徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

そこに坂があるから走る

恩師は坂が好きだった。

鉄道オタクに、乗り鉄と撮り鉄が存在するように、坂にも好き方がの種類がある。タモリがブラタモリで語るような、地理的な坂の好き方もあれば、ちょっと前に話題になった全力坂(妙齢の女性が全力で坂を走る様を鑑賞するTV番組)のような、偏愛的な坂の好き方もある。恩師の好き方は、自身が主体として坂を走る際に、どのような負荷がかかるかを想定して楽しくなる好き方だ。つまり、トレーニングに良さそうな坂かどうかが重要であり、アスリートは身体をいじめることが好きな性分であるからして、坂があると走りたくなる、そこに坂があるから走る。このような思考回路となる。

北海道北見市の道立高校で恩師と邂逅を果たし、陸上競技を通じて師弟関係を深めた。高校から走って10分ほどの立地に陸上競技場があり、非常に恵まれた環境での競技生活だったが、毎日トラックで走るかと言えばそうでもなく、師が好む坂に行き、そこで走ることも多かった。特に冬はトラックが雪に閉ざされる。一方、急勾配な坂には漏れなくロードヒーティングが施され、非常に走りやすい環境であるため、冬の坂はしこたま走ったものだった。

僕の師に対する敬愛が特別深いのか、それとも彼の弟子全員が同様の感覚であるのかわからないのだが、僕は未だに走ることを想定した坂の見方をしてしまう。競技から離れて久しいのにもかかわらず、坂の勾配や長さから、身体をどの程度坂に委ねると大臀筋にうまく力が入るだろうか、などと思考を巡らせてしまう。

 

結婚を機に転居し、1ヶ月と少しが過ぎた。最初の1ヶ月は流石に落ち着かない日々で、婚姻報告の葉書作成(この時勢なので式や披露宴はおいおい考えることとしている)に追われ、名義変更や住所変更に追われ、と、バタバタしていたのだが、1ヶ月も経てばようやっと何も予定がない休日ができてくる。

そういうわけで、近頃走っている。場所は小石川植物園の外周である。

小石川植物園は東大大学院理学部の研究施設なのだが、標本林どころの騒ぎでなく、外周がおよそ2キロ弱ある。植物園自体は件の緊急事態宣言により閉園中であるが、その周囲は市民ランナーたちがテチテチと走る格好のジョギングコースとなっている。

しかしこのコース、非常に起伏が激しい。

小石川植物園は長方形をしている。北西から南東方向が長辺で800メートルほど、北東から南西方向が短辺で150メートルほど、周回がおよそ2キロ。この短辺が、北側から南側に向かって下る、150メートルほどの坂となる。

西側の坂を網干坂、東側の坂を御殿坂という。「小石川」の名前の通り、坂の下にはかつて川が流れていたらしい。名を、氷川とも、千川とも、小石川ともいったようだ。川は昭和の初めに暗渠となるが、地名には当時の景色が色濃く残っている。きっと川にかけた網を干したのだろう。網干坂。さもありなん、という感じだ。一方の御殿坂は、五代将軍徳川綱吉の別邸、通称白山御殿に続く坂道であったことからこの名がついたとのことだ。


この、数百年の昔に名を由来する坂道に文化のかほりを感じながら走っているかといえば、一切そんなことはなく、脳みそに持っていく酸素があるなら血液と筋肉に回したい。勾配およそ3%程度の坂に、身体を委ねながら地面を押す。半分を超えたあたりから大臀筋がアラートを鳴らす。しかし歩みは止めない。そこから腕を振る。四肢が動くタイミングを合わせるように集中する。身体がバラけないように腹筋に力を込める。リズム良く、リズム良く、リズム良く…。


老夫婦やベビーカーを押す夫婦の脇を、テチテチとジョギングする市民ランナーの隣を、ヒィヒィ言いながら疾走する男に何か目的意識があるかといえば、そうではない。

そこに坂があるから走るのである。

消灯指示への力学

3度目の緊急自体と、世の中では騒がれている。緊急緊急と言えばいうほど、緊急の味が損なわれるのは皆が承知の通りであるが、緊急を定義し緊急に該当する状況なのであれば緊急は緊急である。

緊急事態宣言に際し、東京都は夜8時以降の消灯を要請するらしい。罰則規定がある中で、要請は要請の皮を被った指示である。電気消せ、粛せ、緊急事態だから。と、語気強く行政が吠える。呼応するように、電気は消え、世論が叫ぶ。オリンピックとの整合性がない、補償がない、遅い、意味がない。

しかし、いち企業のいち事業所においての外交官のような仕事を仰せつかっている中で、「電気消す」発想に至る思考の過程と力学がわかる気がして、ものすごく面白い。

察するに、これまで2度の緊急事態宣言の効果が十分ではなく、変異株の脅威がこれまで以上に大きいという認識のもとで、具体的な行動として、市井の人々にどのように危機感を持ってもらい、どのように効果のある対策にするかを考えたのだと思う。野党からもより強い規制を!とか言われている。何をどうするか。「休業」は要請した。一定の効果を得たが、より強い効果が必要だ。どうすればいいのか?そうだ!「休業」で弱いなら、「消灯」にしよう!

