徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

BiSH「My landscape」が公開されて暫く経つが、考えがまとまらない。でも書く。

BiSHの新曲。

暫く前に公開されているけれども。

 

www.youtube.com

 

BiSHといえば、楽器を持たないパンクバンドというコピーを標榜している。

 

パンクと言って、どんなバンドを思い浮かべるだろう。

音楽のジャンル分けなんてあってないようなものだと思っている。特にロック界隈ではスペクトラム的にジャンルの地平が広がっているから、

「ここからがパンクでここからはメロコアでここからはグランジ。でも、だいたい全部オルタナ。」

みたいな分け方なんて出来ない。

 

BiSHがこれまでパンクバンドを標榜して評価を得てきた背景には、松隈ケンタ氏の提供する楽曲が、どの曲も20代でJ-ROCKを儀礼的に通過してきた者たちのストライクゾーンにドンピシャにハマっていたことがあると思う。

いわゆる、BUMP OF CHICKEN、ASIAN KUNG-FU GENERATION、ELLEGARDEN、10-FEET。僕ら世代のロックヒーロー達が築いたレールの上に、BiSHの楽曲が存在する。

その辺りは以前の記事に書いた。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

 

果たして、実にアイドルっぽくない地平を切り開いてきているBiSH。

前回のアルバム「GiANT KiLLERS」あたりからストリングスの鳴る回数が増えてきたと思ったら、今回の「My landscape」である。

 

本楽曲においてのメインはストリングス

ロックバラードのサビに壮大なストリングスが入るとかってレベル感のストリングスではなく、ほぼほぼストリングスが楽曲の中心にある。ギターの登場は一番終了後の間奏まで待たねばならない。

 

GLAY大先生の金字塔「HOWEVER」でさえ、HISASHIが待ちきれずに頭サビの後の感想でギター弾きだしちゃうのに、My landscapeはとことん我慢する。

我慢して我慢して、ようやっと歪んだギターが入ってきたと思ったら、すぐ消える。で、また間奏になったら現れる。ギターロックにストリングスが乗っているのと、ストリングスメインの楽曲にギターが入ってくるのとでは、ガニメデとエウロパくらい違う。

これまでSEX PISTOLSの一派だったはずなのに、気づいたらQUEEN一派に吸収合併されていたような、そんな衝撃を受けた。

 

僕は思う。

もはや、パンクバンドではない。

パンクバンドに表現できる範疇を超えてきている。

 

でもそのくせ、曲の展開は分かりやすいし、コード進行もヒネちゃいない。王道のロックの、豪華ストリングスアレンジ。

意図はなんなのか。別にギターロックにできただろうに。むしろ、ギターロックにした方が簡単だったろうに、何故、こんな大掛かりな曲を作ったのか。

BiSHはこれまで、リキッドルームを埋め、新木場を埋め、Zeppを埋め、さらに幕張を埋めた。急速なキャパの拡張。これに耐えうる曲を作ったのだろう。次はどこだ、アリーナか。

そうとしか思えない。

 

MVへの投資も強烈である。

なんか普通に飛行機の翼の上とかに乗ってるけど、全然それって普通じゃない。

ロケ地はアメリカ、モハーヴェ砂漠とのことらしい。

BiSH新曲「My Landscape」MVに隠された7つの謎とは!? – BiSHと全国清掃員による武道館への道程

素晴らしいまとめがありました。勉強になります。

デビュー曲の「BiSH-星が瞬く夜に」では、結構その辺の道端で撮影していた。

たまたま近くでドローンを飛ばしてたおじさんをひっ捕まえて空撮してもらったなんていう低コストMVを作っていた彼女らが、今やアメリカで飛行機の上に乗ってロケである。

ドローンを使っているような映像もあるが、恐らく自前だろう。

「MONSTERS」の頃はぎこちなさフルバーストだった演技も、My landscapeでは板についている

 

何より、そもそもの歌が上手くなった。

アユニ・Dの出世率が抜きん出ている。

セントチヒロ・チッチ、アイナ・ジ・エンドが二大巨頭としてサビの歌割りを任せられてきたが、これからはそこにアユニも加わるに違いない。全アルバムに入っていた「marionnette」あたりから覚醒の気配を感じてはいたが、本楽曲2番サビに行く前のロングトーンには成長を感じて止まない。

 

 

全然まとまんない。

間違いないことは、11月29日にはいよいよニューアルバムの発売である。

目の前の楽しみを拾い続ける、さもしい日々であるが、少なくとも11月29日までは頑張って生きていく気持ち。生きる。聴く。

飢えに生かされたい

今僕はお腹が空いている。仕事終わり、駅のホーム。めっきり風が冷たくなった霜月の空の下、ひたすらにお腹が空いている。


空腹は断食時間に比例するのだろうか。

本格的な断食は胃腸炎くらいでしかしたことがないからわからないのだが、ある程度規則的にご飯を食べて、胃腸を動かしていた方が強烈に空腹を意識する。


それが今である。


寒さも手伝ってか、切ない気持ちがむくむくと首をもたげ、空腹に油を注ぐ。寒い、お腹すいた、切ない。

するとどうした、頭の中はいち早くご飯を食べたい衝動でいっぱいになる。


駅に着いたらもう外食にしてしまおう。作るのやめよう。


そんな考えに埋め尽くされる。



僕は知っている。

この流れで外食の選択をすると、大抵いつも行く中華料理屋で750円の夜定食を頼み、毎回思いのほか量が多いなと感じながら、食べ終わる頃には家でゆっくり食べればよかったと少し後悔の念に駆られる。

