき、といったところだろうか。しかし依然として38℃台の熱である。接種後36時間。まだまだ体内での戦いは続く。

保冷剤がまたやはり溶けた。保冷剤は冷凍庫だ。億劫であるが、取りに行くよりない。朝はすぐそこだが、副反応の夜明けはいつになるやら。

丸2日

ワクチン接種から丸2日と少しが経った。ここにきて、明らかに風向きが変わっている。肩の痛みが和らいできている。

先一昨日晩、一昨日晩と、非常に寝づらい夜を過ごした。我が家の布団は高反発だ。何を隠そう、寝返りを打ちやすいようにするためである。寝返りは疲れを取るのに有効と聞く。この、睡眠時の縦横無尽が、こんなにも裏目に出ることはなかろう。左肩が布団に触れては痛み、バンザイをしようとして痛み。無意識は容赦なく左肩を酷使し、意識を呼び起こす。普段夢を見るタチではないのだが、ここぞとばかりに夢の礫が降り注いだ。人を殺めたり、予定を忘れたり、散々な夢を見た後、腕の痛みで起きる。そんな夜をふた晩。

寝ていてもそんな状態だ。当然起きても肩は痛い。仕事に行こうもしてもジャケットを着られない。パントマイマーのような挙動の末にやっとこジャケットを羽織る。ジャケットどころか、そこにたどり着く前に下着とシャツでパントマイマーをさんざんしている。一挙手一投足へのストレスが日常の比にならない。しかも寝不足。疲れもする。

それでも元気に働くのである。労働は有無を言わさないから残酷で、その分優しい。全てを流す。時を流し、時と共に痛みを少しずつ流していった。二日酔いのように、じわじわとかつ鮮やかに痛みが流された。

そして昨晩、可動域が心なしか広がり、痛みが緩和された肩を持ってして、熟睡をキメた。夢は、見なかった。


結論、副反応は丸2日がいいところらしい。セミよりも短く、消えゆくのである。愛おしくも思える。なんて、全ては喉元過ぎればというやつだ。8/31、二回目の接種が待ち構える。この調子だと相当の高確率で発熱するだろう。丸2日、僕は愛おしいなどと思えるだろうか。

ワクチン接種後14時間が経過しての備忘

お手本のような副反応を享受している。

 

昨日17時40分ごろ、ワクチン接種をした。大手町の大規模接種センター。混雑も一切なく、よく訓練された流れるようなオペレーションに乗っかって、あれよあれよと問診から接種までを済ませた。大手町駅についてから、会場内に至るまで満遍なく配置された道案内要員としてのスタッフ。看護師と医者も相当数従事していた。普通ではない数の人間がこの接種に関わっている。これだけの労働力を集めることのできるのがやはり国である。すごい。

 

家に帰り、18時40分。19時から大学陸上の後輩がオリンピックで走る予定となっていたため、先輩方とライン通話を繋ぎながら観戦をした。後輩はあまり調子が上がっていなかったらしい。予選で散った。残念であったが、母国開催のオリンピックに出場したのだ。これは立派であった。

この時点では、僕はまだ元気であった。腕の痛みもなく、健康そのものといったところ。これはもしや副反応のない数少ない人間に選ばれたのだろうかなどという甘い考えが頭をよぎる。20時からサッカーにチャンネルを回す。ドベドベに引きながらカウンター一閃を狙う日本。これぞ欧州列強相手のサッカーだ、フランスはやはり戦力的に相当削がれていたのだ、と、ある種日本らしい試合を観戦している折、いよいよそいつはやってきた。

21時10分。接種から3時間後。肩の筋が張ってくる。指圧すると痛い。動かしにくい気がする。肩を回すのが怖い、あげるのが怖い。ひたひたと副反応の足音が近づいてくるのを肩で感じる。別に熱なんか持っていないのに冷えピタを貼ってみる。果たして効果はあるのか。