思考の順番は、そんな感じがする。

目的や理念と、具体的行動は乖離をしがちだ。「Aを達成するためにはBが前提になければならず、そのためにはまずCに対してDをEにしなければならない。だから具体的にCに指示するのはβです!」とかって話が普通にある。事務方はもっともらしくロジックを固める。トップはトップで時間がない中で事務方の説明を聞いて、それだけ考えてそれならそれしかないんだわって声高に「消灯!」と言う。間違っていないプロセスが導く、間違っていそうな結論。でも、間違っていそうと思う人たちよりも何倍も何倍も考えて至った結論。実行するというのはそういうことである。民が何を言おうと、トップを選んだのは民だという究極の天つばを盾に、反省して、考えて、行う。

しかし,事実としてたくさんの生活が破綻している状況踏まえると、考えた道が間違っていたのかもしれない。わからないが。たくさんの人に尻を叩かれ、評されながら、与党はやるしかないのである。やれ!と、思う。でもそれは、まだ僕の生活に魔の手が迫っていないからだとも、思う。

結婚しました

結婚をしました。

僕はずっと一人っ子とばかり思っていましたが、弟が誕生しました。兄のような存在、弟のような存在はこれまで何人かいましたが、義理としても兄弟と呼べる存在ができたのははじめてです。生き物とお絵描きが好きで、面白い角度から世界を見渡している弟です。また、祖父祖母は死に絶えたと思ったらおばあちゃんが復活しました。京都にいるようで、まだ会ったことがないですが、早く会ってみたいなあと思っています。そしてなんと、父と母が増えました。父母1人ずつだったはずですが、それぞれ1人ずつ増え、4人になりました。増えた父はギターが好きでお肉の脂身が嫌いなおじさまで、増えた母はスポーツ大好きでギャグセンスが鋭いおばさまです。これらの変化、どれもこれもが妻のお陰です。妻という存在が生まれ、妻が家族となり、妻の家族が家族となりました。

 

妻とはテレビがついていない食卓で話をしていても違和感を感じません。黙るもよし、話すもよし。共通の趣味があったり、共通のコミュニティに属していたり、そうした共通の話題が豊富にあるわけではありませんが、例えば、変わった形の石ころを見つけたら、その話を朝晩とできるような間柄です。少なくとも僕はそう感じています。

もう少し具体的な話をすれば、昨晩、話の流れで「ファクト」という単語が出てきた際、数秒の間を置いて妻は突如首を振り始め、僕は「a fact of life」を歌い出し、その後笑い転げました。

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特に口裏合わせずともシンクロする。似たような時代を生きて似たような刺激に触れてきた気の合う人間と生きるというのはこういうことなのだと思います。

人生なぞ、毎日毎日話題に富み、毎日毎日趣味の話をするわけじゃないので、石ころの話のような日常を面白がれる人と結婚できてよかったですし、a fact of lifeごっこができる人とでないとうまくいかなかったろうなと思っています。

 

さて、なぜ妻と結婚したのか、と問われると、なんとも難しいところがあります。まずそもそも結婚したかったのか。果たして一般論として結婚したかったのだろうか、と、妻と付き合い出す前の独身時代思い返してみても、結婚への意思を強く表明したことはなかったように記憶しています。

でも、事実結婚している。妻と付き合うなかで「結婚する」という解を導き出したのはなぜか、と言えば、「タイミング」と「縁」に尽きます。こんなに信用ならない言葉もないですね。では、具体的になんだったのか。

「タイミング」とは何かといえば、僕の場合、「独身サラリーマンの楽しさを知ったタイミングだった」の、「タイミング」だと考えています。一個人の実感として、歳をとるごとに人生が楽しくなってきています。理由として思い当たるのは、人生における裁量の拡大です。今僕は東京に住み、サラリーマンとして横浜で働いていますが、極端な話、ある日突然オーストラリアへの移住を決意し、ちゃんとしたステップを踏んで会社を辞し、カンガルーと暮らしても、一切問題ありません。これが裁量です。場所も、時間も、金も、人も、歳を重ねるにつれ全てにおいて裁量が大きくなっていっている。これが、社会人なのでしょう。それも、独身の、です。社会人になって6年ほどになります。新卒一括採用により社会一般的な独身若手サラリーマンとして過ごしたこの6年は非常に楽しいものでした。苦しむも楽しむもハメを外すも真面目も、自由。雇われ、年を追うごとに少しずつ給与が上がり、歳を取るごとに少しずつ難しいことをやらされる。全てを僕なりに一生懸命やりました。とても楽しい日々でした。それもそのはずです。愚直に部活をすることしか知り得なかった青年が社会に出て、触れたことのない種類の刺激に触れたのですから。しかしこのように、「社会は楽しい」ことを知ったことで、逆説的に結婚してもいいように感じたのだと思います。きっと、楽しさを知らずには結婚の選択肢は生まれ得ませんでした。楽しみ尽してはいません。しかし、楽しいことを知ることができたことが、結婚を選ばせたと思います。