間違いなく、このパターンである。


それでも、寒さと空腹に急襲された脳裏には矢先のことしか浮かばない。

目を閉じれば億千の星ならぬ、目を閉じれば特製の飯。本当は別に特製でもなんでもない。韻だけ踏みたかった。



この、どうにもならない欲望を飼い馴らせたなら、猛烈に動ける人になるのではないかと思う。

常時空腹。

食事を恋い焦がれるパッションをそのまま人生に活かせたのなら。



この間アマゾンプライムで「スラムドッグ・ミリオネア」を観た。

決して裕福ではない、スラムの片隅で生きる少年たちは、常時飢えている上にカネへの執着も強い。死に物狂いで生きて、どんな手段を使っても飯を食い、カネを得ようとする。


とかく満たされがちな日本で、あのハングリー精神を持ち続けられる人がどれほどいるかと思った。

少なくとも、自分は安穏と生きている。死ぬ気になったらきっとあらゆる手段を講じてカネを稼ぎに行くだろう。それをしないのは、ぬるいお湯が心地いいからだ。

死に物狂いさに大きく欠ける。



しかし、今。

僕はハングリーだ。ある種死に物狂いで飯のことを考えている。

例えば手持ちのお金がなかったとすれば家に帰って作るだろうし、家にすら何もなければお金をおろしてでも何かを食べに行くだろう。

もしお金すらも尽きていたら誰かを頼るかもしれない。



ソコソコのお金をもらい、ソコソコの休日があり、ソコソコの暮らしをする。

どれもソコソコである現状は、カネや時間に猛烈な飢えを覚えることがない。



牙を抜かれている。本当にそう思う。

生理的な飢えのせいで食物への牙が剥き出しになっている今だからこそ、日頃の骨抜き具合が鮮明である。

それがいいのか、それでいいのか。

こんな危機感もご飯食べたら忘れんだよね。

「邪魔」という言葉の暴力

ちょっとぉ〜邪魔なんだけどぉ〜〜

電車の中でカップルと思しき二人の男女が乳繰り合っていた。

僕はそれを背中で聞いていた。

女性の口調からは男性への悪意は全くもって感じず、むしろもっと邪魔してほしい。なんなら邪魔なんて言えないくらいにめちゃくちゃにしてほしい。完全に心の門戸をおっ広げているフェロモンがほとばしっていた。

 

何言ってんだこいつらは。公衆の面前で目の前のお互いに没頭していやがる。もっと広い視野を持たねばならんだろう。

ブツブツブツブツ心で呟いているところ不意に、字面が浮かんできた。

「邪魔」

邪な、悪魔。

約めて、邪魔。

何気なく使っている「邪魔」ではあるが、軽々しく邪魔なんて言えないくらいの言霊が文字面に含まれている。

 

邪魔とは、魔である。

邪魔以外の魔を見渡してみる。

悪魔、閻魔、魔界、魔性、魔術、魔道士、魔法、魔族。

1分の思考のもと絞り出したとっておきの「魔」達であるが、どれもこれも曰くが付いていそうな存在だ。魔法こそ昨今のハリーポッター等々魔法使いの活躍により市民権を得つつあるが、それ以外の魔なんてロクな魔じゃない。

 

邪魔とは、邪である。

邪魔以外の邪を見渡してみる。

邪推、邪神、邪気、邪鬼、邪魅、邪馬台国。

やはり1分の思考の元で絞り出した「邪」のオンパレード。どうひっくり返ってもヨコシマな意味合いの単語群である。邪馬台国だって、北九州にあったのか機内にあったのかわからない。

まして邪神。RPGのボスでもなかなか出てこないレベルの凶悪さを剥き出しにしている。

 

そんな魔と邪が繋がってできたのが、「邪魔」となる。

とてつもない恐怖。勇者が立ち向かうレベルの強敵であることには間違いない。

「世に蔓延る邪魔を倒すため、勇者ロトが立ち上がる!」

なんていうドラクエがあっても全然不思議じゃないと思う。

 

 

邪魔。

気軽に使っていい単語ではないことだけは、確かだろう。

少なくとも、フェロモンダダ漏れの猫なで声で呟くような単語ではない。「邪魔」とは、もっと強く、厳しい非難の言葉である。

 

ちょっとした非難の気持ちを表したいときは、是非とも馬鹿を使ってほしい。

あれはどんなに背伸びしたって、馬と鹿だから。

嘔吐下痢

なんとなくムカムカしている。昨日の飲酒が原因か、それとも今日何かマズいものでも食べただろうか。ビオフェルミンでも適当に服めば治るだろう。ビオフェルミンはすごい。乳酸菌ってすごい。

