徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

1000記事目

もっと大々的にかつ盛大に執り行なおうと思いましたが、別に1000と刻めどなにも変わらず、これからも日々を淡々と時に激しく愛しさと切なさと心強さと負けないこと投げ出さないこと逃げ出さないこと信じ抜くことを心に刻みながら書いていきたいと思う。

色々ブログのデザイン変えたりしたけど、一回普通に戻して一から作り直してみようかななんてことを思ったりもする。雑魚クオリティからまた一歩先んじたhtmlを書きたい。

まぁ、次の連休にでも考えようかなと。


今後ともご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。

ヒノキが舞い出した花粉に負けず、頑張ってまいりましょう。

BiSH「HiDE the BLUE」MV感想 アイナ・ジ・エンドを超えてゆけ

多分、誰もが思う。オーケストラと同じ沿線にある曲だと。

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松隈ケンタ、scrambles。コンポーザーが同じだとやはり曲調は似通って行く。小林武史が作った曲はどれも同じように聞こえてしまうのと同じだ。オーケストラ、プロミスザスター、Nothingsのような、ピアノとストリングスが入っているような王道ギターロック。どれもいい曲だが、シーフードカレーもビーフカレーもチキンカレーも全部美味しいみたいな話だったりする。

 

今回のHiDE the BLUE。

他のロックバラードと何が違うかといえば、アイナ・ジ・エンドへの依存度であると思う。

BiSHにおけるアイナの力は絶大なものがある。あのカサカサした声質と安定した歌唱力。ZIPに取り上げられた時もアイナがメインだったし、何より普段の歌割りも圧倒的に多い。サビといえばチッチとアイナが交互に歌うのがBiSHのパターンである。

しかしHiDE the BLUEにおいては違う。アイナの歌割りが特別に多いこともなく、6人が比較的満遍なく歌っている。そして、特段の違和感も感じられない。

モモコグミカンパニー、リンリン、アツコあたりの歌唱力が本当に向上した。モモコとかすごい。ライブ映像で被せしか聴こえていなかった頃のモモコとは全く違う。声張れるモモコになっている。他二人もかつてはCD音源ですら明らかに浮いていたのに、今や普通に聴けてしまう。

結局、歌である。人間においての顔みたいなもので、曲を聴く時も僕たちは歌に注目する。これまでオーケストラ、プロミスザスター、Nothingsとアイナに引っ張られていた。すなわち、曲の顔はアイナだったのだ。HiDE the BLUEも同じロックバラードだけれど、曲の顔がアイナじゃなくなった。6人の顔になった。これはBiSHにとっての大きな成長だと思う。

 

歌割りが減ってアイナの存在感が減ったかといえばそうでもなくて、間奏でのダンス辺りにアイナの努力が見て取れる。

振り付けを一手に引き受けているアイナ。これまで「本当本気」とかでガチムチのダンスを披露してきたが、BiSHのみんなで踊るサビの振りとかは本当にわかりやすく、言ってしまえばお遊戯に近い振りが多かった。それはみんなで踊れるからといった面もあったろうし、BiSHメンバーのダンスクオリティの問題でもあったろう。

本曲間奏のダンスもほぼ間違いなくアイナのものだ。アイナの振りを、お遊戯じゃないダンスを、BiSHがきちっと踊っている。立派だとしか形容し得ない。これまでチームを牽引してきた存在に、全体がだいぶ近づいてきた、そんな印象を受けた。

 

大ヒット曲、オーケストラと同じ文脈で聴き得るHiDE the BLUEだからこそ、それぞれの成長、BiSHの成長がよく見て取れるMVであった。

一抹の不安は、松隈ケンタ氏の引き出しである。そっくりな曲調には違いない。これは狙ってやったのか,タイアップ用の書き下ろしだから無難に走ったのか、それとも。

でもまぁきっと、しれっとすごい曲を作るんだろうなと思う。

これからも楽しみは続く。

 