23時30分。就寝。サッカー観戦の力みを落ち着かせての就寝である。3時間前に感じた違和感は痛みに変わり、明らかに寝付くのが辛い。左半身を下にして横たわることが難しい。そもそも僕はうつ伏せで枕の下に手を入れている状態が就寝のスタンダードポジションだ。腕が上がらないなかでどのように寝ろというのか。案の定、非常に就寝に時間がかかる。隣ですやすやと寝ている妻は2週間ほどまえにすでにこの洗礼を受けている。しかも妻は発熱も伴った。こんなもんじゃないだるさだったろう。そうか、お前もその痛みを知ったか。せいぜい耐えるが良い。寝息に諭された気がした。頑張って寝た。

6時00分。起床。人を殺した夢を見て起きた。誰かもわからぬ一般人を殺害する夢であった。殺して起きたのではなく、殺した後、足がつかないようにしばらく逃走し、自分が人を殺めた決定的な証拠を捕まれそうになったところでの起床。最悪である。しかし夢の中の僕は両腕を器用に扱っていたので、もしや治っているのではと思ったが一切そんなことはなかった。めちゃ痛い。

詰まるところ、接種3時間経過後あたりから痛みを感じるようになり、接種14時間が経過した現在もなお痛みを感じている。

 

起床してしばらく、様々な挙動を試しているが、僕の場合、痛みを伴う挙動が明確である。左うでを横方向に挙上する動きができない。このため、左手で側頭部を掻く動きや、ズボンを履く動きができない。後ろ方向にも挙上ができない。バトンパスの動きができないわけだが、僕は今日明日でリレーに出る予定はなかった。よかった。

一方、前方に挙上する動きは、ゆっくりであれば可能である。バンザイや、ドライヤー、洗髪、ジョジョ立ちなどができる。生活に密着に関わる動作が多いため、前方方向の挙上が制限されなくてよかった。

 

ともあれ、果たしてこれからどのような変化を見せるのか、興味深く自分の体を確認していきたい。

ワクチン接種を眼前に控えたMan in the mirror

接種券が届いていない人、届いたけれども行政からの案内が来ない人、案内は来ているけれどなんとなく接種予約していない人、主義主張により接種を受けないと決めた人。さまざまいることを承知の上で、本日僕は一発目の接種を受ける。大手町の大規模接種会場の予約枠が拡大されることを妻が発見し、教えてくれたのだ。僕は一目散に予約をした。妻のパスを無碍にしてはならんと、丁寧にトラップをしてゴールに押し込んだ形である。妻には両手をあげて感謝。

モデルナ製ワクチンを打つ。製薬会社により若干の差異はあるようだが、いずれにしても副反応はほぼ間違いなくでるようである。こちとら20代男性である。20代と30代のホライゾンがチラつくが、20代は20代だ。若ければ若いほど副反応が重いらしい。こりゃあすごい副反応が待ち受けているぞと、心のうちには漣が立っている。腕の痛み腕の痛みと異口同音に聞こえてくる痛みとはどんなもんだろうか。少し調べてみると免疫系統が強い人間の方が副反応は顕著に出るようだという。喉の痛みとともに生きてきた人生だ。そういう意味では、大した副反応もなく終わるようにも思う。

いずれにせよ、誰もわからないのだ。誰もわからないことを誰もわからないままやっている。確かな知識と技術を持った人たちが、起こっている事象をもとに、最善と思われる手を打っている。と、信じて、僕はそれに従う。ワクチン生成に関わる文章を読んだところでベースとなる知識が皆目ないのでわからない。人が作った意思決定のプロセスを信じるか信じないかしかない。


本日はマイケルジャクソンを聴きながら出勤している。生前、沢山の噂にまみれた人である。真実なんぞ本人にしかわからないし、今の世に真実なぞないな、という気持ちで聴く。

I’m starting with the man in the mirror.