では「縁」とは何か。意訳すれば、「たまたま気の合う容姿が好みな異性と出会い、たまたま恋仲になり、たまたま両家ともにその仲を歓迎したこと」ではないでしょうか。全部たまたまで、これは不思議なことなので、誰かが「縁」と呼ぶことにしたのだと思います。僕もこればかりは不思議だなぁと感じています。妻には僕から付き合ってほしいと言い出しました。まだその頃はこの人と結婚をするとは思っていませんでしたが、付き合い出してひと月も経つ頃には、「こりゃ結婚するだろうな感」がありました。それまで付き合ってきた人とは違う感じがしたのは、「タイミング」のせいもあるでしょうし、本当に「縁」がなせる業だったのかもしれません。事実、実父実母と義父義母の関係性は非常によく、何やら楽しそうに実家同士で電話しあったりしているようです。この時世、全員が一同に会したことがなく、伝統的な婚姻のステップを踏めてはいないのですが、それでも結果としてこのような治りになっているというのも、「縁」の力を感じずにはいられません。

 

まもなく、結婚してひと月が経とうとしています。桜が満開になる頃に結婚しましたが、すでに桜も散り、道の脇にはハナニラが咲き誇っています(妻は植物に詳しく、道ゆく植物の名をよく教えてくれるので、僕も草花に詳しくなってきています。今年はハナニラを覚えました。シクラメンも覚えました。)。引越しもして、文京区民は千石の民となりました。東京に出てきて三度の引越し、4つ目の自宅です。錦糸町や蒲田とは少し趣の異なる、世田谷は仙川に似た雰囲気の街と感じています。この土地でもまた新しい縁があるのだろうなと、楽しみな気持ちでいます。

ようやっと落ち着いて物を書く時間が取れました。

また、時間と脳味噌の状態がうまく合致した時にでも、筆を取ろうと思います。

「ととのう」の真相

徒歩5分圏内に銭湯がある。数年前に新装開店をしたようで、下町の銭湯にしては場違いな程に綺麗な銭湯だ。ここ半年ほど、足繁く通っている。

目当てはサウナだ。

サウナと水風呂。この往復により自律神経系が正されるという。巷では「ととのう」と表されるこの効能だが、その実は「ととのう」なんていう丸っこい文字面で表せるような可愛いものではない。カッピカピの紙粘土に水にブチ込んで粘性を取り戻すような、あるいは、チリッチリの癖っ毛に薬剤をブチ込み、熱をガンガン加えて直毛に矯正するような、荒療治だ。

 

長く助走を取った方が遠くに跳べるって聞いた

これはMr.Childrenの「星になれたら」の一節。

高ければ高い壁の方が登ったとき気持ちいいもんな

これも、Mr.Children、「終わりなき旅」の一節だ。

桜井和寿が歌った努力の先の達成。わかりやすい返報性の論理は、そのままサウナにも通ずる。

摂氏110度から120度に保たれた個室。四方は木。檜だろうか。大変に汗を吸いやすい材質でできている。空間が汗を流せと訴えているようだ。そんな個室の中で、ただ、熱さと向き合う。かべに取り付けられた砂時計は5分を告げる。砂の落下と汗の落下。双方とめどない。まずは10分間のサウナを自らに課す。砂が、一度全て下に落ちる。砂時計をひっくり返す。それからが勝負である。熱さと息苦しさが襲う。心臓の音がはっきり聞こえる。熱い、熱い、熱い、熱い。苦しさでいっぱいいっぱいになりながら、二度目の5分経過を待つ。情報過多の現代社会。誰しもが常に何かの情報に触れているだろう。電車の中でも、食卓でも。ところがサウナはどうだ。ただ、「熱い」「苦しい」。これほどまでに自らの原始的な感情に向き合うだけの時間があるだろうか。(いや、ない。)

僕は君と僕のことをずっと思い出すことはない

だってさよならしないなら思い出にならないから

これはBUMP OF CHICKEN「飴玉の唄」の一節。

藤原基央が歌った、思い出にならなければ思い出すことはないというある種の逆説。これはそのままサウナにも通ずる。

子供の頃、水風呂の存在が不可思議で仕方なかった。肩まで風呂に浸かるよう指導されてきた身だ。温まりもしないただの水の風呂に入るオヤジ共は何が楽しくて入っているのか。一切理解できなかった。

「思い出」にすることができないと、「思い出す」ことができない。サウナで「熱い」「苦しい」だけしか考えられなくなって初めて、「水風呂」の意味を知る。

10分間のサウナから出たての視界は、FPSで瀕死状態になった際のそれに似ている。視界が狭まり、心臓の音と呼吸の音が体内で反響する。ウォーキングデッドさながらの歩調で部屋から抜け出し、シャワーで汗だけ流して、水風呂に入る。平清盛は熱病で死んだという。死に瀕した清盛を水風呂に入れると水風呂が沸騰したという逸話があるほどだ。しかし、きっと水風呂に入った清盛はさぞ気持ちよかったのではないか。摂氏20度に満たない水に身を浸すと、たちまち、膨張していた血管が外側から冷やされるのが分かる。冷と熱のスクランブルに身体は戸惑う。が、30秒もすれば冷たさを感じなくなくなる。身体の表面は冷たいのに、内側は熱い。肺は熱いのに、喉を通る息は冷たい。いよいよ水風呂が心地いい。水風呂に時計はないが、この心地いい感覚を得るまでおよそ2、3分というところ。水風呂から這い出す。