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動悸

親父は心臓がバカになりがちな人間である。不整脈がちで、期外収縮・心房細動に稀によくなる。その血を色濃く引き継いだ僕も、同じような運命線上を揺蕩うサダメを賜ってしまった。ちょくちょく心臓がバカになるらしい。というか、諸々不調のしわ寄せが心臓によりがちである。寝不足、飲酒、寝不足。不摂生のダブルチーズバーガーの結果、ちょっとドキドキしちゃう。それはトキメキのような甘酸っぱいものではなく。

お酒が残っている朝。胃の不快感を抱えながらの出勤。会社でエレベーター待ちするのが馬鹿らしかったのでひょいひょい階段を駆け上がって元気元気と言い聞かせていたのだが、突然心臓がダブステップを踏んだ。おうおうおう。落ち着け落ち着けおうおうおう。突発的なものですぐ止まった。しかし、その時確実に心臓はプログレッシブビートを奏でた。ジミヘンもびっくりである。普段怒らない人が怒ったら怖いとよく言うが、普段黙ってる臓器が主張するのも相応怖い。立ち止まったほうがいいですよと、確かにその時心臓が語ったのだった。

この反省を活かし、酔わないとは言わないまでも、酔っているときに階段を駆け上がらないようにしようと心に誓った。

疲れと酒と運動のコラボレーション。

なんか、危ない気がした。

mol-74「エイプリル」

ちょうど一年前にアップされた曲。

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ちょうど半年前くらいに知って、しばらくよく聴いていた。

MVに出ているRirikaって子が可愛くて仕方ない。YeYeのゆらゆらも必見。

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まじで腐る程見た。かわいい。

 

 

さて、エイプリル。

よくもまあこんなにわかりやすく終わった恋の心情を書けたものだと思う。色々とそれらしき言葉を使いながら、結局、彼女となんで別れちゃったかなーってことしか言っていない。「綺麗な映画を見るたびにふと君を思い出し」、でも「映画みたいにはいかない結末」が用意されている。当たり前だ。当たり前を歌うから、当たり前に動く心情がある。

 

山崎まさよしの「One more time,one more chance」はご存知だろう。J-POPが誇る大失恋ソング。

いつでも探しているよ どっかに君の姿を

明け方の街 桜木町で こんなとこに来るはずもないのに 

日常の、非日常の、すべてのどっかに君を姿を探してしまう。痛いほどに辛い。

 

歌詞を読むとニュアンスが伝わって来ると思うのだが、「One more time,one more chance」がフラれた歌だとすると、「エイプリル」はフった歌だ。

山崎まさよしがあまりに鮮やかにフラれたズグズグの心を描いてしまったからなのかもしれないが、mol-74の「エイプリル」にはフラれた直後の悲壮感や自己嫌悪が少ない。どこか冷めている。冷めながら、後悔が滲み出している。

 

自分から終わらせた恋か、相手が終わらせた恋か。

相手が終わらせた恋は、瞬間の自己嫌悪がすごい。が、その後徐々に傷が塞がっていく。一方、自分から終わらせた恋は、別れた瞬間にある種せいせいした気持ちになる。けれど、その後時間経過と共に後悔がじわじわじわじわと襲ってくる。もう見ないからと捨てたアルバムの写真が妙に恋しくなるように。

線路沿い、

変わらない街並みと匂い、変わった僕だけがいる

屁理屈並べても戻れない日々をただただ嘆いた

変わったのは僕。嘆いたのも僕。

エイプリル

僕は変わった?

エイプリル

君は変わった?

いつもいつまでも続いていくような気がしていた午後

四月、出会いと別れ、年度の変わり目。桜と葉桜の狭間で何かと変わろうとする人々。自分たちの、むしろ自分の変化を春に四月になすりつけて、後悔の念をごまかしている。

 

極め付けが一人称MVである。

男性側の一人称MV。never young beachの「お別れの歌」に何度か殺された。

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これもフった歌だ。

フった悲しみの根源が後悔であるならば、後悔と悲しみは比例する。この、男性がスマホで動画撮影している視点は、思い出を反芻させるからして当時の楽しさをいとも簡単にフラッシュバックさせる。楽しさが蘇れば蘇るほど、後悔は膨らむ。なぜフった。なぜフったんだ。