今日が終わる頃、the man in the mirrorはワクチン接種後のそれにChangeしている。またこれも人生である。

東京より、世の中を感ず

23区に住んで10年となる。非常に聴こえはいいが、なんの大したことではなく、ただ都合の良い場所に、様々な補助を借りて住み続けただけである。親の脛や、会社の腿や、妻の肋までもしゃぶりつくさんとする勢いだ(今は妻の家賃補助の厄介になっている)。

県境を跨ぐ移動をするでないと言われて久しい。人流を抑えることが是とされる世情。しかしながら職場が横浜なもので、毎日元気に多摩川を横断している。リモートワークの指示はない。現場がそこにあるのに、のうのうと自分だけがお家でパソコンだけ叩いているわけにも行かないのだ。強い使命を持って渡る多摩川には、夏休みだからだろうか、野球少年たちが屯している。さあ今こそ、羽を伸ばせや!と、思う。

 

東京といえば、本日、過去最多の感染者数を記録した。2800幾人。誰と何とどこと比べてどうなのかはわからないが、世界中のみんなで1年半やっているコロナ禍、日本国内において最も禍が極まっている時期であることは間違いない。僕の元には、現在の職務柄、事業所内のありとあらゆる体調不良者の情報が集まってくる。本人が熱が出て休んだ、PCR検査を受ける、家族が体調不良だ、PCR検査を受ける、明後日結果が出る、居住区の保健所はなんて言っている、濃厚接触者はいるか、いつまで自宅待機か。

一切の統計をとっていない、肌感覚でしかない話だが、ここ1週間、まじでコロナウイルスが流行り出した感じがある。体調不良者の数も、PCR検査の数も、陽性者の数も、ステージが変わったのではないかと思うくらいに増えている。増えていると言っても、打率5毛の選手が10毛当たるようになったくらいなものなのだが、それでも増えている感じがある。これがデルタ型。恐るべし。首の長いキリンが登場した時の、高い位置の果実の気持ちが少しわかる気がしている。ここまで首伸びたか!って、思ったに違いない。

 

勢いを増す感染状況をわき目に、日々がどうかといえば、これは妻と穏やかな日々を過ごしている。「比較的穏やか」と書こうか、「穏やか」と書こうかと悩み、「穏やか」と書いた。これは夫としての気合いだ。僕は少し大人になった。とはいえ、妻は人間がめちゃくちゃできているので、正直、大人になる必要もない。子供でいられてしまう妻である。感謝しかない。

穏やかなリビング。テレビではオリンピックが流れる。無観客で、選手の声が不気味なほどよく聞こえるオリンピックだ。開催前から、開催是非を喧々諤々やってきて、最終的には無観客で落ち着いている。運営方法やら開会式の様子やら、国外国内隔てない世論からの苦言があり、一方ではこんなもんだろうとの意見もある。主幹となっている組織はそれぞれ真に受けてほしいと思うし、間に受けたところで同様の状況で行われるオリンピックなぞまずないだろうから、喉元過ぎれば…になってもおかしくないとは思う。そうではいけないとも、思う。

正直、この間のオリンピックにまつわる議論を聞くと、胸が苦しくなる。

これまで各々の趣味趣向をもって、様々な方を向いてきた国民が、「人類史上指折りの流行り病」と「半世紀以上ぶりに国内開催されるスポーツの祭典」が同時にやってきたことにより、一斉に同じ方向を向いたのだろう。全国民参加型の議論となった。今でも街を歩けば、命と五輪を両の皿に乗せた天秤が五輪に傾く政党ポスターが目に付く。

人が集まると感染拡大する性質のウイルスへの対策として、あらゆる国民の集会を自粛せいと統制かけ、さらには集会の潤滑油になる酒に目をつけて売るなとした。その一方で、お前、世界中から人集めるのかいと。それはどうなのよと。正しい認識かはわからないが、めちゃくちゃ論理的である。

しかし、オリンピックという無限に利害関係が広がるイベントを、はい、やーめたとできない立場の人がいるのも事実だろう。これは、想像しかできない。想像しかできないからこそ、訝しんでしまう。訝しむが、そのイベントの中心にはアスリートがいる。かつて頭のてっぺんから爪先までスポーツに浸かった身とすると、「オリンピック」にかけるアスリートの想いは痛いほど理解できる。この気持ちを蔑ろにできないというのも、一つの真だ。