ウァンウァン、としか形容し難い。膨張と収縮を繰り返した血管に流れる血の音なのだろうか、体内から、脳から、ウァンウァンと音がする。頭が重い。ふらつきながら、お誂向きに用意されている椅子に腰掛け、目をつぶる。視界がまわる。まぶたの裏の暗闇の中で、視界がまわる感覚がする。しかし、気持ち悪くはない。まぶたの毛細血管に血が流れるのがよくわかり、視界の周り方も相まってマンダラかのような視界が広がっていく。気持ちいいと心地いいのマーブル。まぶたの裏のロールシャッハ。身体のコントロールが効かなくなるとともに、効かない状況に身を委ねるこの瞬間が、快。この瞬間こそ、快。全身が無理なく、生命を保てている感覚となる。宇宙誕生から太陽系の形成、地球の大気発生、海の存在、生命の誕生、好気生物、水棲から陸棲へ、哺乳類、有胎盤類、ネズミ、サル、人間。全ての瞬間が、今この快の瞬間に紐づいている感覚に襲われる。ハイライトのように脳裏によぎるのはこれまでの人生の様々な瞬間。心震わせたこと、後悔と功名。人生は素晴らしい、人生は素晴らしい!

気がつくと10分15分と時間が経ち、身体が冷えてくる。再度サウナに向かう。

 

これを2回繰り返す。回を重ねるごとに人生を讃歌できる度合いが薄れるため、2回程度がちょうどいい。しかし、これが「ととのう」だろうか。やはり、そんな甘いものではないと思う。「ととのう」といえばちょっと直すとか、片付けるとかのニュアンスだろう。しかしこちとら宇宙の果てまで思いを馳せた上で生を謳歌しているのだ。破壊と構築。死からの復活。業火に焼かれて不死鳥が生き返るように、110度に熱され、水風呂に身を浸すことで生き返るのだ。

 

そんな愛用のサウナとも、まもなくお別れである。

また後日、それについては書こうと思う。

「眉村ちあきのすべて」を観てきた

横浜は黄金町。ファッションヘルスが軒を連ねる酒池肉林の中にポツリと佇むシネマジャック&ベティにて、表題の眉村ちあきのすべてを観賞してきた。たまたま予約したタイミングで舞台挨拶もあり、監督とプロデューサーの対談を眺め、パンフを買い、サインまでもらってきた。ありがとうございました。

 

映画『眉村ちあきのすべて(仮)』公式サイト

 

去年渋谷のパルコで上映していたのは知っていたのだが、観に行くタイミングを逸し、特に鑑賞への執念が沸いたわけでもなかったため放っておいた。しかしたまたま一昨日、Twitterでジャック&ベティ上映の情報を目にし、しかも晩酌の時分、次の瞬間には席を予約していた。勢いである。ジャック&ベティで演っていたのもよかった。以前フジ子・ヘミングの映画を鑑賞した際にお世話になった。こういう映画館が近くにあると、また少し人生が狂っていたかなぁとも思う。

 

さておき、眉村ちあき、通称ちちゃんである。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

一昨年になる。アルバムを買った。この時期このアルバムしか聴かなかったほどに聴き込み、いまだにしょっちゅう聴く。詳細は昔の私が熱っぽく語っているのでそちらに譲る。

よくよく聴いていると言って、じゃあライブに行ったりグッズ買ったり、ファンっぽい動きをするのかといえばそうではなく、ただ一枚のアルバムを好きで聴くという方法が僕の眉村ちあきへの愛情表現のすべてであった。また、たまたま参加したバンドのギターのおっちゃんが地下アイドル時代のちちゃんの写真を撮っていたとか、同僚に勧められたたまたま観た恋のツキの主演の徳永えりが本作にも出演していたとか、勝手に縁を感じる部分が重なった末、愛情表現の檻からいっぽ歩み出し、映画も見ようと思った次第であった。

 

映画を観て、舞台挨拶を見て、パンフレットを読んで感じたのは、「チームワーク」だった。人は一人では生きていけない、一つの目標に向かっていくにも、他人の力が必要だということだった。

物語にはクローンが大きく関わる。一長一短のクローンたちの奮闘と、チームワークにより成り立つのが弾き語りトラックメイカーアイドル「眉村ちあき」。映画の制作に奔走したのは、監督とプロデューサー。同じ映画に向き合っている人間であるのに、プロデューサーは実業家としてプロジェクトを成功させることを目的とする真人間であり、監督は出立も目つきも少し変わった天才肌で、一番ぶっ飛んでいるのが被写体「眉村ちあき」。五角形のようなマトリックスには現しきれない様々な能力に数値を振り分けた様々な人間が結託し、作品は生まれ、世に出る。

なるほどなぁと、ぼんやり帰り道に考えた。

 

映像としては本当に明るくなく、多くは語れないが、ラストの展開は低予算映画の醍醐味が肉汁の如く溢れ出すため、その筋の映像作品が好きな人は見てみると面白いのかもしれない。

それ、誰目線よ

1日に多い日で100件程度のメールが入り、電話は30件ほどかけ、同程度の数の着信が発生する。3年ほど本状況下におかれている。慣れてきてはいるものの、それまで生きていきた情報量とは一切異なる状況下に置かれていると、たまに思う。一切の情報を遮断して自分の内面に潜り込み、曲と詩を考えていたい人間が、よくやっている。偉い偉い。

最初の頃は、情報の濁流に飲み込まれ、あわあわしている間に1日が終わっていくような状況だった。めちゃくちゃ辛かった。が、組織の中の自分の立ち位置と役割が把握できてくるにつれ、どの情報がなぜ自分のところに流れてきてきているのかを理解するようになった。