「エイプリル」で秀逸なのはRirikaの可愛さはもちろん、怒涛のラストにある。

最後のサビ。色々な場面の彼女が次々出て来る。動画の断片が礫のように降る。あんなこともあった、こんなこともあった。後悔とか悲しみの波状攻撃の後、画面の比率が変わって桜が超高画質で現れる。

あぁ、変わった。

幾度となく繰り返す四季だけど、確かに僕は変わって、君は変わったんだと思わせる。

丘に登ったらいつか見た景色 季節の魔法で

スピッツ「夢じゃない」の一節である。

この「季節の魔法」という言葉が好きだ。自分がどうあろうと春は春、夏は夏の景色がそこには広がっている。季節の魔法によって。でも、「エイプリル」では違う。最後の最後に大写しになる桜は去年と同じだとしても、僕と君は違う。対照実験のようなものかもしれない。季節の魔法で景色が変わらないからこそ、僕らの心持ちが変わったことがより際立つ。

 

よくある話だろう。よくある歌だ。でもこれに心を打たれるのはなぜかといえば、多分Ririkaの力がでかい。

ほんと、どうしようもなく可愛い。

赤巻紙 青巻紙 漢a.k.a GAMI

いよいよ来たなぁこの時がぁ〜!

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漢a.k.aGAMI

 

日本語ラップ、日本のヒップホップを一時期引っ張った男として有名なラッパーである。

 

僕は、別に漢が好きなわけでもなんでもない。ラップにおける言葉遊びは好きだし、フリースタイルバトルは楽しく拝見しているのだが、特別なマイフェイバリットかと言えばそうでもない。

でも今日、赤巻紙青巻紙漢a.k.a GAMIという語が突如として頭をよぎってからというもの、ずーっとニヤニヤしている。馬鹿みたい。

 

巻紙青巻紙漢a.k.a GAMI

 

やはり面白い。

なんでこんなにも巻紙青巻紙漢a.k.a GAMIが面白いのか。殆どの人に伝わらない面白さかもしれない。けど、面白いと仮定して話を進める。

 

巻紙青巻紙漢a.k.a GAMI

の元ネタはもちろん

赤巻紙青巻紙黄巻紙

である。

早口言葉界では1番センターを張りそうな切り込み隊長だ。

早口言葉は、喋りにくく、かつ、ある程度意味がわかる言葉でなければならない。しかしめっちゃ喋りにくくて意味も完璧に通じる言葉なんて都合よく存在しない。だからどの早口言葉も意味の通り方は多少犠牲にしている。

 

さらにその上で早口言葉には2種類存在する。

単語の羅列タイプと文章タイプである。

赤巻紙青巻紙黄巻紙は単語の羅列タイプ。対して、「かえるぴょこぴょこみぴょこぴょこ〜」とか、「坊主が屏風に〜」とかは文章タイプとなる。

どちらのタイプにしろ、やはり意味が通ってそうで通ってなかったり、意味はわかるけどそのシチュエーションなんなのよって異議を呈したくなる言葉が多い。しかも何故かビジュアルが眼に浮かぶ。赤巻紙青巻紙黄巻紙も、喋りながらそれぞれの巻紙がポンポンポンと連想される。色とりどりのロール紙の共演。誰得。

 

で、早口言葉は人がいいにくさを感じる語を繰り返す傾向にある。

赤巻紙青巻紙黄巻紙であれば、巻紙。「かえるぴょこぴょこ」であれば、ぴょこぴょこ。語の繰り返しにより小気味良いリズムが生まれる。リズミカルになればなるほどスピードは上がり、口は回りにくくなる。

 