誰がどこまで何をどう話しているのか知らないが、上記状況を細部まで全て加味した上で、為政者が決定したのが現状である。2800幾人の感染が、果たしてオリンピックの開催と直接関係があるものなのか、今の今はよくわからない。関係者が入国して、1週間強。持ち込まれたとみるか、それ以外のシンプルな市中感染とみるかは専門家の領分だ。

医療は逼迫している。保健所も全然業務が追いついていない。PCR検査の結果一つ、通知が遅くなっている。一方で、無観客とし、「観客(一般市民)」への感染リスクを最低限に抑えたオリンピックは、一般市民の娯楽となり、ある意味でのガス抜きともなっている。アスリートにとっては最高の自己実現の場を提供している。

国民としての僕自身の立場は一般市民に過ぎない。好き勝手いっていいはずなのだが、僕は、正直どの立場を取っていいのかわからない。自分が意思決定をする立場として、全ての情報をもらった上で、どの判断を下したかと思うと、胃が掴まれるような思いがする。

 

よくよく調べもせず、目に入る範囲の情報で、頭の余っている部分だけを使ってでしか、物事を考えられていない。だから、ちゃんと調べたら全く違う世界が広がっているのかもわからない。でも、そこに割く体力があるなら、寝て、スッキリした頭で仕事行った方がいいやと思っている。その程度の話である。

が、これだけ書けてよかったとも思う。胸のつっかえが取れた気がした。

東京より、世の中に感じたことの、素直なところである。

諭吉佳作/menについて。主に「ムーヴ」。

最近、我が家の朝はJ-WAVEが流れている。なぜこの映像全盛の世でラジオかといえば、食卓テーブルを設置している角度がテレビの画面と並行で、妻がちょうどテレビを背にする(正しくは妻の右後方にテレビ画面がある)ように座っており、画面を見られないためである。ラジオを流してくれるのはAmazon echo。「アレクサ!radikoでJ-WAVE流して!」と、掛け声をかけると、アレクサは別所哲也の声になる。ジェフベゾスはとんでもないものを作った。不思議だ。

5月20日の朝もいつもの朝と同じように別所哲也とおはようモーニングをしていた。81.3、J-WAVE。7時半ごろ、ちょうど食器を洗っている時である。それはおしゃれな曲がアレクサから流れてきた。とても耳障りのいい曲だった。軽快なピアノと、マリンバか何かの音と、不規則なアクセントが心地よく、ふんふん食器を洗った。そして、一度その耳障りを忘れた。仕事ですもの。さらに数時間後の昼休み、今朝のあの曲はなんだったかと不意に思い出し、radikoで検索をかけて、手繰り寄せたのが、「諭吉佳作/men」であった。

 

細かい諭吉佳作/menの話は細かい諭吉佳作/menのことが記載しているサイトに譲る。

諭吉佳作/men | TOY'S FACTORY

つまりは若い音楽家である。

僕が朝耳にしたのは「ムーヴ」という曲で、数日後に発売されるデビューCDの中からの一曲とのことだった。調べていくと、諭吉はsoundcloudにこれまで作成した楽曲をアップロードしていた。僕はそれを帰りの電車で聴き、数日後、発売されたデビューCDを嬉々として買ったのだった。

 

<「ムーヴ」について>

僕はまだ諭吉の曲を聴き出したばかりで、「諭吉の曲ってさぁ〜」みたいに安直に語るだけの知識も度胸もない。ので、CDの1曲目、僕が今一番聴いている「ムーヴ」にのみ絞って、感想を述べたいと思う。散文的に述べるので、まとまりはない。

パッと聴き、すごく複雑な曲に聴こえる。なんだこれはと思う。

リズムだけ、リズムだけを真剣に切り取ってきくと、拍子は淡々と四拍子を刻んでいることがわかる。そんなに無茶苦茶はしていない。ドラムパターンが複雑で、表裏関係なくスネアやシンバルを叩きまくっているから複雑に聴こえてしまうが、リズムは硬い。一番の終わりらしき箇所「〜フレームアウト」からの二小節だけ7/4+9/4っぽい。けど、足し算したら普通に4の倍数。