 

ところで、嘔吐下痢という忌々しい病気がある。

幼稚園の頃に罹ったことをよく覚えている。上下水道の完全崩壊であった。全くもって我慢できない吐き気。父に抱っこされながら、あきやまこどもクリニックの駐車場であえなく吐いたことを今でも鮮明に覚えている。

最近でこそ、ノロウイルスだ、ロタウイルスだ、急性胃腸炎だとかの名前がついているが、一昔前まではそれらを総称して嘔吐下痢症としていた。

嘔吐下痢。

嘔吐下痢症。

あまりにストレートすぎるネーミングではなかろうか。嘔吐と下痢が主症状であるから、嘔吐下痢。症状名がまんま病名になっている。

このメカニズムを応用すると、花粉症やハウスダストなどに起因するアレルギーは「くしゃみ鼻水症」であるし、ストレス性であったりアニサキスによるそれは「腹痛症」だ。見たまんま。

 

運動の前に体操をするだろう。急に走り出したら怪我をするのでね、大事です体操。

オーソドックスな体操メニューを思い起こしてほしい。一番最初に何をするか。屈伸から始まることが多いのではなかろうか。

屈伸。

屈んで、伸びる。だから屈伸。

わかる。わかるが、わからない。動作じゃん。それ、動作じゃん。屈伸と言われて、誰もが膝に手を当ててしゃがみ、膝を伸ばす。主語がなくとも阿吽の呼吸で執り行われるそれは、一種の儀式のようである。

南無といえば、阿弥陀仏。

屈伸といえば、膝に手を当てて伸び縮み。

宗教的な要素すら見え隠れする。

 

そのくせ、伸脚は分かりやすい。脚を伸ばす。レ点を入れたらすぐに文章ができる。

 

と思えば、アキレス腱。

アキレス腱。

今度は部位だけときた。屈伸は動作だけだったが、今度はアキレス腱である。

アキレス腱をどうしろと。

「…風呂」

と旦那が一言いうだけで奥さんがお風呂にお湯を張ってくれるような亭主関白極まりない家庭じゃあるまいに、

「…アキレス腱」

と言われただけじゃ何をしていいのやらわからない。わからないはずなのに同調圧力のなせる技か、刷り込みの魔術にかかったか、皆アキレス腱をうんうんと伸ばしだす。

とにかく、今場所の安美錦には是非頑張ってもらいたい。

 

ビオフェルミンを服まずとも、適当にキーボード叩いているうちにムカムカは治った。風呂でも入ろうと思う。

「風呂。」

と呟いてみるも、聞いているのは僕だけであった。

反省を活かさない愚かな生き物

いよいよ引越しをしようと思う。

まだ物件を見たりとかはしていないのだけれど、エリアもある程度定め、検索したら一番上に出てくる不動産サイトで部屋をみる。


グーグルマップを駆使しながら新居の生活を想像するのは本当に楽しい。ストリートビューで辺りをうろついている間に茫漠たる時間が経っている。精神と時の部屋で部屋探ししたい。


部屋を探す、新しい家に引っ越す。

この作業はめっちゃ楽しいのに、それにまつわる瑣末な業務が面倒臭いこと飲みに行っても自慢話に終始する上司の如し。林のように黙ってろ。

いいとして、役所関係の手続き、クレジットカードの手続き、ライフライン、ネット環境、管理会社とのやりとり。何から手をつけたらいいのかわからない。スーパーゴミ屋敷の掃除を命ぜられた気分である。


こういう時に絶対役立つのが前回引越し時の情報。

そう、僕は3年前、確かに引越しをしてきている。全くの素人ではない。しかもブログがあるではないか。何かしらの情報が残っているはずである。


過去の記事を探してみた。

すると、引越しについての感情の動き(旧居への思い・瑣末な手続きへの苛立ち・ダンボールに変貌していく生活への問いかけ・新生活への不安)は克明に記されているものの、実際に何をどこに届けでたとか、次回引越しへの反省などの使えそうな情報は一個も書いてなかった。仕事の出来なさが露呈されている。


というわけで、暗礁に乗り上げたまま陸路をゴリ押していくことになりそうな今回の引越し。

今度こそは使える情報を残していきたい。

固く、決意する。

900記事目 ブログデザインとの格闘の軌跡

これまでの文章書き生活を総括するようなエモったらしい文章を書いてみようと思ったんだけれど、自分でも驚くくらい大した文章が書けなかったので止めます。

 

900記事

900。

なんとも歯切れが悪い。

900記事がどれほどの節目かというと、それはきっと結婚28年と4ヶ月と13日記念日くらいにどうでもいい節目だ。結婚28年と4ヶ月13日記念日も素晴らしい記念日だという価値観もあるだろうが、今はご勘弁いただく。

 

 

この頃ちょいちょいとブログにカスタマイズを加えてあげていた。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