ここまで羅列してみて。

巻紙青巻紙漢a.k.a GAMI

が面白い理由というのは、

意味はわかるけどワケがわからない単語の羅列の喋りにくさを感じる部分で韻を踏みながら、全く脈絡のない人物が突如として現れる点にあると結論した。

巻紙青巻紙漢a.k.a GAMI

頭の中で赤巻紙と青巻紙が連想されてから、突然漢a.k.a GAMIが現れる。シュール。

漢a.k.a GAMI自身、頭韻が得意であまり脚韻は踏まないのに、早口言葉上ではバチバチに脚韻で揃えてる辺りも面白い。

 

 

同じ原理で、

生麦生米生瀬勝久

も面白いなーってぼんやり考えてたんだけど、こっちの方が漢a.k.a GAMIのラインっぽい。熱い。

 

 

さて、一晩ゆっくり休んで、頭冷やそうと思います。

16のリズムで空をゆく

この間羽田の国際線に走って行った。

 

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世界の玄関口に自らの足で出向き、出発ロビーを超軽装で闊歩して帰って来るだけのことだったが、チケット買って走って羽田にこれば飛行機乗って海外行ける不可思議さに心震えた。世界は狭い。

会社の同期には海外大好き人間が多い。育ちのよろしい方々が勢ぞろいしている環境だったりするので、二泊三日といえば昔住んでたからといってシンガポールだベトナムだ台湾だマカオだとぴょんぴょん飛んでいく。横目にお家で体育座りをしている人間がここにぽつねん。

そんな海外大好き人間たちと旅行の話になった際よく話すのが、僕のルーツを探る大冒険の話だ。目には目を、旅トークには旅トークを。部活だなんだと言い訳つけて長期旅行をほとんどしてこなかった僕の、唯一の旅行。一週間ちょっとの期間だけれどもプレシャスな一人旅。

皆、興味深そうに聞いてくれる。そして口を揃えて、それだけ動けるんなら海外なんてバンバン行ってそうなのにね。行けそうなのにね。と言う。

 

動機付けの問題だと思う。

ルーツを探す旅行もそうだった。

建前上は一族の中で自分だけ身長が高い理由が知りたくてと話しているが、そんなことよりも自分の先祖に大変な興味があった。北見の祖母の家にでかでかと飾られた曾祖父母と祖父の写真。小さな頃からしげしげと眺めては、どんな人だったのかと考えを巡らせていた。どうやら立派な人だったらしいけど、実際どうなのか。生家に乗り込んだら何か分かるのではないか。個人的な興味を後押ししたのは今は亡き北見の祖母を始めとする地元の面々である。何十年と会ってない親戚衆。誰かが核にならないと付き合いなんて簡単に薄れてしまう。カサカサになってきていた付き合いをなんとか繋ぎとめたい。

内発的動機と、外発的動機がうまく噛み合わさって、僕は見事に旅行に出た。

 

しかし海外はどうだ。

誰も待っている人もなく、別にスペシャルな興味関心があるわけでもない。漠然とした「見識を広げたい」欲求では、なかなか動かない。なんとなく痩せたいだけじゃダイエットがうまくいかないのと一緒だ。モテたい、あの人と仲良くなりたい。内発と外発の動機が両輪噛み合わさって、人は爆発的な力を出す。

僕を日本から引きずり出させる両輪があるかなぁと考える。

ドイツに従姉妹がいて、わけあって疎遠になってしまったのだが、もし次にむちゃくちゃ馬力を出すとしたらその従姉妹たちとの関係をもう一回始めるときだろう。

 

キーワードは人なのだろう。

アムステルダムのチューリップも、台湾の食べ歩きも、オーストラリアのコアラも、マチュピチュも、どれも間違いなく行ってみたいし見てみたいけど、ぶちかましていくほどの動機にはなっていないのは、多分人が関与していないからだ。

誰かと行く、何かを楽しむ旅行よりも、誰かに会いに行く旅行や誰かを見つけに行く旅行に僕は価値を見出すらしい。

 