じゃあ、コードはどうかといえば、E♭のⅣ度、A♭から始まる。そこから正確なコードは全然わからないのだが、B♭、Gmあたりの派生コードに入っていると思う。雑味とえぐみが多めなコードだが、ルートはB♭とかGmだ。つまるところ、E♭メジャーの路線からはほぼ外れないで進む。「階段すれ違う時〜」から、「電気の脈」までがA♭のメジャーに転調して、その後またE♭に戻って、「本当は無理しているよ」以降は1音上がってFメジャー。サビっぽい。気持ちいい。そう考えると、コード進行自体もそんなに変わったことしていない気もしてくる。するとこの独特な耳障りはなんなのか。

一つは、歌詞のシンコペーションの多さにあるように感じている。

甲高い 肩が硬い

たたかう指先 冷えない要請ふたり

1-2-3 鳴らす指先

に迷う

ここまでで八小説。

ごく普通の歌詞捌きで言えば、小説のお尻で韻を踏みながらリズムを取る。この歌詞で言うと、「甲高い」と「肩が硬い」でがっちり韻を踏むなどしたいところだが、諭吉はしない。「肩が硬い」と「たたかう指先」がシンコペーションでくっつく。さらに「指先」と「冷えない」もくっつく。「1-2-3」でやっと歌詞頭と拍子頭があったと思うと、「鳴らす」が三連符となっていて、「に迷う」に至っては二拍目手前で歌詞が終わる。シンコペーションが続く歌詞と、悪戯なスネアのアクセントとピアノのアクセントに摘まれてリズムが掴めなくなり、あれよあれよと八小節がすぎていく感覚に陥る。これが歌い出しである。忙しい。皆まで言わないが、この言葉のリズム感は、「ムーヴ」のみならず諭吉の曲全てに通ずる。リズム感で言えばシンコペーションだけでなく、破裂音の入れ方、特に「タ行」の使い方がいい。「甲高い」「肩が硬い」あたりの「タ行」。あと、後々出てくる「隠と陽とミントソーダの音とテントと」あたりの「タ行」。本当に心地よいリズム感を曲に与えている。多分だけど、諭吉はスキャットを言葉にするのがめちゃうまい。いや、スキャットがうまい。スキャットで気持ちいいように口ずさんだフレーズに言葉をはめていくのだろうけど、そもそものスキャットが多分うまい。

これだけ歌い出しで捲し立てておきながら、空間の使い方もうまい。

バレリーナ/バレリーノが私に降ってきて

繰り返されるフレーズだ。この、「バレ」と「リーナ」の間、「バレ」と「リーノ」の間、「わた」と「し」の間に半拍休む。この休符がメリハリになって、曲にスピードが出ている。言葉のリズムに気を取られていたら、突然ベースがランニングを始めたりする。忙しい。気持ちいい。最後のFへの転調なんかとても素晴らしい。昨今のYOASOBI転調のような、「転調しましたから!」的な嫌らしさがない。何事もなくすいっと転調している。そして諭吉の声にFキーが合う。艶っぽくていい声である。

 

 

かつて、小学4年生の頃、ピティナピアノコンクールに出場した。オホーツクの最も小さな大会で敗れ去ったのだが、その際に弾いた近現代の音楽に一切馴染めなかったことを今も鮮明に覚えている。拍子と和音が複雑で、ロマン派までで美しいメロディは食い尽くされ、近現代では拍子と和音で遊ぶ以外になくなってしまったのかと、幼ながらに思った。諭吉の音楽は、あの頃弾いた近現代音楽に近しいものを感じる。和音の構成からリズムの構成から、単純ではない。出来の悪い脳みそなので、単純な情報しか咀嚼できないはずなのだが、不思議と諭吉の曲は聴きたいと思う音楽だった。

 

そして諭吉はどうやら、僕がコンクールに打ちひしがれていた頃に生まれたらしい。

歳もとるわけだ。