はてなブログproにしたり、デザインを思い切って変えたりした。

大枠はなんとなく見栄え良くなったものの、実際のところ大した進歩はなかったように思う。

 

例えば、ヘッダー。

これまでのブログのヘッダー画像は、ただの故郷の景色にゴシック体で「徒然雑草」と書いているだけの見るに耐えないものであった。大自然に浮かぶ白文字のゴシック体は、天国にいる悪魔のような圧倒的不自然さで佇んでいた。

 

ではなぜ手を加えなかったか。

僕はhtmlとcssの文盲である。あの、ずらずらと何かを定義しているらしき英語の羅列。とっかかる以前に、僕には無理ですと白旗をブンブン振っている姿勢を取っていた。

しかも美術では3よりいい成績をとった試しがない。頭に浮かんだ像を表すことができない。というか、頭に像が結ばれない。イメージできないから、描けない。

プログラムが全く分からないし、美術もできない。つまり、Webデザインというジャンルと対極にいる。なんと美しい三段論法。

そうして逃げ続けていた。

 

でも。

逃げたって、このサイトは僕のサイトである。散らかっている自室があまり嬉しくないように、ゴシック体の浮かぶ風景がヘッダーのサイトもあまり嬉しくない。

できないなりにデザインを良くしたいとの思いを抱えているところ、不意に訪れた900記事の節目。

これはチャンスではなかろうか。

 

僕は歯をくいしばることに決めた。

 

 

ヘッダーの変更

 

まず、ヘッダーの画像を用意した。

 

lf2.hatenablog.com

 

こちらのブログに書いてあった「Canva」というサービスを使ってヘッダー画像を作成した。

大変勉強になりました。この場を借りて御礼申し上げます。

 

「Canva」はありものの素材を切りはりして画像を作っていくサービス。

用意してくれているありものの素材がおしゃれなものばかりで、さも優秀なクリエイターになった気分を味わえる。お父さんに肩車をしてもらった時の全能感と似ていた。

脳内に像を結ぶ必要も、手を動かす必要もない。

そうして出来上がった画像

 

f:id:ktaroootnk:20171106180844p:plain

 

すごくないか。これ、すごくないか。

「徒然雑草」ってブログテーマと「月とうさぎ」には全くもって関係はない。清々しいほどに無関係。

「それっぽい!!なんか、雰囲気ある!!いい!!いい!!」

ってたどり着いたのがこの画像であった。

「Canva」様々である。

 

メニューの色とサイズを変える

とりあえず画像はできた。

次はメニューだ。

前回のテコ入れ時、PCとスマホのデザインが連動する「レスポシンブデザイン」というデザインを採用した。

仕組みは全く分からない。だが、なんだ、すごくイケてた。

すごくイケているため、当時はレスポンシブになっただけですこぶる満足していたのだが、やはりこちらにも気味の悪い箇所が数箇所あった。

メニューを開いた時の色が全部バラバラだったり、クリック(タップ)した際に文字が突如蛍光色に光ったり、そもそものメニューのサイズが大きすぎたり。

この際だったから全部修正をかけた。

 

あらかたのことは「デザインCSS」という項目で作業をした。

蓋を開けてみると、前回の作業でコピペラッシュをした残骸が詰まっていた「デザインCSS」。長ったらしい文字列がデザインを司っているようなのだが、どれがどれに対応しているのか全くわからない。

 

検索するにも、検索した先の言語がまたわからない。

ということで、文字の羅列の中の、数字とか単語をめっちゃ変えまくった。

対照実験である。

 

100pxってなってるところと適当に1000000pxとかに変えて反映させてみるとメニュー欄が無限にデカくなって笑った。

color #ffffffみたいな文字列を見つけては、こいつが色か!って大将のクビを獲ったかのごとく喜んだ

CSSに散りばめられていた「color #」の文字列を切った張ったして、どこの色が変わっていくのかを確認しまくった

ヘッダー画像の色と背景の色を合わせるためにずっと色カタログとにらめっこをした。

 

全く理解し得ないプログラムに戦いを挑む作業。

江戸時代に蘭学を仕入れてきて、読めないオランダ語と戦った蘭学者たちの気持ちに触れた気分だった。

そしてこれが望外に面白い作業だった。

 

「いやお前、そこ変わんのかよ!そこは黙ってて欲しかったんだよ…」

「なんでメニュー全部消えるんだよ…ふざけんなよ…」

「色変わった!色変わったけど画像が増殖した!なんで!なんで!」

 

とかく答えを提示されがちな世の中。

調べればいくらでも攻略サイトが出てくるし、経費削減の一環・ノー残業運動により試行錯誤してもいいけど早く帰れみたいな無茶苦茶な話を上司からは頂戴する。

 

純粋無垢な試行錯誤を久々にやった。一人で感嘆の声を上げたのはいつぶりだろうか。めっちゃ楽しかった。回り道大事。回り道楽しい。

成果はブログページに現れている。他人には変化がわからなくても、不自然がないのであれば僕の勝利だ。

 