もったいないくらいに晴れた空の下、満開の桜を見ながら、うじうじ考えた。

どこにも行けない彼女たち 駅の改札を出たり入ったり

変われない明日を許しながら なんとなく嘘をつくのさ

16のリズムで、空を行きたい。

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マウスピースもといナイトガードの勧め

とりあえずみんな作ってみるといい。

睡眠。

それは究極の無意識。

僕たちか自らの睡眠を知ることは難しい。寝相がいい人、悪い人。いびきをかく人、かかない人。人から指摘されて始めて睡眠中の態度を知れるが、そうでなければいつまでたっても闇の中。撮影するほどのバイタリティを発揮できれば別だけど。

そんな無防備な睡眠中に歯ぎしりをする人が一定数存在する。

僕がそうだ。

歯ぎしりによる顎の痛みに度々悩まされてきた。違和感から始まり、口の開閉に痛みが伴うようになり、いよいよ開かなくなる。寿司が口に入らない。欠伸ができない。

痛いから顎を気にしまくる日中とは裏腹に、食いしばり、噛み、容赦なく自らの顎を痛めつける夜間。ダブルスタンダード。痛めつけたいのか、治したいのか、自分でもわからない。睡眠中の僕を問いただしたい。

事態を解決するためには、やれストレスをなくせだ、やれ噛み合わせをよくしろだ、小五月蝿いことばっかり言われるので一向に食いしばり事情は解決されることはなく、ここまで大きくなってしまった。そこで、もう対症療法にしようと。妥協しようと、決めたがやや2週間前。

 

とりあえずみんな作ってみるといい。

マウスピース。もとい、ナイトガード。

自分が歯ぎしりしていると知り、顎が実際痛くなってからというもの、寝るのが怖くなっていた。何しろ寝たら確実に歯ぎしりするのだ。考えても見て欲しい。二日酔いで具合悪くて寝ながら酒をガバガバ飲んでいたり、目が乾燥して仕方ないというのに寝ながらめっちゃ目が開きっぱなしだったり。歯ぎしりはそんなめちゃくちゃとほぼ等しい状態なのだ。恐怖だろう。

そこで、ナイトガード。

これ、別に歯ぎしりがなくなるわけではないらしい。軽減はするものの、なくなるわけではない。でも、歯へのダメージは極端に減る。これがでかい。

実は歯ぎしり、顎ばっかりじゃなく歯自体にも相当にダメージを残す。顎の痛みは顎付近の筋肉を解すとかでよくなっていくらしいが、歯はどうしようもない。生え変わらないのだ。

歯ぎしりをしていると知ってからというもの、歯が割れてしまうことが心底怖かった。歯が削れ切って神経がコンニチハした時、耐え難い痛みが襲うという。いつ来るかわからない激痛。大地震が起こると言われる地域に住み続けている感覚に近いだろう。明日来るかもわからない恐怖に怯えながら生きていたのである。

ナイトガードは恐怖を解きほぐす。

顎はまた痛くなるかもしれない、けど、歯が砕ける事だけは避けられる。この安心感ったらないのだ。しかも保険適応で5,000円と1週間で作れてしまう。5,000円で買える安心なら、買う。買ったほうがいい。

 

鏡の前で、イーってやってみて、左右の歯の減り具合が違ったら、それはあなたが歯ぎしりをしているサインである。その減っている方の歯が割れるのは明日かもしれない。減っている方の顎が開かなくなるのも、明日かもしれないのだ。

 

とりあえずみんな作ってみるといい。

マウスピース。もとい、ナイトガード。

リメンバー・ミー 感想 僕が心を揺さぶられた理由。ネタバレしかしていないから観た人に伝われ。

僕のために作られた映画としか思えなかった。それほど、心揺さぶられた。

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これまで、何度も観たいと思える映画に出会ったことがなかったけれど、これは観てみたいと思う。清々しいほどにいい映画だった。薄れゆく記憶の中、何が良かったか書き残しておきたい。

以下、見ている人にしかわからない文章です。

 

作品の筋

大きく三つの筋があったと思う。

  • 死者と現世との関わり
  • ミゲルのサクセスストーリー
  • ミゲル一家とデラクルスとの戦い

このどれもが有機的に絡み合って、一本の物語を成していた。

 