つまるところ、全ての情報は自分に何かをして欲しくて自分のもとにたどり着いている。

「知っておいて欲しい」だけのものもある。が、知っておくということは責任の一端を担うということであり、知った上で自分がどのように行動するか、何かにスタンバイしておく必要があるかを考えなければならない。「締め切りがある資料」もあれば、「お時間ある時に返信ください」もある。「お時間がある時に…」は、目にして10分間で対応しない場合は、記憶の彼方に葬り去られる。本当に必要な情報は日限を区切って要求をしろと思う。

連絡してきた人、情報の内容、日限を総合的に判断して、何からどう対応していくかを考える。とにかく、自分がどう動くかを考える。自分がどう動くか、自分はどうするべきか、自分への指示はあるか、自分ならどうするか。

 

自分の影響の範囲内でどうすればいいかを考えるように(仕事上どうしても考えさせられるように)なると、批評的に物事を論ずる人間が得意ではなくなってくる。何目線で、どの立場での物言いなのか。あなたが言っていることに対して、あなたはどのように行動をし、どのような結果を出しているのか、もしくは出そうとしているのか。と、思ってしまう。それ、誰目線よ、と。

 

偉そうに話すが、ただ、自分が今サラリーマンとして実業界に身を置き、たまたま情報が多く飛び交う部署にいるからこのように感じるだけだ。実業界の人間に提言をすることがミッションの人間もいるし、「三密」と言う言葉の誕生を含めた一連の新型コロナウイルス対策は分科会の提言と実業界の仕事で成り立っている。一日の長同士を出し合って、補い合っているのが社会である。

 

そういうわけで、批評的な論が飛び交うワイドショーのような番組がいよいよ見られなくなってしまったという話であった。人間というのは最も時間と脳味噌の容量を使っている物事に偏っていく。本当はもっとフラットに佇んでいたいのだけれど。うまくはいかないものである。

踏ん張りどころ

仕事の話である。

今、担当している職務では、いろいろな種類の仕事に携わる。現場をブンブンとぶん回すこともあれば、原理原則からイエスかノーかを判断することも求められる。また、どっちの道に進むか、判断すべき人にどういう判断をしてもらうかをうんうんと考えることもある。いろいろな種類の仕事の球がランダムにどんどん飛んでくるものだから毎日アドレナリンがドバドバ出ている。刺激中毒である。

一つの担当として判断していいレベルの物事であれば話は早い。真摯に考えて、これまでの判断と齟齬がないように、かつ、法にも触れないように判断すれば良い。だが、大抵の場合組織としての回答を求められるので、組織の長に対して判断を求める。ノーアイディアで組織の長に突っ込むような仕事は愚の骨頂である。担当者として、担当している観測範囲から考えうる最適解を用意して、シナリオを描いて、長に判断してもらう。

判断をもらう時点で、一つの物事に対して最も考えているのは誰だろうか。それは、自分である。担当者として考えて、説明して、判断をもらう。その時点では自分がその物事に対して一番考えているし、考えていなければならない。これが極まってくると、「お前がそういうならそれでいい」境地に達する。これはブレーン冥利に尽きるというものだ。一度は言われてみたいワ。

 

さておき。

人事部について回るのが勤怠と給与である。ワークペイ。ノーワークノーペイ。働かざるもの食うべからず。働いたら食べてね。今、事業所の就労状況を確認する担当として、働き方に関する判断と、判断仰ぎをよくする。

泣く子も黙る緊急事態下、働き方もそりゃ変わるというもので、現場の皆様には大変な苦心とご迷惑をおかけしながら偉そうに「こういう風に働いてください」と伝達をする。全社の指針はあるものの、当事業所約1000人以上の従業員に対して、「こう働いてください」と指示するわけである。慣れてきたものの、大変な仕事を仰せ使っている。

この、「こういう風に働いてください」は流石に自分の判断でポイっと伝達できるものではない。然るべき立場の人の決済のもとで、伝達をする。そして、伝達までに、最も働き方に対して考えていなければいけないのが、僕だ。

 

先月下旬、大きく働き方に変化をもたらす指針が出された。当事業所でどのように落とし込んで、どう実施をしていくかを考えるのが僕の役目だった。諸々の要素からして、非常に複雑なマネジメントを現場に求めることになる。一方、効果がどこまで望めるかといえば、大きなものではない。

僕は指針として十やるべきところ、八まではやりましょう、ただ、残りの二は実施しても煩雑すぎて馴染まないし、効果も大きくないため取り入れる必要はないでしょう。といった趣旨で然るべき人に話をし、決済を得て、実施に移った。

 

この時に十まで踏ん張りきらなかったことが、僕の担当としての誤りだった。

結局、この八までやって二はやらないとした判断が、勤怠を締める際に波紋のように広がり、混乱をもたらした。最終、会社の経費を余分にかけて従業員の給与に不公平感をなくすか、従業員に不公平感は発生するが会社の経費を削減するかの判断となり、従業員の不公平感をなくす方向に進んだ。踏ん張りきらなかったから、会社はまた少し貧乏になった。

 

僕が考えたストーリーは、その時点の現場へかける負担と自職場にかかる負担とを考えたものだった。負担しか考えておらず、全部やりきらなかった時に発生する混乱について、把握はしていたが棚上げをしたのだった。安易な方向に持っていこうとしたということだ。