プロフィール画像とブログアイコンを変える

はてなアカウントのプロフィール画像とブログのアイコンを変更した。

はてなのプロフィール画像は本当についでだったのだが、ブログのアイコンは何としても変更しなければいけない理由があった。

 

弊ブログの名前は

「徒然雑草」

である。

 

そう、兼好法師による随筆「徒然草」をもじっている。

兼好法師は徒然なるままに硯に向かって、文化財級の文章を編んだ。僕ができるのはせいぜい徒然なるままにパソコンに向かって、データのクズのような文章を編むだけ。

せいぜい、雑草

大半の人が踏みつけていく存在でも、本性は薬草だったり、食料になったりするのが、雑草。

知る人ぞ知る雑草になりたいアスファルトに根付く雑草のごとくしぶとく生きたい。

 

ほとんど適当に書いているけど、まあそんな志を標榜しての「徒然雑草」だ。

 

しかし、これまでのブログアイコンは

「紫式部」

だった。

 

おわかりいただけるだろうか。

紫式部は「源氏物語」を編纂したすごい人。

でも、ブログの名前は「徒然雑草」

紫式部は「鳴くようぐいす平安京」の平安時代を生きた人。(西暦800年頃の話)

兼好法師は鎌倉末期から南北朝の時代を生きた人。(西暦1300年ごろの話)

 

つまりこれまでの3年ちょっと、古文の教科書に載っている人って括りだけで、500年もの時を隔てた一人と一作品をコラボさせてしまっていた。

頭の悪さが伺える。自分でもどこまで本気でこの設定にしたのかわからない。

いつか変えよう。いつか変えようと思ったが3年目。

念願叶いました。

 

ブログアイコンはこれまでヘッダーだった故郷ピクチャにした。

プロフィール画像は多分友達が描いたと思われる絵にした。

当分はこれでやっていきます。

 

あともう一つ

あともう一つ、変更というかやってみたことがあるんだけど、まだ内緒にしておく。

諸々確認次第、発表いたします。

 

 

1000記事に向けて

あと5ヶ月もすれば届いてしまう1000記事。来年4月に達成予定だ。

多分特段変化もなく、このままやっていくことになりそうである。多少露出を高めていく努力をするつもり。

 

作業報告は以上です。

ようやっと僕はピロカルピンについて書く

ピロカルピン

僕が物陰から、静かに見守っていたバンドだ。

ギターボーカルの松木さんギターの岡田さんによるユニットの形を今は取っている。

どこでどうやってバンドが結成されて、どんな略歴があるのかとかの話は、オフィシャルサイトに譲る。僕自身、ピロカルピンの生い立ちを語れるほどのピロカルピストではないので、雄弁に語ることはできない。

ピロカルピン official site | ロックバンド『ピロカルピン』のオフィシャルサイト

これまで、インディーズとメジャー含めて8枚のアルバムをリリースしている。

 

 

出会い

僕がピロカルピンと出会ったのはちょうど今から6年前と少し前。ちょうど上京した頃である。

近所のTSUTAYAで「宇宙のみなしご」に猛烈なポップが立てられていた。

 

宇宙のみなしご

宇宙のみなしご

 

 

カラフルでビビッドなポップに囲まれた「宇宙のみなしご」は激奨されていた。

有無を言わずに聴け、借りろ、手に取れ。鬼気迫る推薦のされ方だった。

 

少し、身の上の話をする。

上京したての当時、僕は環境の変化に見事なアッパーを食らわされ、人生の淵に立たされている気分で毎日を過ごしていた

もう闘えないからTKOにしてくれ。レフェリー、頼むから試合を止めてくれ。こんな絶望的な気分で学生やってるやつがどこにいるんだよってくらいに崖っぷち人間だった。

生乾きの臭いがプンプンするボロ雑巾よりもボロボロだった当時。

唯一の楽しみが、毎日TSUTAYAに行ってCDを眺めることであった。

 

ポイントは、借りずに眺めるところにある。

僕はバイトをしていなかった

部活でバイト禁止されていた*1のもあるし、上手くいかないのにバイトなんかやったら状況は悪くなるばかりだと頑なに信じきっていた。保守的な人間だ。

バイトをしない大学生がどういう状況に陥るかというと、顕著に貧しくなる

バイトしてても貧しいのに、尚バイトをしないをや。

赤字国債を発行することなく事業仕分けのみで採算を取ろうとしている政権の如き、徹底した節制。合わない採算。

 

見定めて、見定めて、稀に勇気を出してアルバム10枚を1000円で借りることが幸せ

その中の一枚に、ピロカルピンの「宇宙のみなしご」があった。

 

 

宇宙のみなしご

7曲入りのミニアルバムである。

ビビッドポップの原生林の中の、「草野マサムネが絶賛!」という文言に目が留まった。

たまに記事にするくらいにはスピッツが好きだ。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

 

マサムネがそんなに言うなら…と借りた。10枚1000円の厳選に勝ち残り、晴れてピロカルピンは我がウォークマンのラインナップの仲間入りを果たしたのだった。

 