死者と現世との関わり

これが一番の主題だったろう。「死者の日」。日本でいう「お盆」をストーリーの真ん中に置いて、死者を祀って忘れないでいることの大切さを説く。

・死者の国の存在

・死者の日に現世に渡るためには誰かが祭壇に写真を祀っていなければいけない

・死者の国で生きていくためには生前の思い出を誰かが覚えていてくれないといけない

ベタながらもこれらの設定が巻き起こすファンタジー。

忘却が二度目の死を生む中で、ヘクターとココ、ミゲル、デラクルスの関わりが一番の泣き場だった。

娘・ココのために書き下ろした曲、「リメンバー・ミー」を、ココが忘れかけているため二度目の死に瀕しているヘクター。対して、ココのために作られた「リメンバー・ミー」を盗作し大ヒット、世界中の人に記憶されているデラクルス。そして全ての真実を知る、唯一の生者、ミゲル。

ヘクターの不遇に涙、ココが忘れる前に真実を伝えられるかのハラハラ、ミゲルに真実を託して消えようとするヘクターに、また涙。現世に戻ったミゲルがココに歌いかけた「リメンバー・ミー」でココの記憶が戻った瞬間にさらに涙、現世でのヘクターの沽券回復にも涙。

多分、誰もがそうだ。みんなここで泣いている。とかく生死とか忘却とかの話に僕らは弱い。脆い。

 

ミゲルのサクセスストーリー

コレもまた熱い。

ひいひいじいちゃん(ヘクター)がミュージシャンになるために家を飛び出したために苦労を強いられたひいひいばあちゃん(イメルダ)が定めた掟、「音楽を禁ずる」に抑圧されたミゲルの音楽志向。

劇中で、ヘクターのギターに合わせて歌うのが好きだったと漏らしたり、デラクルス主催のサンライズコンサートで圧巻の歌唱を披露したりと、鉄の掟制定者であるイメルダもミュージシャン気質であることが発覚。そりゃミゲルも血は争えないよねと。

デラクルスがひいひいじいちゃんであるという仮説は外れてしまったものの、血縁にミュージシャンがいると踏んだ時のミゲルったらなかった。頑なに次ぐ頑な。僕はミュージシャンになるの一点張りで死者の国を沸かせるのだから立派である。最後は報われるあたりもさすがピクサーなのだろう。

屋根裏部屋のコソコソ演奏から死者の国のステージ、そして現実のステージへ。ミゲルの一足飛びでのサクセスストーリーもとても分かり易かった。

 

ミゲル一家とデラクルスとの戦い

少年少女が一番わかりやすく燃えるのが多分この筋である。

正義の軍団ミゲル一家と、ヘクターを毒殺した上で「リメンバー・ミー」を盗作、その後スターダムにのし上がっていった手段を選ばない男デラクルスの戦い。

デラクルスが悪者だとわかってからの憎たらしさといったらこの上なく、失脚してからの始末のされ方といったら清々しいことこの上なかった。

つまりが勧善懲悪のストーリー。みんな大好き勧善懲悪。

デラクルスがひいひいじいちゃんかもしれないとミスリードさせてからの手のひら返しも、ちょっとしたどんでん返し気分を味わえて良い。多分なんぼか伏線が仕込まれてたと思うがしかし、そこまで気が回らなかった。もう一回観てみたときにでも。

 

 

心が揺さぶられたワケ

映画や漫画、音楽のような芸術作品において、僕たちが「良い」と思う基準とはなんだろうかと考えたとき、それは共感できるか否かであると思う。お話の流れや曲調を理解できるかどうか、そしてそれが自分の中で落とし込めるか、共感できるか。これ以外にない。

昔ラブソングについて考察した。

 

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生きとし生けるものは、恋愛をしろ、子孫を残せとDNAに刻まれちゃっている。だから大なり小なり形態はどうあれ、僕らは恋愛をする。そのため、ラブソングにはいつだって共感できてしまう。そんな話。

 

ディズニーのような一応子供向けに作られている映画は、とかく共感がしやすい構造になっていると思う。代表的なのが勧善懲悪で、「悪いものは駆逐されるべきである」といったプロットは神話の代から続いているほどに共感されやすいお話である。