従業員にシワが寄る結末にしなくて本当に良かったし、そういう意味での最低限の仕事はしたのだろうが、ただ、踏ん張りきれなかったために、多くの人の余計な仕事を増やしたのも事実だった。

 

 

そうそう容易い日々は過ごしていないのだが、特に時間的制約が厳しく影響値が大きい判断を迫られた時、どこまで逃げずに考えられるかが本当に大切なのだと改めて身に染みた。

今後、きっと幾度となく同じようなシチュエーションは訪れる。負けずにまた。

にいちゃんの死に寄せて

亡くなった人がいる。

友人とも知人とも違う距離感にある人だ。客観的な事実から僕と彼の関係性を言い表すのであれば「父親同士が高校の同級生」なのだが、親父同士、家族同士の距離感が日暮里と西日暮里の駅間ほどに近いため、ほとんど家族のような関係である。

 

彼の家は常呂にある。ここ2、3年はカーリングで名を挙げている町だ。15年ほど前の市町村合併により、常呂は北見市に合併した。それからというもの、北見はいやしくも「カーリングの街北見」と、我が物顔でカーリングを観光資源化しているのだが、そもそもは常呂の文化だ。

それとは別に、常呂は水産資源に恵まれている。サロマ湖に隣接しており、ホタテの養殖が盛んに行われる。

例に漏れず、彼の家業も漁師である。

正月やゴールデンウィーク、盆やらなにやら事あるごとに、我々家族は常呂の家に遊びに行き、ホタテやサケやイクラをたらふく食べては酒を飲む。僕が上京してからは、帰省に託けて遊びに行くようになった。帰省したのに常呂に行かなかったことはない。やはり親族に近い関係性だろう。

 

彼は1週間ばかり前に亡くなった。2年前から病を患い、克服したと思ったらまた再発して、そのまま逝った。

 

彼は僕より6つ年上だ。敬称はにいちゃんだった。彼には二つ下に弟がいて、一人っ子の僕にとって、二人のにいちゃんが常呂にいるような感覚だった。

古くは、女満別かどこかの海で海水浴か潮干狩りかをした憶えがある。僕がまだ幼稚園児の頃だった。小学生の二人のにいちゃんと、そのまた親戚のにいちゃんに囲まれて遊んだ記憶がぼんやりと残っている。

その後、彼はオーストラリアに短期で留学する。確か英語の弁論大会で優勝したからだった。彼はその頃中学生だったろうか。マライアキャリーを聴いて英語が面白いと思ったと話していた。音楽の趣味が早熟である。ミスチルでもGLAYでもなくマライアキャリー。しかしその後彼が英語を喋れるようになったのかはよく知らない。

高校は札幌に出て行った。彼が15歳、僕は9歳。物心が着く頃に彼は常呂からいなくなった。大学、就職と東京に出ていたため、しばらく彼とは年に一回正月に顔を合わせる程度になる。

彼が大学生の頃。すなわち、僕が中学に上がった頃だが、彼は突然タイに傾倒した。きっかけは確かテコンドーを大学でやったからだったと記憶している(テコンドーをやりだしたのが先か、タイに傾倒したのが先かは定かでない)。彼の実家のリビングで彼のテコンドーを見た。僕は今も昔も特段格闘技に興味がなく、横目に見ていた。彼は歩行時などに謎のスパーリングをするようになる。シュ!シュッ!身体のどこかでリズムを取りながら歩くような所作をよく覚えている。

積極的に料理をするようになったのも大学生の頃ではなかったろうか。タイから持ってきただか知らないがナンプラーをたっぷり使った料理を皆に振る舞っていた。これはとても美味しいものだった。中学生の舌には強烈だったが、悪い味ではなかった。

彼は三年かそれくらい東京でサラリーマンをして、実家に戻ってきた。家業を継ぐために。すれ違いで、僕は大学生になり、東京に出た。

僕が大学2年か3年のころ、彼が東京に遊びにきた際に飲みに行った。家族同士の付き合いを超えて会ったのはこれが初めてで、結局のところ最後になった。彼は東京で働いていた頃に行きつけだった渋谷の居酒屋に連れて行ってくれた。東京にいた頃の友達と僕と、彼。3人での飲み会だった。漁が思ったよりしんどい話をしていた。明るく楽しくしんどい話をする彼からはしんどさは伝わってこなかった。この時、隣の席にたまたま居合わせたのが、我々家族がよく利用する和琴半島の温泉宿、三香温泉のマスターの息子である。思いもかけず大変オホーツク濃度が高い酒空間となり、とても盛り上がった。

僕が社会人になってからは、もっぱら正月に帰省した時に顔を合わせた。彼はよく出かけていた。北へ南へ、昼に夜に。僕らの家族が昼前に常呂に到着し、酒を飲みだした頃に起きてきて、同じ食卓を囲んだ。次第に漁をするだけでなく、加工品を販売することや魚料理を世に広めることに熱を注ぐようになって行った。僕の就職先が大きな小売店だったこともあり、いつかうちでも販売ができたらいいななんて話もよくした。

 

彼の両親は、彼を心配した。魚を獲って売る漁師からはみ出ていく彼への理解と心配。それは、病に罹る前に動き回る彼に対しても、病を一度克服してからさらに活発に動き回る彼に対しても、様々な表現を通して心配していた。僕は、彼の活動を遠巻きに見ていた。そして心配をこぼす彼の両親の言葉を、帰省のたびに酒を飲みながら聞いていた。夢と思いと、どこから湧いてくるのかわからない自信に溢れた彼の姿が危うくも感じた。