衝撃的だったのが、2曲目の存在証明

疾走感という知覚はこの人たちのためにあるんじゃないかっていうほど、圧倒的な疾走感を纏っていた。

1曲目には時間計という曲が入っている。

プロローグというか、アルバムの幕開けの曲。1分程度の短い曲だ。コツコツとメトロノームの音が静かになり続ける。疾走直前の静けさ。

時間計でゆっくりと始まった「宇宙のみなしご」は、フィードバック音のようなフェードインから突然疾走を始める。

 

存在証明

www.youtube.com

 

この音像。この音像が、ピロカルピンだ。

イントロから真骨頂である。

ディレイだろうか。何かしらの空間系エフェクトを盛大にかけたジャキジャキのギターサウンド。難しいことをやっているのか、エフェクターが難しく聞こえさせているのかわからない。浮遊感を感じる音。

その上で、疾走感は失わない

疾走感はテンポが速ければ生まれるわけではないようだ。存在証明なんかは特別テンポが速いわけではないが、息をもつかせぬ疾走感がある。

 

さらに、ボーカル松木さんの歌声

公式HPには、

少年のようにイノセントな輝きを放つ透明な声

とある。

BUMP OF CHICKENやRADWIMPSの子分たちと称しても過不足ない数多のバンドたちが雨後の筍のごとくワラワラと育つ昨今。どのバンドのボーカルがどの声を持っているのか、ごちゃごちゃになりがちである。皆声が似ている

女性ボーカルだって、絢香的なコブシ使い派チャットモンチーのえっちゃんのような可愛い声派かに大勢が分かれがちである。独断と偏見です。

以上のようなカオスな歌声事情の中、松木さんの声はなんとも分類し難い声だ。管楽器にミュートをかけたような響きがある。人とは違う回路で声が出ていそう。この際、上手い下手の括りに意味はない。個性が素晴らしい。

 

そして、歌詞

存在証明の歌い出しはこうだ。

今開け放たれた窓に 光が滑り込んだ

格子戸短かし木陰に 季節が息をとばす

格子戸のわずかな隙間から漏れる光。季節の吐息は光。

理解できそうでできない。ただ言葉の響きは美しい。

この感じは初期のスピッツに似ている。松木さん自身もスピッツのファンのようで、あの綺麗な響きにエグさを隠し込むテクニックを見事に継承している。

格子戸短かし木陰に 季節が息をとばす

存在証明のメロディにこの歌詞の響きを乗せるのは天才の所業としか思えない。

いいから聴いてほしい。

www.youtube.com

しつこく載せる。

 

 

キャッチーか否か

キャッチーの定義は果たして。みたいな論議は小難しい話になってくるので、ひとまず銀河の果てに置いておく。僕の手に負える話じゃないです。

さておき、先に紹介した存在証明。これは非常にキャッチーな曲だろう。

Aメロ、Bメロ、サビがはっきり分かれているし、サビのメロディも、

ほどけた闇に 残した光

真夏の夜の存在証明

の「闇に」「光」の語尾で上の音に当てながら韻を踏んで、「真夏の夜の存在証明」で順番に音階を降りてくる。とっても分かりやすい。

コードも半音下げのG-A-D。若干の憂いを残した王道コード。売れ線。

 

では、「人間進化論」はどうか。

www.youtube.com

 

どことなくコアな感じが漂ってくるだろう。

「ここからがサビです!みんな盛り上がって!」

のような分かりやすいヤマ場が特段あるわけでもなく、ヌルっとサビに入っていく

サビのコード自体は半音下げのG-A-Dで「存在証明」と変わらないのに、Bメロが少しヒネているせいか、明快さは大きく異なる。

 

その昔、ジョンメイヤーのアルバムを買ったことがあるが、殆ど理解できずに聞くことがなくなった

スルメ曲満載!という、やはりビビッドなポップに目が眩んで手が伸びたのだが、スルメの味がしてくる前に敢えなく吐き出したのだった。

ピロカルピンにも多分その気はある。

刺身かスルメかといえば、スルメだろう。

しかし、化学調味料満載のシュークリームか、天然素材を丹念に漉して作り上げた栗きんとんかといえば、栗きんとんである。糖と脂肪で脳みそをグラグラに揺さぶる強さはないが、口に含んでいるとふわっと感じる上品な甘さがある。

ピロカルピンに西野カナのような分かりやすさを期待していると大いに怪我をするので要注意である。

 

 

曲げない音楽性

僕が持っているピロカルピンのアルバムは以下だ。

 

落雷

落雷

 

 

 

幻聴と幻想の現象

幻聴と幻想の現象

 

 

 

宇宙のみなしご

宇宙のみなしご

 

 

 

太陽と月のオアシス

太陽と月のオアシス

 

 

どれも古いものばかり。インディーズの頃の作品がほとんどだ。

 

ピロカルピンは、今年の5月にニューアルバムをリリースしたという。

ピロカルピン「ノームの世界」インタビュー (1/4) - 音楽ナタリー 特集・インタビュー

 

リードトラックが、「グローイングローイン」

www.youtube.com

 