恋愛や勧善懲悪の映画作品が多いのは、商業ベースに乗っている映画において外しにくい題材でもあり、誰もが作品として残したがるテーマであるためだ。

 

今回のリメンバー・ミーも、漏れなくそう。

普遍的なテーマである生死観を幹として、思春期に誰もが味わったであろう「家」や「ルール」の面倒臭さやそれを突破していくミゲルの意志、さらに解りやすい勧善懲悪も乗っけて提供されているのである。面白くないわけがない。

 

 

共感度合と良し悪しが比例するなら、共感の度合が激しいほど良作と認識される。

今回、僕個人にとってのリメンバー・ミーは、あまりにも共感が過ぎた。

 

 

祖母が亡くなって初めてのお彼岸がこの間あった際には、祖母の家にいってひとしきり感傷に浸ってきた。滋賀にある本家のおばちゃんが亡くなった際の法要に出向いた際には、遠い親戚と古い写真を見ながら共通の先祖の話をした。その写真の多くは誰だかわからない人になってしまっていた。100年前にもなっていないのに。このところそんな調子で生きることや死ぬことに関して考えることが特に多かった。

また、僕の傍らにはずっと音楽がある。ギターも弾けばピアノも弾くし曲も作る。大したレベルじゃないにせよ、ずっと趣味で続けている。何度かステージにも立って、音楽で食べていこうとする人とも何人か知り合って、その魅力も感じている。サラリーマンに何不自由ないけれど、じゃあ今すぐ音楽で食べられる道が開かれているとしたら、僕はどうするかわからない。

そして頭が悪いので勧善懲悪みたいなわかりやすいストーリーにカタルシスを感じやすい。

 

役満だった。明らかに、僕のための話だった。

 

 

その上当たり前だけど馬鹿みたいに映像は美しい

「魂のガイド」たちの色彩にしろ、街並みにしろ、平気な顔して僕らの想像の450度くらい上をいく死者の国を作り上げるピクサーの技術力にひれ伏す。

共感の渦と美麗映像の雷に打たれ、あえなく大感動してしまった。

 

 

まとめる

感想を絞り出さなければいけない作品は、多くある。

何を伝えたかったのかわからない映画や本。それらにも必死に意味付けしながら、共感しながら感想文を書いたりするけれど、本当に自分に合った作品、世の中に認められた作品は、感想なんて簡単に抱けてしまうものらしい。それもたくさんの感想が頭の中に一気になだれ込んできて、果たして何に感動しているのかがわからなくなる。

感想を解きほぐすにも時間がかかるし、一回見ただけじゃ何に感動したかわからないから、もう一回見たい気持ちに狩られるのだろう。

 

リメンバー・ミーにはそうそうない貴重な体験をさせてもらったように思う。

個人的大傑作でした。

大満足。

最後の夜桜

今週のお題「お花見」

帰り道に通りすがる民家に、不相応なほど大きな桜が植えられている。北海道の投げ売りされているような土地であらばともかく、東京の土地である。さして広くはない敷地の中に、大きな桜。その桜をに沿うように、街灯が一つ照っている。

夜桜。

色味や輪郭がわからなくなる夜。そこらじゅうがぼやける中、桜だけが確かな輪郭と色を保っている。モノクロの中でそこだけがフルカラーのように際立つ。夜桜は夜と対比するからこそ綺麗だ。

 

母方の祖母が亡くなって初めての彼岸に線香をあげに行った。

鉄工所の女将として生涯を尽くした祖母は、晩年、じいっと外の景色を見つめ、往来する社員たちに声をかけ続けた。ご苦労さん。いらっしゃい。よくきたね、なんか食べて行きなよ。小さな体を大きな座椅子に寄りかけて、半身をコタツに突っ込んでぬくぬくと暖をとりながら、目だけは外を見つめていた。寝付くギリギリまでそうしていた。