しかし彼には表し難い魅力が備わっていた。それは、常呂の漁師という、食糧にも生活にも困らない育ちに起因する懐の深さのような気もするし、それよりももっと不可思議な、特別な星の下に生まれたとしか言い様のない魅力だった気もする。小さなことでは弁論大会で優勝してオーストラリアに行ったことや、病気になったこと、それを一度克服したことも、全て、彼が彼として彼の人生をコーディネートしているようだった。

親の心配をよそに、彼のもとにはたくさんの人が集まったし、彼自身もどんどんと世に出て行った。輪の中心にいるのがとても自然な人だった。

 

箱根駅伝を点けながら、僕は今東京で文章を書いている。例年、今日は僕の家族が彼の家に遊びに行く日だ。正月の食卓。今年はみんなどうしているだろうか。彼がいなくなっても、彼の父はチタンのグラスにウイスキーをなみなみに注いでロックのような水割りを飲んでいるだろう。彼の母は鯨のお汁を作っている。弟は奥さんと子供達を連れてリビングにいる。近所に住む親戚もみな集まってきているはずだ。目に浮かぶ光景にただ彼がいない。昼ごろのそのそ起きてくる人はなく、彼と彼の父とのいざこざも、それを見ている彼の母の諦念も、もう見ることはない。寂しい。

僕の父は、細くてもいいから子供には長く生きてもらいたいと言う。子を持つものの当然の気持ちだ。彼は、彼が生き存えることを願う誰よりも、生きることを望んだろう。しかし、力尽きた。だったらせめて、死を予感したこの数年間、彼が思うように生きられていたのならと、心から思う。

 

 

帰った時に手を合わせに行きます。辛かったろうに、闘病よくがんばったね。たまに連絡をする時も明るいから、なんか大丈夫なように思えたよ。心配しないように気遣ってくれていたんだろうね。漁もない季節だから、おじさんの酒量が心配だけど、えっちゃんが手綱を握るからきっと大丈夫だね。安心して休んでね。また。

電車内でカバンを失くした際の初期対応と心持ち

2020年11月8日(日)22時19分船橋発のJR総武快速線にて、僕はカバンを紛失した。品川にて京急に乗り変えようとした際、駅に降りた段階でカバンがないことに気がつき(千疋屋の手提げ袋は手元にあった)、車内に戻ってしばらくうろついたものの発見されず、新川崎にて諦めの下車、紛失物を確認したもののもちろん拾得はなく、その時点で一文無しなので、様々な駅の様々な駅員さんに相談しながら、命辛々自宅に帰ってきた。

僕が今この文章を書いている時点では、一切が僕の不注意に起きたできごとである。可能性として、「誰かに取られた」線はあるが、明日あらためてJRに確認しないことには事実は明らかにならない。だが現時点で、確かに手元にはない。そうしたとき、今の被害は何で、どう対処すべきかどうかを書き記す。

 

【どうやって電車を降りるか】

これは喫緊の課題として立ち上がった。

PASMOも現金も身分証も、あらゆるものが一切なくなった状況で、どのように乗車を証明し、お金を払うか。その時点で僕は千疋屋のゼリーしか持っていなく、最悪物物交換の線もあると考えたが、そうはならなかった。

結論、一筆書いた。

これは、私個人が、JR蒲田駅の駅長に対して、勤務している会社名まで明かした上で、来週までには必ず乗車賃を払いにくることを誓った文章である。相当重い。ちなみに僕は払いそびれると訴訟を起こされるらしい。誰かに借りてでも絶対払う。

とはいえ、詰まるところ僕が今直面しているような有事の際には、なんとか下車できる。安心してカバンをなくすが良い。

 

【何をなくしたか】

財布

例えば;定期(パスモ)、普通自動車免許、保険証、キャッシュカード2枚、クレジットカード1枚、諸々ポイントカード(近所のライフのカードなど)、現金1万円

会社関係のもの

例えば;会社貸与携帯、職員証等

その他

例えば:イヤホン、小説

会社関係についてはもう明日腹括って対処するしかない。健康保険証もその類。その他、個人に紐づいているキャッシュカードやクレカはすぐさま止められたし、発行もできた。当方、三菱ユーザーなのだが、このアプリはめちゃ便利。すぐ止められるし再発行も可能。有事の際には強い。レビューが高いのもうなづける。

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【明日の通勤】

キャッシュレス決済の行き着く先は、一切現金を持たないことであり、手持ちの現金以外一切を持っていなかったことから、結論、自宅にも一円もない。

そうしたときの通勤をどうするか、である。

明日京急に行ってみないことにはわからないのだが、今晩JRの駅員に聞く次第では、

・あくまで電車は前払い

・定期券内であろうと、定期の現物がないと載せることはできない(過去に不正利用による事件あり)

2点は譲れないらしい。そのため、

「僕が明日朝電車に乗る際に到着駅で誰かに切符を買ってもらい、それを確認したのちに僕は最寄り改札を抜け、電車に乗り、到着駅で待っている誰かと合流したのちに改札を出る」しかないらしい。めちゃシビア。こちとら民事訴訟案件を抱えていると言うのに。

 

以上が状況と実害と対処である。

以下、心情とする。

 