キャッチーではある。

ラララ

変わり続けてく

グローイングローイン

みんなで歌えそうな社会性がある。

でも、音はびっくりするくらいピロカルピン

イントロの頭で三回キメた後に鳴るギターアルペジオの音色が圧倒的にピロカルピン。サビのバッキングのアルペジオもまごうことなきピロカルピン。

全くブレがない。 

 

さらに「小人の世界」

www.youtube.com

 

分かりやすさはない。こじれまくった知恵の輪をぶん投げられている気分である。

 

録音環境が変化したなどの記事を見かけたが、本質は変わっていない。

とかくメジャーデビューをすると各所からの風当たりによって音楽性がなびくアーティストが多いと伺っている。資本主義に、商業ベースに乗るということは、社会に迎合していくということだ。

世知辛い環境で、ピロカルピンは見事にピロカルピンで居続けている。ピロカルピンのまま、社会が振り向くのを待っているとも言えるのではないか。

 

 

これから

ようやっとピロカルピンに埋没する時期がやって来ている。

リスナーの音楽遍歴に多分に関わってくるだろうが、J-POPやメロコアの王道に埋没してきた僕のような人間は彼らを理解するのに大変な時間がかかった

 

ひとまず聴き損ねている残りのアルバムを聴こうと思う。

執筆中にずっとYouTubeでピロカルピンを流していたが、自動再生は一人でに進み、今はyogee new wavesが流れている。

今や一大勢力になったyogee new waves、never young beach、cero、suchmosの一派。シティポップと言うのでしょうか。

彼らの音楽はとても聴きやすい。穏やかな気持ちになる。

 

今、街で流れているような音楽とは違うピロカルピン。

だが、スルメも、栗きんとんも、味を占めたらやめられないものだ。胃ももたれない。

 

6年越しの思いの丈を綴った。この曲のメロディが!この歌詞が!と言い出したらキリがなくなるので、細かな所はいつかやってくるかもしれない次に譲る。

ひとまず、以上が僕が聴いてきたピロカルピンです。

*1:僕を追い込んでいた元凶も部活である

sadヶ島

辛いことがあった時、ブログを書きたくなると言った。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

昨日のことだ。

 

さあ、今朝の話をしよう。

年の瀬が押し迫ろうとする今、僕の部署は最繁忙期を迎える。そのプロローグとも言える本日、いつもよりも圧倒的に早い電車に乗って会社へと向かい、いつもよりも圧倒的に遅い電車で帰る予定であった。それでもルーティンは欠かせない。早起きはしても普段のリズムは変えず、弁当を作って、作りながら身支度して、会社へと向かった。

やはり、ある程度の集中力と段取りが求められる。僕は珍しく電車の中で集中していた。普段はゴミクズみたいにスマホをポイポイしているのだけれど、今日に限ってはメモ帳とにらめっこである。にらめっこしても働きは割とゴミクズである。それは置いておいて。

散々今日一日をぶん回す方法を反芻して、勤務地に着き、改札を出た時に気がついた。

僕は身軽になっていた。

 

そう、弁当を電車に置いてきたのであった。

 

まず、頭に浮かんだのは今日という日に弁当を作った労力を無に帰した罪深さである。つまり簡単にいうと、「せっかく作ったのに悔しい」ということである。入れ物よりも中身の後悔が先に立った。

何を好んでクソ忙しい一日の前に弁当を作ったのか。

起床後のまどろみも秒単位で脱ぎ捨てようと、起きた瞬間にミンティアのコールドスマッシュを大量投与して腹を痛めた結果が、益に全くならない身軽さであったとはいかなる不可思議。消えて無くなりたい。消えて無くなったのは弁当箱。

 

中身もされど、外身も失った。

僕は節約の原資を根こそぎ電車に刮ぎ取られたのだ。ついでに水筒も。あと携帯歯ブラシも。

でも正直、弁当箱は満身創痍の状態であった。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

こう言ったことで、ボロボロだったので、買い替えのタイミングだったんだねと自分を慰める。

 

 

夜になってみて自らに降りかかった災難をやっと飲み込めてきた。やる気を見せた身から出た錆であったのだが、それでも納得するには時間がかかった。

ひとしきり落ち着いた今思うのは、あの弁当箱これからどうなるのだろうかってことだ。

 

車両冗談に鎮座している袋を駅員さんが見つける。

開ける。

誰のだかわからない弁当と水筒と歯ブラシが入っている。

しかもなんか重い。中身が入っているようだ…

 

このあとどうするだろう。

遺失物として処理されるだろうが、箱の中とかを確認するだろうか。何処の馬の骨ともわからない奴が置いて行った弁当箱を開封するだろうか。

否。

開封しないとみた。だって気味わるい。すると密封されたままきっと今もどこぞの駅事務所に置いてあるだろう。

かと言って、簡単に捨てられもしない。

嘘でも人様の物である。苛立つ乗車客を天使のごとく宥め賺す駅の方々が、そうやすやすと人の物を捨てるわけがない。必ずしばらく取って置くであろう。はて、すると中身の白米と玉ねぎと鶏肉と人参の卵とじはどうなるのだろう。腐るのか。腐ってしまうのか。