久しぶりに尋ねた祖母の家。写真だけになってしまったものの、祖母は変わらず同じ席から外を見つめていた。朗らかというよりは、キリッとした写真を遺影に使ったため、まさに女将という感じで未だに工場を見ているようであった。

 

亡くなる6、7年くらい前からじわじわと認知症の影が迫ってきていた。母を含めた祖母の子供達は相当に気を揉んだと思う。最晩年は体も弱って寝たきりになっていってしまったのだけれど、床に伏す少し前、僕と母と祖母と叔父だったか、いとこだったか、何人かで桜を見にいった。

祖母の家がある佐倉市は昔、堀田氏という大名が治めていて、佐倉城跡地が城址公園になっている。公園にはたくさんの桜。通りを挟むようにして枝垂れる桜のゲートを潜るように車を進めた。

そのときも夜だった。街灯に照らされ、手毬のように咲いた桜が風に吹かれて舞う。光と陰を捉えながら降る桜がそれは綺麗だった。

祖母の体のこともあり、車の中からの桜見物。凱旋パレードくらいのスピードで進む車。祖母も綺麗だねぇ綺麗だねぇと言っていた。綺麗だねぇしか形容する言葉を持たなくなってしまったのか、それとも心からの感動を綺麗としか言い表せないのか。後者であれと、祖母の言葉を聞きながら思ったことをよく覚えている。


最後はすべての力を使い果たして逝った祖母。きっと記憶も脈絡のない断片的なものになっていたろう。その片端にあの夜桜はあったのだろうかと、家路の夜桜を見て考えた。

認知症が、忘れるということが、世の中の煩わしいことを一つ一つ落としていく過程であればいい。綺麗なものや美味しいものだけが残って逝けたのならいい。何時、何処の景色かはわからなくても、最後に見た桜くらいは脳裏をかすめていただろうか。誰も知り得ない夢うつつの中で。

酒に学び、まねぶ。

学ぶというのは、まねぶ、真似をするところから転じた…みたいな話が頭の片隅に残っている。「やってみていってきかせてさせてみせ…」と山本五十六も言っている。やる、させてみる、まねさせる。これが熟達には必要不可欠なサイクルなのだろう。

学ばないことが僕にはたくさんある。

食器を放ったらかしにしてたら後から苦労するのは経験的に知っている。けど、学ばない。仕事でもそう。情けないほど学ばないことがたくさんある。

こうしちゃダメだってことは覚えているものなんだけど、覚えると学ぶには大きな隔たりがある。覚えていて、知っているのに学べない。学ばない。

そう、酒である。

酒に対する頭の悪さたるや。筆舌に尽くせない。九割九分地獄の苦しみが翌日に大口開けて待っているのがわかっていても、いきり勇んで、元気よく楽しげにフォーリンダウンする。バカなのかと言われれば、バカだ。それ以上ではないが、以下の可能性は大いにある。

享楽的な愉快さとその後の持続的な苦しみ。しかし都合よく丸一日もすれば苦しみが消えていく。忘れた痛みや苦しみほど説得力に欠けるものはなく、また同じ過ちを繰り返す。全く学ばずに。

例えば、電気が消えるように酔いが襲ってきたら、僕はどれだけの二日酔いを回避できただろうか。あ、今酔っ払った!とわかったとしたら、そこでうまくコントロールできた酔いがたくさんあったように思う。でも違う。酔いは夕暮れだ。ぬるぬると忍び寄り、気づいた時には夜。酔っ払っている。へべれけになっている。夜に入る瞬間の暗さを定義するのが難しいように、酔っ払った瞬間のアラートに気づくのも難しい。そしてまた夜がやってくるのを待っている節もある。酔っ払いは楽しいのだ。なぜ、楽しめるか。それは過去の苦しみに学んでいないからである。以下、無限ループ。

一度だって気持ち良さを感じたことに、抗うのは難しい。麻薬や覚醒剤が持つ作用のように。性にまつわるエトセトラのように。

しばらくいいやと考えていた矢先にもちゃんと酒を飲めるんだから不思議。避けるべきだと思うんだけどね、酒だけに。