「思ってて」おじさんと勝手に呼称している人々がいる。おじさんとしているのは僕の周りにおじさんが多いからである。他意はない。
「思ってて」おじさんは語尾に「思ってて」を多用する。そのため「思ってて」おじさんである。「思ってて」で文節を切る話法を多用するのが特徴だ。正式に記載すると「思ってて。」である。「思ってて、そして、」とは続かない。「思ってて」で対話者に会話のバトンをパスしようとする。「思ってて」における「て」は接続詞だ。接続しないと「て」の役割は十分ではない。それでも会話のバトンを押し付けてくる。かつて僕は「思ってて」おじさんのバトンパスに気づかないことがしばしばあった。彼らの「思ってて」の後にブランクが空いてしまい、今どっちが話すべきターンかわからない数秒を過ごしたりした。しかし、「思ってて」おじさんの存在を完全に認知してからは、「今の思ってては僕にバトンを渡している思っててだな。」と「思ってて」を理解するようになった。「思ってて」おじさんへ寄り添うようになった。
「思ってて」が登場する話題としては、「思ってて」おじさんが重要視している理念のこともあれば、個別仕事のやり取りの中の事象であることもある。要するにどんな話題にでも、会議の場でも日常会話でも、「思ってて」が顔を出す。「本件は一旦ペンディングにするのがいいと思ってて。」の場合もあれば「今日の夕飯はチャーハンがいいと思ってて。」の場合もある。「思ってて」おじさんが思ってることは全て「思ってて」である。当然だ。
さらに「思ってて」おじさんは頭がよさそうな場合が非常に多い。語弊のないように言いたいのだが、頭がいい悪いなど、単一の尺度で測れたものではない。だから本当のところがどうなのかは一切合切闇の中だ。だが、少なくとも話を受け取る側としては頭がよさそうな語調で「思ってて」を食らっている感覚がある。頭がよさそうな語調で「思ってて」をキャッチアップするものだから、「思ってて」おじさんが思ってることはめちゃくちゃ正しそうに聞こえる。「今日の夕飯はチャーハンがいいと思ってて。」の場合も、火急的に今日の夕飯はチャーハンにする必要があるようにすら感じてしまう。
でも、「思ってて」おじさんはただ思っているだけだ。だからどうとは言わない。
例えば業務におけるメールを送信する際に。「思ってて」と記載したらどうだろう。誰が動くだろうか。誰も動かないだろう。誰も人の思ってることなんて興味はない。必要なのは数字と指示と、組織がなんて言っているかだ。仮に組織の代表の発言としても、「思ってて」はいらない。断定しろ。「思ってて、だからどうする」を言え。断定できないなら発言するな。断定できるまで考え抜け、断定できない場合は検討するとか熟慮するとかとしろ、具体的な組織の行動として伝えろ、お前の思考の戸惑いや逡巡など求めていない。と、思ってて。
勢いで色々書いたが、違和感は二つ。
「思ってて」で文を終了せしめんとする日本語への違和感と、お前の思ってることなぞ聞いちゃいないのになぜ思いを伝えたがるかという違和感だ。
だからどうという話ではない。攻撃をする意図もない。ただこの違和感、気持ちの悪さ、居心地の悪さを吐き出さずにはいられなかった。花粉症のように、「思ってて」おじさんへの抗体が作成されてしまった結果のアレルギー反応だ。
別に思う分にはそれでいい。言うだけならタダ、思うだけもタダだ。