それは悲しい。断腸極まりない。

例えば僕が「持ち主です。捨ててください。」と電話したら済むことなのだろうか。ひと思いに処分の英断を下してくれるか。なんとなく捨てない気がする。本人確認云々と言われて、話がこじれていきそうな気がする。

すると、だ。

僕が迎えに行かない限りは弁当は腐り続ける運命にあり、例え迎えに行ったとしてもその時点ですでに腐っているなんてことが想像できる。

どうしたらええねん。私、どうしたらええねんな。

 

とりあえず明日あたりに駅に電話してみようと思う。

並びに、新しい弁当箱を買うこととする。

 

ちなむと佐渡ヶ島には行ったことないです。何が美味しいのか存じ上げておりませんが。行ってみたいです。

恨みつらみをエンジンに

今週のお題「私がブログを書きたくなるとき」

楽しくて、幸せで、何もいらない、もう、何もいらない!

って時には本当に大抵何もいらないのだ。ゲームみたいな非現実の世界に埋没する必要もなければ、ブログみたいに日本語を駆使して自分を切り売りしなくたっていい。

ブログを書くということで文字と文章を吐きだしてはいるが、消費しているというより、吐きだした文章で心のデコボコを埋めているイメージに近い。一種の精神衛生を保つツールとして、ブログは優秀である。

 

久しぶりにあった友人と話す時、弾む話題の多くは辛い記憶だったりする。猛烈な説教や土砂降りの中の練習。もう2度とやりたくない記憶ほど、離れた時に面白さが増していく。なぜかデフォルメされて生々しさが抜け、カジュアルな記憶として残る。

文章にすると、その作業を自己完結で成せる。しかも時間の力を借りなくてもいい。

恨みつらみ苦しみの類を、どれだけ面白おかしく綴れるか。どれだけビタッとくる表現を用いることができるか。感情を大喜利のお題にしているに等しい。昇華してしまうのである。

 

気づいたら何千字と書いてしまうような、筆の滑る題の裏側で僕は泣き、僕は苦しんでいる。こいつの文章、今日はやけに滑らかだな。饒舌だな。そう思った日、僕は相当辛い思いをしている。以下にいくつか例をあげるので、是非とも読んでほしい。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

でも、それでも、本当に辛いことや苦しいことはブログに書けなかったりもする。

話したいことはいくつもあるけど なかなか言葉になっちゃくれないよ

話せたとしても伝えられるのは いつでも本音の少し手前

BUMP OF CHICKEN「ベル」の一節。

全く同じ気持ちである。少し手前が一番面白くて、踏み込むと、ただ辛い。少し手前を綴りつけて、核心は包み隠してしまう。大切なところは昇華できないものなのだろう。

おざなりな恨みとつらみがエンジンとなり、今日も書く。

みんな悩んで大きくなるのである。

晩秋

終わりの始まりという言葉が似合う月が始まった。

 

日本流の一年間にはふたつの終わりがある。12月と、3月。一年の終わりと、年度の終わり。どちらも区切りだ。なんで至近距離でふたつも終わりがあるのかと、小さな頃不思議に感じたものだ。

 

ひとつの終わりへ向かう滑走路の端。11月。

ハロウィンが文化として根付いて久しいが、終わった途端に世間はクリスマスまでまっしぐらに進む。京急のエアポート急行の如く、数多ある駅をすっ飛ばしてクリスマスにたどり着き、お正月へと押し出される。このときのクリスマスとお正月の関係は、羽田の国際線ターミナル駅と国内線ターミナル駅の関係に近い。

 

一番好きな季節は?と聞かれたときは、秋が好きだと答えている。

どの季節も嫌いじゃない。かといって特別好きな季節があるわけでもない。だから本当のところどの季節だっていいのだけれど、生まれた月が9月なので、なんとなく秋がいいかなと、その程度だ。

花粉にも気付くことなく、適当に紅葉を愛でて、日が短くなるのを憂う。幸せなものである。

 

秋と十把一絡げに言うが、秋も初秋、中秋、晩秋と分けたとする。

春夏秋冬の中では好みに大差はないと話した。だが、初秋、中秋、晩秋だと、好みが出てくる。

 

晩秋を一番好まない。

晩秋の変化はめまぐるしい。めまぐるしいクセして、のっぺりしている。暦と季節の滑走路を猛スピードで冬に向かう道すがらを特段楽しまさせてくれるわけでもなく、あっという間に冬。スプレーしたような薄い雲が、季節が進んだ後の残像だろう。

冬は冬で嫌いではないけど、秋の終わりと冬の入り口はやっぱり寒いし、切なくもなる。

何しろ一つの終わりがやってくる季節。師走へ、年の瀬へ。初秋の夏の角が取れたような陽気や、中秋の澄みだした大気に浮かぶ月を全部置き去りにしていく。冬にテイクオフする直前の、始まりの1日。