正直、出てこないだろうと思っている。

何が悪いといえば、僕もそこそこお酒を飲んでうとうとしていたのが悪い。だが、言ってしまえば誰でも酒は飲み、うとうとはするわけである。仮にこれが誰かに取られたものとしたら、それはもう喧嘩両成敗の状況なのではとも思っている。ただ、取られた方が悪いは悪い。(捕まったら恐らくだけど取った方も悪い)

私物については、非常にダメージがでかいのはでかいのだが、新しいものを買う機会にもなるので、ポジティブに捉えようと思えば捉えられる。一方で会社のものがあまりにも申し訳ない気持ちでいる。これは痛恨。もう、どうしたものやら。

あと小説だ。

須賀しのぶの革命前夜を読んでいた。

 

革命前夜 (文春文庫)

革命前夜 (文春文庫)

 

昭和の終わり、平成元年になる年にDDR(東ドイツ)に音楽のために留学している日本人の物語だ。半分くらいまで読み進めていて丁度いいところであったのに、これを失くしたのも悲しい。仮に取られていたとして、取った主がこの物語の豊かさに気が付く心の持ち主であればいい。金しか目に行かないだろうか。金は大事で、金がなければ生きていけないが、もし僕の財布に入っていた1万円で金が少し満たされるのであればこの本を開いて欲しい。音楽はいつ何時も同じ姿形を譜面に湛えている。時代だけが変わる。それは景色も気持ちも、全部同じように捉えられる。そんな話である。気がついてくれるといい。

まあ命はあるので、また1から頑張っていく。

 

たくさんの人に迷惑をかけることがただただ心苦しい。

万目すべて凍るなり

1950年代後半。戦後の集結と高度経済成長の夜明け、現代日本の礎が築かれた当時、一般家庭に爆発的に普及していった家電、いわゆる、三種の神器。この一角を占めるのが、泣く子も黙る冷蔵庫である。

「蔵」はそもそもが冷暗であり、ものの保存に適した環境であったはずだ。とはいえ、夏は外気にある程度左右される。食品などは痛みやすかったのだろう。どうにかならないものか。年中摂氏4度か5度程度に温度を保つ機能を加えられたら、食品を傷ませることなく保存が効くのに。そんな夢のような機能を実現したのが、そう、冷蔵庫である。僕の母が生まれた頃に普及が始まったので、当然、平成の頭に生まれた僕にとってはは生活の一部なのだが、世に出回り始めた当時、どれだけ冷蔵庫が便利で画期的な道具だったか、想像に難くなさすぎて想像がつかない程だ。

当然だが我が家にも冷蔵庫がある。上京当時買った冷蔵庫。冷蔵室と冷凍室が一つずつ。7対3程度の割合である。どちらも引き戸式のドアで、高さは1メートルもないくらい。本当に、一人暮らしにおいては一般的な冷蔵庫だろう。

僕の一人暮らし10年間の歴史は、この冷蔵庫とともにある。

しかし、このところ様子がおかしい。

家電は10年が一つの区切りだと言う。なんともわかりやすいものだが、類にもれず我が家の冷蔵庫も、である。何がおかしいかといえば、とにかく凍る。

上段が冷凍庫、下段が冷蔵庫の作りなのだが、冷蔵庫内の上の方、すなわち冷凍庫よりについてはほぼ冷凍庫である。とにかく凍る。うっかり卵を上段に置いた日にはすべての卵がコールドエッグとなる。卵を凍らせた経験がある人がどれだけあるか知らないが、卵は凍らせると内容物が膨張してひび割れる。しかし、凍っているものだから特に容姿に変化はなく、ただ凍ってひび割れた卵が10個誕生する。ヨーグルトはフローズンヨーグルトになるのだが、乳清やら何やらが分離して食べられた代物ではなかった。豆腐も凍らせたが、本当にただの氷となった。変色しておいしくなさそうだったから溶かして食べることも憚られた。

試行錯誤を重ねたのち、キムチを置いている。キムチはなかなか凍らない上に、凍っても氷温熟成されておいしくなる(気がしている)。

 

そんな状況にて、僕の脳裏に浮かんでいるのは、母校の校歌である。

母校、北見北斗高校には、校歌が二つあった。新校歌と旧校歌。どことなくメロディが似た二つの校歌だ。1922年、大正11年に設立された母校は、再来年に創立100年を迎える。新校歌と旧校歌の沿革は不明であるが、旧校歌はまず間違いなく大正11年頃に制作されたものであり、言葉使いからメロディーから、軍歌のそれを彷彿とさせる。

オホーツク海の流氷は 欧露の空の雨雲か
北の鎮の北海を 寒風すさみ流る時
万目すべて凍るなり されど我等の校庭に
千古に青き茂みあり 常盤に茂れる林あり

これだ。

流氷がくる季節とか寒すぎてまじぱおんだけど弊学の校庭はevergreen!って歌である。ノリがやはり月月火水木金金だ。無理がある。寒いは寒いし、木々は枯れる。

半ばの一節。

万目すべて凍るなり。

冷蔵庫を開けるたび、僕の脳裏には旧校歌が流れている。北見北斗高校の校庭はエバーグリーンかもしれないが、僕の冷蔵庫の中の小松菜はカチカチに凍って、血の気が失せてしまっている。そんなものである。

買い替えの時期が近い。